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「俯いたまま大人になって 追いつけない ただ君に晴れ」

初めに

 「明日のたりないふたり」の感想のつもりで書いていたのですが、山里さんと若林さんへのラブレターみたいになってしまいました。途中で内容が自分語りにすり替わってたりもしますが、それもごめんなさい。先にことわっておきます。あと、「明日のたりないふたり」を見ていない人は見なくて大丈夫です。これから見る人は、見終わった時に覚えていたらまた見に来てください。

熱量と人間関係の美しさ

 「明日のたりないふたり」、本当に最高のライブでした。客席側から若林さんが叫んだあたりから配信が終わって30分経つくらいまで、涙が止まりませんでした。こんなに泣いたのは、後にも先にも「ナナメの夕暮れ」を読み返した時ぐらいしかありません。どちらにも共通して、自分の中を渦巻いていた思考が晴れた感覚がありました。自分が触れていたものに既に答えが書かれていたのに、それを読み取れてなかったばっかりに悩み続ける毎日。それが、今回のライブを見た後もありました。それについては後ほど詳しく書きたいと思います。
 今回ライブを見るにあたって、Huluで過去のたりないふたりを改めて見返しました。見ている中で、初めて見た時はシンプルにバラエティ番組として見ていたんだなと感じました。テレビでたりないふたりをレギュラーでやっていたその当時の山里さん・若林さんの熱量、ラジオでのやりとり、二人の関係性といったバックボーンは全く知りませんでした。結局、「エモさ」は知識なので、知識がなければ感じ取れないものがあるのはしょうがないです。去年深夜ラジオを本格的に聴き始め、それとほぼ同時期に「たりないふたり〜春夏秋冬〜」が放送され、そこで初めてリアルタイムでの山里さん・若林さんのやりとりと熱量を肌で感じることができました。春・夏・秋と放送されるたびにHuluに加入し直して、過去のたりないふたりを見返しました。今年一年でお二人が出しているエッセイを読んだり、今年の2月下旬から3月頭にかけてのラジオのやりとりや最後のライブへのそれぞれの思いをリアルタイムで聴いたりしました。そういったものの録音だったり配信されているものだったり、現時点で合法的に摂取できるたりないふたりの要素を今一度全部摂取した上で今回のライブを見ました。主におふたりのラジオを聴いている中で、自分のファンやリスナーとしての‘歴‘が短いことに心のどこかで後ろめたさを感じていました。でも、そんなことが全部吹き飛んで帳消しに感じれるくらい、この最後のライブの熱量をリアルタイムで感じ取れたこと、解散という瞬間に自分が立ち会えたことがとても光栄です。こういう言い方されるのはあまり好きではないと思うのですが、まさしく“生き様”を見せられたなと思います。
 今回のライブで「人間関係の美しさ・素晴らしさ」というものを人生で初めて感じました。シンプルに、サンパチマイクを挟んで相向かいで漫才をするお二人の姿に魅せられました。漫才が始まり、そこにあるのはお互いがこれでもかというほどに信頼しきっている姿。こんな関係、漫画とか映画とか小説といった“作り上げられた世界”にしかないものだと思っていました。僕の人生はそんな語れるほど美しいものじゃありません。涙が出るほどの友情というものに触れたことがなかったので、創作活動でそういった物語的なことを作れたら人生が満たされるのかなと思っていた時期もありました。漫画を描くとか小説を書くとか曲を作るとか。でもそんな才能、僕にはこれっぽっちもありませんでした。これを言うと厨二病チックに聞こえるかもしれませんが、僕は「才能は世界を作り上げる」と思っています。物語を作り上げる才能、漫画を描く才能、音楽を作る才能。それらがあれば架空とはいえ独自の世界観を作り上げられて、現実世界と重ね合わせて感情移入できてしまうぐらいの人間関係の複雑さを再現することができます。それを、おふたりの天賦の才でもって”現実世界”で、リアルで、バチコーンと見せつけられました。本当に感動しました。

感謝①「たりない」

 おふたりには感謝してもしきれません。まず「たりない」という言葉を生み出してくれてありがとうございます。山里さんのたりなさ、若林さんのたりなさ、CreepyNutsが歌うたりなさ、視聴者それぞれのたりなさ。それぞれのたりてないものは違うけど、「たりない」の一言でどこか分かり合える。この言葉がなかったら交わることはなかったかもしれないし、SNS上だけかもしれないけど同じ土俵でお互いのたりない部分を言い合うことができます。もう、「たりない」というラベルには感謝しかありません。

感謝②「背中」

 そして、たりなさの中でもがく背中を見せてくれてありがとうございます。「たりないふたり」を追っていくにつれ、おふたりの構図が「いつまでもたりないままの山里」と「割り切ることで少しずつたりてきている若林」になってきているな、と‘僕は’感じました。
 そんな中「さよならたりないふたり」にて、山里さんが結婚を機に妬み嫉みに頼るやり方を捨てようと気持ちを吐き出すシーンがありました。そこでの山里さんの発言でひとつ引っかかることがありました。それは「大好きな笑いの取り方だからやるとは思うんだけど、ある程度。」という部分でした。(途中になって申し訳ないのですが、僕はおふたりに「たりないままでいてくれ」と思っているわけではありません。たりないふたり さよならver.の歌詞の「足りないままも捨てがたい けど幸せな二人も見たい」の部分に全てが詰まっています。おふたりのことはたりてても好きです。これは未来永劫です。)とにかく、「完全に捨てるわけではないのね」と、妬み嫉みの山里さんをこれからも見られる事実が純粋に嬉しかったです。
 そして、今回のライブでそのモヤモヤが晴れました。

【まだ俺ならやれる。そんな気持ちが、たりてる側への憧れを抱かせる。“擬態”でいいからそちら側へ、と思わせるほどに。でも世界はそんなに都合良くはないのだと。だからたりないままでもいい。】

それがおふたりが12年かけて見つけ出した答えでした。環境が変わっても“人間”まで変わる必要はない。つまり、「さよなら」の時の山里さんはあれで別に正しかったわけです。そう考えたときにスーッともやもやが晴れました。そんな中で僕は「昔に、たりてる側に行けないことを知っていたかったな」というような言葉が僕は忘れられません。おふたりがたりないふたりの12年間で導き出したこの答えは、おそらく僕が人生をかけても導き出せないような答えです。恥ずかしながら、ナナメの夕暮れを読んで以降、自分なりにいろいろ考えて「たりない」からどうにか抜け出せないかと色々考えてしまっていました。皮肉なもので、人の教えを素直に受け入れられないのが人間です。たりないままでいいと言われても、そう思い切れるようになるためには相当な勇気と根拠が要ります。すぐその結論を受け入れられない自分が嫌ですが、少なくともこんな自分でも肯定してもらえた気がしています。僕より20年と少し先でたりなさに呑まれながら進むおふたりの背中は、僕がこれから導くべき解法そのものです。これから先、僕が生きていく中で導き出す答えがおふたりと同じだったら嬉しいなと思います。もし導き出せたとしたら、それはおふたりのおかげだと思います。おふたりがいなかったらもう少し時間がかかっているかもしれないし、そもそも導けていないとも思います。
(もしそんな日が来たら、自意識過剰だなんだを考えている中で自分で出した答えが若林さんと同じだったと気づいたときみたいに朝方に自分の部屋で泣いてると思います。)

感謝③「Creepy Nuts」

 そして、僕にCreepy Nutsを知る機会をくれてありがとうございます。Creepy Nutsはラジオよりも先に曲の方を知りました。おふたりがいなかったらその順番が逆だったと思います。でもそのおかげで、1年くらい早くCreepy Nutsを知ることができたと思います。ライブ前の1週間ぐらいから、BABY BABYとただ君に晴れとたりないふたりの3曲をぶちこんだプレイリストを聴きまくりました。こうして改めてたりないふたりの歌詞を一文字ずつ噛み締めて聞いていて、そこにも答えが書いてあったことに気がつきました。たりないふたりの歌詞は全部が刺さる歌詞なので、細々と抜粋してたらキリがないのでやりませんが、悩んだ末に導き出した答えや求めていた答えが歌詞に書かれているので歌詞一文字一文字に注意して聞く価値、大ありです。

たりない側たりてる側

 たりてたら、失敗しても目の前のことから吸収して学んでいける。でもたりない人は、たりてないが故に失敗し、何がたりなかったのかを探すことで頭がいっぱいで、学ぶことそっちのけでそれだけをずーっと考え続けてしまう。改善策を吸収することよりも改善点を探すことに必死で、でも考えても答えは出なくて、考えて、考えて、考えて、原因を他者になすりつけてみたり、逆に開き直ったり、改善策を探すべきなのにそれを見失って、結局失敗する。
 山里さんの言葉を聞いてなるほどなと納得してしまいました。

まとめ

 ここ一年で、11年分のたりないふたりを爆速で追いかけて、勝手に自分を重ねていました。今回のライブを見て、改めてたりない側の人間で本当に良かったなと強く思います。月曜の夜からパソコンの画面にかじりつく2万人のたりない奴らの1人で良かったし、おじさん芸人ふたりの即興漫才を見て泣くような人間でよかったし、生き様見せつけられて泣く人間でよかったです。

 まだ僕には空は綺麗に思えないけど、いつかそう見える日が来たらいいなと思います。

 僕も、たりなくてよかったです。

雑筆

 「たりない」という言葉を知ったことで、僕自身「あの時のあれは自分がたりなかっただけなんだな」と腑に落ちることがいくつもありました。それに大学生になってようやく気づいたわけです。今年でもう二十歳です。もっと早く気づけていればもう少しマシで生きやすい人生だったのかなと考えてしまいます。人の目をどうしても気にしてしまって、自分は下を向いたまま大人になりかけていましたが、そんな人間でも前を向いて、もがいて生きる権利くらいはある。そしてそれを提示してくれる指針として「たりないふたり」があります。僕の倍以上人生を歩んでいるお二人です。僕なんかが考えていることよりも何倍も濃くて深くて中身のあることを考えていると思います。20年も先を歩く先陣の背中に追いつけるわけはないんだけど、たりないことでもがいて、それに対する答えを一旦導き出したおふたりには、僕は心から幸せであってほしいなと思います。もちろん、5年後、10年後、20年後、30年後の四苦八苦するおふたりのことも応援しています。




無いものだらけで 無いものねだりな
最低のろくでなし 俺ら プライドにまみれて
ハートが壊れた サイコなお友達

(Creepy Nuts/たりないふたり)



#149「俯いたまま大人になって 追いつけない ただ君に晴れ」

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