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人それぞれ

そう、人それぞれ。
あれもこれも、今悩んでるやつも、人それぞれ。
無責任で根拠もないけど、漠然と、人それぞれ。

少し前に見つけたとある恋愛指南系YouTuber(そんな分類があるか知らない。)がいる。
「脈アリサイン」だの「効果的な誘い方」だの「デート中にするとで喜ばれる気の使い方」だのを動画にしているが、僕が本当に好きなのはその動画のコメント欄の方である。
僕もこのYouTuberの動画を見ている以上、ある程度のプロトタイプや模範解答などが知りたいわけである。
恋愛をしてこなかったというコンプレックスを埋めるためには、有識者から学ぶしかない。
そして、それを周りの友人に聞けるメンタルは備わっていないため、一方的に情報提供をしてくれるYouTuberに行き着いたというわけだ。

このYouTuberさんは割と主語が大きめなことが多く、話し始めが結構な頻度で「女子って」「男子って」だったりする。
そして、ぶら下がってるコメント欄も同じように主語がデカい。
「女子ってめんどくさいよな」だのとのたまう輩の多さについ吹き出してしまいそうになる。(僕もそのコメント主と同じ穴のムジナなんですけどね。)
当該YouTuberもコメントしている人も少々大きな主語を使うが、それだって「人それぞれ」なのだ。
そうではない女子・そうではない男子・部分的にそうな女子・部分的にそうな男子などと細かく分けられ、さらに常にそうであるとは限らない。
時と場合、相手によって変化することだってあるだろう。
僕みたいな人間とは違い、上手にこの世を生きることができている人たちはその「人それぞれ」への探り入れが上手いのだろうと推察する。
それゆえに、それができない人間は、持ってるだけでいい模範解答やプロトタイプというものを欲してしまう。(僕含め。)


「恋愛をしてこなかったというコンプレックス」というのは具体的にどのような部分に感じているのかというと、僕の場合は単純な場数の部分である。
こちらがあーだこーだと心配事を垂れている部分から匂っているであろう、人生の圧倒的な周回遅れ感。
そしてそれは「そんなん中高生の恋愛で折り合いつけるもんだろ」という言われてもいない言葉への恐怖に由来しているものである。
先ほども書いたが、こういう人は「有識者から学ぶ」という選択肢を取る。
その理由は「恋愛経験や付き合った人数が多い人の方がトライアンドエラーを繰り返していて模範解答を知っている可能性が高そう」だからである。
さらにその根底には「恋愛経験をつんでいる方が世間的に正義」というマジョリティの意見が潜んでいる。

「アイデンティティのための恋愛」という考え方がある。

エリクソンが唱える「発達段階」によると、13-19歳の「青年期」でアイデンティティは確立されるものとされている。
そして20-39歳の「成人期」で、孤独と親密性の間で揺れた後に親密性を獲得するとされている。
近年、大学進学をする人の増加や結婚年齢の上昇などによって「青年期」が延長されている。
それにより、「青年期」と「成人期」が重なる期間が生じ、それが大学生である。

ここで「恋愛とは」という話だが、今回はとある論文を参考に、「感情と、他者とのつながりを通じた全生活のつながり」「自己のアイデンティティを確立するための営み」とする。

「青年期」に行われる恋愛はまさしく「自己のアイデンティティを確立するための営み」と言える。

「青年期」の延長により「成人期」と重複する中での恋愛は、「アイデンティティのための恋愛」と呼ばれることがある。
「アイデンティティのための」の部分は「青年期」に獲得しておくはずだったアイデンティティ。
「恋愛」の部分が「成人期」に獲得していく親密性。
そしてこれらを同時に獲得しようとすることを要する時期が、主に大学生の時期となる。

アイデンティティが確立していない者同士の恋愛(=アイデンティティのための恋愛)は、難しいと言われている。
その理由は、”恋愛”をするために仮で成り立っている“アイデンティティ”の部分がやわだからである。
相手からの賞賛・賛美され続けることでしか保つことができないそのアイデンティティは非常に脆く、結果としてアイデンティティのための恋愛」は長く続かないことが多いという。

そうした時に頭に浮かんでくるのは、「中高生での恋愛に意味があるのか」ということである。
そこでいくら場数を重ねようが、それは「自己のアイデンティティを確立するための営み」の一つでしかない。
この時に争うべき土俵は「恋愛をどれだけしたか」ではなく「アイデンティティがどれだけ確立したか」でなくてはならないはずである。

もしこれから僕が仮に恋愛をするのであれば、それは例に漏れず「アイデンティティのための恋愛」である。
少し前のnoteにおもいっきし書いてしまっているが、めちゃくちゃ「賞賛・賛美」を欲してしまっている。
現状の僕がアイデンティティを獲得できていない以上、言っていることはただの僻みでしかない。
その上でもう一度言うが、中高生での恋愛の本質はあくまで「アイデンティティを確立するための営み」であり、「場数をどれだけ踏んだか」自体には直接的な価値はない。


「恋愛経験をつんでいる方が世間的に正義」というなんとなくの雰囲気があるが、これには異議を唱えたい。
経験をそれだけ積んでいるかというただの数値よりも、アイデンティティが確立しているかどうかというたった一つの事実の方が重要である。
恋愛をすることでアイデンティティを確立できたのであればそんなにおめでたいことは他にないと思うが、「アイデンティティを確立するための営み」は恋愛以外にもあるはずである。
いや、あってくれないと困る。
「元恋人が何人いるか」みたいなしょうもないことでマウントを取る低俗な輩に、これからも蔓延られては困るのだ。


場数に本質的な意味はないのだから、「恋愛をしてこなかった」ことにコンプレックスを感じる必要はない。

そう自分に言い聞かせる。


ここで、「人それぞれ」の話に戻る。
恋愛に係るやりとりのプロトタイプや模範解答を知ることに意味はない。
だってそれは「人それぞれ」だから。
それに当てはまらない人がいるのだから、意味がない。
そんなことを知るよりも、"「人それぞれ」への探り入れ”を上達させることの方が重要に思える。

そしてそれに必要なのがコミュニケーション能力なんだろうなと思う。

ただ、生まれ持って高いコミュニケーション能力がある人は、中高生で恋愛の場数を踏んでいたり、それ自体がアイデンティティになっていたりするような気もする。


#283  人それぞれ


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