第66回「岸田國士戯曲賞」受賞予想(落 雅季子×河野桃子)

毎年、演劇界で大きな注目を集める岸田國士戯曲賞。同賞候補作について、演劇ライターの河野桃子さんとともに、解釈を話し合い、大胆に受賞予想する対談を今年もおこないました。(落 雅季子)

第66回岸田國士戯曲賞最終候補作品一覧(作者五十音順、敬称略)

小沢道成『オーレリアンの兄妹』(上演台本)
笠木泉『モスクワの海』(上演台本)
加藤シゲアキ『染、色』(上演台本)
瀬戸山美咲『彼女を笑う人がいても』(「悲劇喜劇」2022年1月号掲載)
額田大志『ぼんやりブルース』(「悲劇喜劇」2021年11月号掲載)
蓮見翔『旅館じゃないんだからさ』(上演台本)
ピンク地底人3号『華指1832』(上演台本)
福名理穂『柔らかく搖れる』(上演台本)
山本卓卓『バナナの花は食べられる』(上演台本)

※選考委員は岩松了、岡田利規、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、野田秀樹、矢内原美邦の各氏(五十音順、敬称略)

白水社ホームページより


※最終候補作品は2022年3月1日までの期間限定で公開中ですhttps://www.yondemill.jp/labels/253

 私自身は7回目の予想となりますが、河野さんとの対談も4年目となりました(第65回)(第64回)(第63回)。ここ最近は最終候補8作品で安定していたので、9作品選ばれたのは多いなと感じつつ、旺盛な作品がたくさん残ったのではないかと期待しました。

河野 バラエティ豊かで、9作並ぶと宝石箱みたいにカラフルで、わくわくしながら読みました!しかもどの作品も面白かったです。今年も候補者や白水社が戯曲公開してくださりとてもありがたいですね。戯曲賞候補としては、意図的に傾向の違う作品をノミネートしたのかなと思います。

 この対談では私たちが「これが受賞するのではないか」という予想と、一作ずつ読んだ上で個別の話をしていきましょう。

<受賞予想>
 私は、瀬戸山美咲さん『彼女を笑う人がいても』加藤シゲアキさん『染、色』をダブル受賞で予想します。それぞれ単独で抜きんでていたというより、どちらも少し、単独受賞には届かないという見立てなので消極的で申し訳ありません……。ほかに選考委員の推薦が入る可能性があるのは山本卓卓さん、笠木泉さんで、今から語る私の個別評価としてもそうなります。

河野 皆さんそれぞれ個性が違って面白かった。その中で、戯曲賞としての受賞予想と考えると、私は瀬戸山美咲さん『彼女を笑う人がいても』ピンク地底人3号さん『華指1832』のダブル受賞かな。笠木泉さん『モスクワの海』もすごく迷いました。

 ではまず、われわれ二人ともが受賞すると予想した瀬戸山美咲さんの作品から一作ずつ見ていきましょう。

※いずれも作品の内容あるいは結末に触れています。

1. 瀬戸山美咲『彼女を笑う人がいても』

作 瀬戸山美咲 
演出 栗山民也
東京公演
[日時]2021年12月4日(土) ~ 30日(木)
[会場]世田谷パブリックシアター・福岡市民会館・大ホール・刈谷市総合文化センター 大ホール・兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール

<あらすじ>
2021年、新聞記者の伊知哉は自分の仕事に行き詰まっていた。入社以来、東日本大震災の被災者の取材を続けてきたが、配置転換が決まって取材が継続できなくなってしまったのだ。そんなとき、伊知哉は亡くなった祖父・吾郎もかつて新聞記者であったことを知る。彼が新聞記者を辞めたのは1960年、安保闘争の年だった。吾郎は安保闘争に参加する学生たちを取材していた。闘争が激化する中、ある女子学生が命を落とす。学生たちとともに彼女の死の真相を追う吾郎。一方で、吾郎のつとめる新聞社の上層部では、闘争の鎮静化に向けた「共同宣言」が準備されつつあった……(公式サイトより)

 取材や調べたことをもとにして戯曲を組み立ていくと、他者に説明するための間接話法がどうしても多くなって、柔軟性に欠けてしまうこともよくあると思うのですが、今作ではたとえば1960年の東大生・山中誠子の台詞「彼女のことが怖いからです」のように、抽象性を持ち出すことで、瀬戸山さん自身の、彼女(=闘争で命を落とした東大生・樺美智子さん)の解釈や存在感の深みをぐっと出している。彼女の不在が効いてると感じました。瀬戸山さんは4度目のノミネートで、私はこれまで最終候補作を精読したことが二度あります。その中でもこれは一番良い作品だったと思います。

河野 私もそう思います。会話も構成も整理されていて、他の演出家(栗山民也さん)に書き下ろしているからかもしれないけど、ト書きも端的で明確です。二つの時代の中心人物を同じ俳優が演じるのも、時代を繋ぐ様子がわかりやすいです。

 時代の重なりがわかりやすく見える理由は、あと二つある。ひとつは、ボランティアサークル設立者の松木孝二という人物が存命であることによって1960年と2021年を繋いでくれるから。もうひとつは、2021年のストーリーは時間がゆるやかに進んでいくけれど、1960年サイドは「彼女」が亡くなる6月15日にフォーカスが当たって動かないから。両方で時間が経過するということがないので、構造にメリハリが生まれている。

河野 二つの時代ともに、下調べが丁寧にされていました。それにより客観性と登場人物の主観と両立させ、時代を越えても変わらぬメディアへの批判性があり、今まで以上に社会的な問題提起に踏み込んでいる印象です。でありながら登場人物の人間らしさについては、言葉選びに性格があらわれているなと思いました。たとえば東北で除染作業に従事しながら体調を崩す俊介の「僕らはただ能力が足りないんです」「頑張りが足りないんだと思います」(P21)など、能力や頑張りのせいだと思っちゃう人だから負の連鎖に入ってしまうんだなと……とやるせない気持ちになりました。

 これまでの瀬戸山さんの作品では、劇作家の意見とおぼしき言葉を、物語が悪い方向に行かないうちに登場人物に代弁させ、もっとも露悪的に物事が見える瞬間の可能性を防いでしまうということが時たまあったように思うんです。今作は大手新聞記者を主人公に描いたからこそ、正論を張り合う台詞の応酬がはまった。新聞社主筆の大介は、タイトルにある「彼女を笑う人」なんだと私は読みました。

河野 1960年の主人公・吾郎と上司の大介の対立は印象的でした。それぞれに主張があり、どうしてもぶつかってしまう現状が描かれていて、マスメディアのあり方の矛盾や問題提起になっている。対立する個人を描きながら社会問題が浮き立っています。

 この場面がクライマックスかなと。市民の味方のふりをして市民は馬鹿だと思っているんだっていう屈折、吾郎の中にあったかもしれない欺瞞をきちんと指摘したというのは見どころです。ラストシーンはどう思いました?

河野 ラストまでかけて浮き上がってきた「彼女」の生き方とともに、震災の被災者である梨沙の選択が力強いですね。傘というビジュアルで見せるのもわかりやすいです。

 まさに冒頭の「過去は現在を作り現在は過去に意味を与える」という冒頭のト書に基づいて組み立られていたと思います。伊知哉と梨沙、先の世代まで問題は続いてここでは終わり得ないと考えると、誠実な結末でした。「彼女」と山中誠子のかすかなシスターフッド、男性中心の運動の現状の中で女性二人のつながりが示されていたことが、単に時間軸を対比しているだけでなくてよかった。当時の根強いジェンダーバイアスへの違和感に今、光を当ててもらえて女性の私は特に、胸の奥がすっとした感じもあって……。

河野 気になることがあるとすると、近い時代を描くからこそおそらくストレートであることと、樺美智子さんや60年安保の描き方が、当時とその後を知る方々に肯定的に写るのかどうかはわからないんですよね。

 だからこそ瀬戸山さんなりの解釈で書けたのではないでしょうか。2021年は学生が大学に通うことも引き続き難しく、学生同士の触れ合いも少なくなった年。大学構内にひしめきあっての学生運動という、現在二重の意味でかなわない事象のフィルターがかかっていると私は読み解きまして、その相乗効果で時代を刻んだ作品になったと思いました。

2. 山本卓卓『バナナの花は食べられる』

作・演出:山本卓卓
[日時] 2021年3月25日(木)〜28日(日)
[会場] 森下スタジオ Cスタジオ

<あらすじ>
2018年夏。33歳、独身、彼女なし、アルコール中毒、元詐欺師前科一犯の“穴蔵の腐ったバナナ”は、マッチングアプリ・TSUN-TSUN(ツンツン)に友達を募る書き込みをする。出会い系サクラのバイトをしていた“男”は、釣られているとわかりながら課金してきたバナナに興味を持ち、彼と会ってみることにする。「人を救いたいんだ・・・」と言うバナナと男はいつしか、僕/俺「ら」になり、探偵の真似事をしながら諸悪の根源を探しはじめる。(公式サイトより

 上演を観た当時を思い出して二度三度と読み込みました。誠実な作品ではあるけど、上演された「2021年3月25日から28日」のための作品という印象が強くあり、彼はこの時代を乗りこなす手腕を持ったうえで、軸を時代性におかない作品もこれから書くだろうと思わされた。森下スタジオで、劇場で観劇する喜び、その時間を過ごすことで伝わるものがあると信じる劇作家と演出家、俳優の力を実感したのは強く覚えています。

河野 今回山本さんは3度目のノミネートです。2021年末に上演された『心の声など聞こえるか』もとても良かったです。情報量が多く、密度が濃くて、切実さがある。けして社会的強者とはいえない人達が出会い、‟私”が‟私たち”になり、誰かを助けたいと行動していく展開はぐっときました。

 斡旋業をしていた4が記憶を失った部分にしろ、彼が顔を見せた瞬間に5(アリサ)の過去が引きずり出される部分にしろ、何があったかは全く描かれない。これはミステリじゃないから、すべてが明かされることは私も望まないけれど、説明しなくても良いように上演を疾走させる推進力はかなり、俳優に依拠していますよね。上演として疾走していれば説得力を持って立ち上がるんだけど、戯曲で読むと、「足りないピース」を足りないままにした必然性が感じられない気がして……。ガクガクした上り坂のようでスムーズに追いかけるのが難しかったかな。あえてそうしたんだとしてもなぜあえてなのかが分からない。すごく面白く上演を観たし、救われた観劇体験だったんだけど。

河野 ピースが足りないとは思わなかったです。説明されないことは、むしろファンタジー的な展開になることを助けている気がしました。

  登場人物は、主に3が、自分たちの存在がファンタジー、フィクションであることに自覚的な振る舞いをする。ファンタジーである彼らが、生死というテーマに奔走する構造はどう読みましたか?

河野 生死と向き合わざるをえない設定からは、切実さがありました。死期が見えてしまうというファンタジー的な展開になるけれど、社会的弱者であるほどに身体的にも精神的にも死期が迫ることは切実になってきた。だからこそ、誰とどう生きるかという問いに答えを出していくラストは感動的でした。

 あのラストシーン良かったよねえ。『バナナの花は食べられる』というタイトルは、どのように生きている人も、死んだ人についても存在を肯定する意味に受け止めました。

河野 そうですね、とても良い作品です。コロナ禍でのオンライン企画である、むこう側の演劇『バナナの花』を起点にした新作ですから、配信を観ているとまた違った景色が見えたかもしれないですね。

 3月に上演されたことに意味のある作品だったと述べましたが、選考委員によって選ばれて受賞し、出版されてあの時期の記録が世に残るとしたら、それは素晴らしいことだと思います。

3.笠木泉『モスクワの海』

作・演出 笠木泉
[日時] 2021年12月26日 (日) ~ 12月28日 (火)
[会場] ニュー風知空知

<あらすじ>
放射能の影響で身体を病み、転んでしまった女1を助けようと手を差し伸べる女2。女1の息子は川の側の公園で、かつて通り魔事件を起こした人間に思いを馳せ、自分に音楽を教えてくれた幼馴染の記憶を追う。見つめあう女1と女2の間に流れる時間と、鳥とともに旅立つ男、そして静かに死に向かう女1の言葉と身体。
公式サイト

 面白い戯曲でした。年末の限られた時間での上演だったので観そこねましたが、観たかったなあと心底思った。笠木泉さんはミクニヤナイハラプロジェクト『前向き!タイモン』『桜の園』などに出演されていたのを拝見していました。過去には読売演劇大賞女優賞の最終候補にも選ばれている方ですね。この作品は、女が二人と男が一人という最終候補作の中でもっともミニマムな構成です。ト書きでの俳優の動きの指定がきちんと成されていると思っていて俳優の動く時間、台詞を言うまでの時間がきちんと練られていることが戯曲でわかるし、上演でも効果的に実現するんだろうなと。

河野 読んでいてもその効果がイメージできました。ト書きにある身体的な動きの指定が、作品の背景や世界観を広げている。読んでいて、視覚的な色や、聴覚的な音の変化を感じられるのも面白かったです。俳優の動きにせりふの固有名詞が重なって、動きと言葉の相乗効果があります。イメージがどんどん膨らんで、演劇の戯曲としてとても奥行きがある。

 終始、身体の感覚を意識して読むことができた。三人の登場人物だけで、女1が近所から疎まれていることや、男がすべての男性を演じ分けているのも混乱せず効果的に読めた。ラストにかけて女1が男と話しながら咳込み、力が湧いて立ち上がる場面のエネルギー、素晴らしかったな。候補作の中で戯曲から俳優の力を一番感じた作品。

河野 面白いなと思ったのは、3人の俳優がお互いに見えたり見えなかったりするだけでなく、3人以上の他者の視点・存在が存在していることですね。立ち上がれなくなった老女を助けようとする女を見ている誰か、とか、P29のト書き「誰かに向けて、(誰かとは、わたしたち【観客】に向けて、だろうか)、話し始める」など。台詞を特定の誰かに向けて発さず、その対象がゆらぐことで、存在が揺らいだり、空間が広がったりする。見えないところにも世界があることを感じます。

 このP29に到達するまでに私はだいぶ俳優の身体を感じて読みながら客席と舞台のインタラクティブなセッションの感じを味わってたので、このト書きを読んで改めて引き戻されました。

河野 このト書きの「わたしたち【観客】」という書き方は珍しいですね。ト書きを書いているのは作家なわけですが、戯曲を読むだろう俳優に向けた言葉ではなく、書き手視点でもない。もし小説家なら「私たち読者」とは書かないでしょうから「観客=わたしたち」としているのは印象的でした。ト書きにも、登場人物以外の視点・存在を登場させるのかなと。

 この作品を引きこもり、通り魔事件、そしてチェルノブイリの事故と結びつけて読み解くのであれば、社会の網目からこぼれ、見捨てられた孤独な人々を書いたのかなと。ただ、現代社会は、人間が孤独に至るプロセスがあまりに多様。男と女1にしても、状況が違いすぎるから、それぞれが「孤独である」というだけでは物語としての像は結びきれないのかなとも思って、そこに俳優の身体を使った演劇作品として立ち上げる意味があったんだろうな。

河野 登場人物をさまざまなメタファーとして読むこともできるかなと。女1=原子力なのかな、とか、女1=過去、息子である男=現在、二人を助けようとする女2=未来、とか。

 私も、女1は忘れられ、捨て置かれていく帰れないすべての原発事故の被災者として読んでみたり。それでね、女2が演じる渡り鳥によって、男は助けられたじゃない? この時に私「そうか、鳥は助けてくれるんだ!」って思ったのよね。そのうえで、原発事故に際して、鳥は助けてくれるのに人間は人間を見捨てたんだ、という感覚がどっと湧いてきました。

河野 全体を通して、どう未来へ歩んでいくのかという前向きな意思を感じるようでした。優しく、温かく、強さがあり、それをストレートな言葉ではなく演劇として表現できる、素敵な作品だと思います。

 受賞の可能性があると思って推したい気持ちはありますが、団体としてもまだ二作目なので……すぐではなくても、来年以降、またノミネートされる作品を観たいです。

4.加藤シゲアキ『染、色』

原作・脚本 加藤シゲアキ
演出 瀬戸山美咲
[日時] 2021年5月29日 (土) ~ 2021年6月20日 (日)  
[会場]東京グローブ座

<あらすじ>
深馬は一目置かれる美大生で、恋人や友人、先生から作品を期待されているが、本人は思い通りにならず悶々としていた。気を紛らわすように、街の壁にグラフィティアートを落書きする深馬。しかしあくる日、その絵は自身が描いたものとはわずかに異なっていた。違和感の中で、深馬は何者かの気配を感じるようになり、色褪せていた日常は思わぬものへと変化していく。(ニュースリリースより)

 私は、オンラインで上演を観ましたが、そのときも高く評価しました。描かれている題材自体は大昔から繰り返されている、芸術家の若者の悩み。でも単語の選び方、技術が随所に光っていた。言葉の粒立ちが美しいと感じたし、多少の瑕疵も押し流して私にはすんなり入ってきました。

河野 言葉の選び方、雰囲気づくりが丁寧ですよね。イメージ豊かな文だと思いました。演劇的な表現や展開が意識されていたのも良かったです。ト書きでビジュアルの強さがしっかり指定されているので、ムーブメントなどのパフォーマンスが、絵画というモチーフと合わせればインパクトが残る舞台表現になりそうです。

 引っかかった点は、台詞の言い方の指定、演出がかなり細かくて、シナリオ的なので戯曲として読みづらかったこと。これを全部なくしても、演出と俳優で立ち上げることは出来るのになって。

河野 私は、登場人物がみんなすごく素直だなと思ったんですよね。恋人の杏奈がすぐに本心を打ち明けたり、友人の北見がいろいろ気づきすぎたり、言葉通りの意味で会話していて、台詞に意外性がほぼない。つまりサブテキストがないので、心理描写を読み手に伝えやすい人物造形だなと思いました。演劇は生身の人間が演じるので、デフォルメしない限りは登場人物の心理がわかりきれないことによる奥行きのある表現が可能になります。

 サブテキストが少ないというのはその通りの指摘です。ただそれよりも、才能というものをめぐる残酷な筆致を真っ向から感じたんだよね……。自信がないゆえに良い子に振る舞ってしまう杏奈の若さは確かに物足りなくて気になります。

河野 ただ、今作のように現代日本を舞台にしている場合はサブテキストがあった方が多面的な人間らしさが出ます。とくに加藤さんは文章にとても魅力がありますし、描きたいことの精度も高いですから。戯曲賞としては演劇にしかできない奥行きや行間を表現できたらより面白いなと思いました。

 真未という、幻影なのか象徴なのかわからない人物を舞台上に出現 / 消滅させることに、演劇性を見出していたのかなと。深馬と真未の一体性はある。ただ、物語として彼女が登場するまでにもっと、深馬の切迫感が描かれてもいい。出会いのシーンが丁寧に、言葉少なだったのでゆっくり味わうことはできましたが。

河野 主人公の深馬とほかの登場人物があまり影響し合わない。それは深馬にとって都合のいい人物だなと思います。それが青春っぽいと言われればそうだし、主人公目線の物語という演出にすれば成立するかもしれないです。

 深馬は最後まで、主人公なのに群像の一番奥に配置されていて、「彼の掴みどころのなさ」が「作品の掴みどころのなさ」になっていないのが、良いところだと私は思いました。真未については、夢か多重人格だったのか、ラストで深馬が熱中症が意識を失ったあたりからの構成が巧みで、天井の染みだけが残されている余韻が、うまく表現されていてよかったです。

河野 世界観が統一されて全体のバランスが良いですね。展開も仕掛けもベタではありますが、だからこそストレートに響きやすい。

 ベタなのは、わかる! 深馬の内面をオルターエゴである真未がずけずけ代弁する。中途半端な才能に苦しむ同級生がいる。このベタを、この語彙力で書き抜いた戯曲っていうのが近年の岸田にはなかったんだよ。だから私には、それがカタルシスだったんですよね……。

河野 いろんなジャンルのエンターテイメントのフィールドで培ってきたプロの土台を感じるので、さらに数作読んでみたいです。

5. ピンク地底人3号『華指1832』

作・演出 ピンク地底人3号
[日時]2021年9月9日(木) ~13日(月)
[会場]in→dependent theatre 2nd

<あらすじ>
京都駅から南東に伸びる京阪沿線の高架下に、ポツリと佇むダイナー「water lily」。経営者の桐野京子は、コーダである20歳の息子、ひかると静かに暮らしていた。ある日、ひかるは恋人である森田優子をダイナーに連れてくる。すぐに意気投合する京子と優子であったが、次第に、優子に隠された過去が明らかになる。COVID-19が猛威を振るう中、宙に描く、あなたの指先が燃える時、悲劇が起こる。桃色声劇第二弾である本作は日本手話を本格的に作劇に取り入れた野心作。(公式サイトより)

河野 空気感が強い作品ですね。特定の土地で生きる登場人物それぞれが大切にしているもの、お互いに言えないこと……それぞれが一人の個人として関係しあっています。匂い立つような人物造形もそうですが、ト書きに具体性があることも作品の土台になっています。設定でも、北と南における地域格差がうむ空気が漂っている。それにどれほどリアリティがあるのかはわかりませんが、おそらく地理的には被差別部落地域や在日韓国人コミュニティなどが背景にあるのでしょう。思い起こさせるイメージは効果的で、起こる事件や、登場人物のモデルとなるボクサーからも地域性を感じる。

 そうした土地になじみのある人には、より深く感じるもののある作品かもしれません。 ろう者と健常者のコミュニケーションのすれ違いではなく、 ろう者の人生ドラマを書こうとしているのはわかりました。でもこれ、ろうという設定があってもなくても、人物造形が中途半端で物語が破綻してると思う。軸に据えたいのがこの街の不穏な空気の中で京子が健人に持ち続ける愛情の話ならば、丁寧にすべきは過去においては拓次、現在なら息子ひかるの恋人・優子の描写です。脇のエピソードや設定が断片的なので、最終的に噴き出すダークなイメージまでの波を作れていない。暴力の一例として2001年のパートにアメリカ同時多発テロが出てきたけど、登場人物にどういう影響を及ぼしたのか、像を結ばないままになってしまいました。

河野 どうだろう……中央にあるのは特定の人物や人物関係というより、街全体という印象なんですよね。だから「声(高架下)」が喋っているのかと思ったんだけれど。

 「声」については、最初にある「聞こえる声ではない、見える声がする」というト書きに強烈な違和感があって。字幕でも振動でもない形で見せたいという意識は分かるけど、ろう者を登場させて手話を使っていく演劇において……つまり「音が聞こえる」「音が聞こえない」人物が併存する戯曲において、最初にそのト書きだけで済ませるのは、導入として慎重さが足りないのではないかな。フラットに扱っているのかもしれないけど……。

河野 戯曲だけではわからないけど、単純に「字幕」ってことなのかな。

 だとしたら「声」の紹介を戯曲に丁寧に書かなければ、存在に説得力が生まれないよね。他にも、物語として強引な部分が散見される。ひかるには優子という13歳年上の、料理研究家の恋人がいて、13歳差は拓次の娘かもしれないという疑いを持たせるため、料理研究家なのは、ひかるの実家である喫茶店に介入させやすくするための設定。「設定」だけで手一杯で、全体的に膨らみと必然性が感じられませんでした。健人と拓次の関係性も、匂わせてはあるけれど……。

河野 本当のところはわからないですよね。作中でも「秘密」が強調されています。いろんなことの真実がわからないことについて、妄想することで自分を保っている人間の苦しさが出ていると思います。今作は、9.11とコロナ禍というふたつの苦しい時代を背景に、どちらの時代の登場人物もなかなか辛い結末を迎えます。社会的背景により負荷がかかっていくマイノリティの存在が描かれる。上演の仕方によってはマイノリティ搾取作品になる可能性もないわけではないですが……登場人物はひとりの人間として描かれているので普遍性があります。また明確にされない「秘密」が散らばっていることで、特定の個人に寄りすぎず街全体の不穏さを感じさせる。タイトル『華指1832』がレイ・ブラッドベリ『華氏451度』を想起させるのもいいですね。1832の意味がわかると作中で起きる出来事が予想できてしまいますが……それはあまり気にならないほど引き込む作品だなと思います。

 優子がラットマンに連れて行かれるところが唐突すぎなかったら、他の設定も深みを持って迫ってきたかもしれないけれど、彼女がひかるの恋人として登場する意味があったのか、 そのあたりから綻んでいた気がするな。

河野 ラットマンは象徴的な存在ですね。私がひとつ迷ったことは、おそらくろう者の観劇が想定されているので、上演がどう受け取られるのかは判断がつかないです。演出次第ですよね。戯曲では字幕についての指定はないし、「ろう」の程度や種類も指定されていない。戯曲だけの段階では、演出に選択肢が委ねられているので上演の幅広さがあるかなと思います。

6. 福名理穂『柔らかく揺れる』


作・演出 福名理穂
[日時]2021年11月4日 (木) ~ 11月15日 (月)
[会場]こまばアゴラ劇場

<イントロダクション>
いつだって家の近くでは川の音がしていた
朝は爽やかに、夜は誘い込むような音が響き続ける
孤独と、後悔と、温もりと、広島に住む家族の物語
こりっち公演情報より)

 祖父が川で死んだ出来事が、全体を貫くモチーフとして描かれていて最後までそのイメージで貫かれている。ただし、群像として説得力が立ち上がってこないと言うか……なんとなく全部わかるけど、 もっと上手く見せてもらえないだろうかという消化不良感が戯曲の冒頭からある。私の読む力のなさなのか、すんなり関係性を読み取らせる技術が足りないのか、どっちなんだろう……。

河野 誰かが不在らしいという空気が流れていますよね。この空気が魅力的で、家族のなんとなくの繋がりとわかりあえなさが、明言せずとも言葉の端々から立ち表れている。登場人物も多いのにそれぞれが丁寧に描かれていて、人物描写にとても長けていますね。ここではある家族が様々な苦しさ──不妊治療、同性婚、依存症などを抱えているわけですが、ひとつひとつは丁寧ですが、羅列されている印象です。ただ状況を描いている。しかも書かれていることは、書き手だけでなくできれば観客もこれくらいは日常としてアップデートしていてほしい内容です。そうなると作品としては、状況から踏み出した2~3歩先が観たい。

 いうなれば、平板なポストカードが並べられただけのような印象ですね。幸子が、夫の死を願っていたのではないかと思わせる描写があるけれど、殺したいほど憎んでいて抑圧されていた事実とか、それを汲み取るフックがない、あっても手掛かりとして浅いかなと思って……他に描かれる、ギャンブル依存症や不妊治療についても、やるせない息苦しさは分かるのですが、悩み配置のバランスが良すぎるというか。

河野 ポストカードの例えで言うと、そこに状況を描くのであれば、作家の眼差しや存在感が見えると引き込まれるかもしれないですね。日常を切り取る写真家の表現はそうだと思います。もしくはいくつもの状況を重ねることで物語が動いたり、作品のなかで前提となっていた価値観が後半は変化したりすると、立体的になりますね。背景にある大事件にはほぼ誰も触れないのは面白いですが、もうちょっと違和感が強かったり、崩壊させてくれた方が残るなと思いました。

  違和感が、観客の受動待ちなんじゃないかな。観客の中の素材待ちと言うか。戯曲や演出で引き出そう、ひっくり返そう、掘り起こそうみたいな感じではない。一生懸命読み取るとすれば、たとえば子供が出来ずに別れてしまった良太夫妻と対比して、猫を拾った樹子と愛がその猫を友達に譲り、何か誰かを育てるのでなくでもパートナーシップを結んでいくと読める。ただ、もうちょっと浮き立たせたいところに陰影をつけるデッサンの仕方は、あるのではないかな。

河野 あと、登場人物がみんないい人なんですよね。ダメなところはあるけれどみんな優しいので、人間間の不穏さがあまりない。人ってたぶん現実の方がもっとエグいと思うんですよね。

 唯一不穏さがあるとしたら信雄かな。おじいちゃんにこき使われてもいただろうし15歳のヒカルが寝ているのを触ろうとするちょっと気持ち悪い描写がある。ただ、一瞬で流れてしまうので表層的になり、人間の醜い部分が見えづらい作品でした。

河野 人物描写はとても微細で質感がありますし、行間にも隙がなくて世界観が綿密なので、そこになにか違和感があると踏み込んだ感じがしますね。たとえばすごく単純ですが、舞台の真ん中にどでかい梁が立っているとか……よくわからないけれど終わった後になにかが刺さって抜けないことがあると、読後に残る作品になると思います。

7. 小沢道成『オーレリアンの兄妹』

作・演出・美術:小沢道成
音楽:中村 中
[日時]2021年8月13日 (金) ~ 8月22日 (日)
[会場]駅前劇場

<イントロダクション>
世界中を旅して、
綺麗な洋服を着て、
お腹いっぱい食べて、
そんな夢をリュックに詰めて、家を出よう。
今夜、手を繋いで、ここから逃げよう。
———これは〝おかしな家〟に迷い込んだ、現代に生きるヘンゼルとグレーテルの物語。
(こりっち公演情報より)

 オーレリアンというのは「蝶を愛する人」の意味とのことですが、主人公兄妹は蝶よりも夜に飛び壁に張り付いて、少し他者から疎まれる蛾の方に自分たちを重ねているようです。劇中歌が多く使われていますが、戯曲では歌詞しか読めないので、上演時に醸成された歌の力は伝わってきませんでした。

河野 モチーフは『ヘンゼルとグレーテル』で、権力構造や他者からの視線を組み込んだ物語に翻案しているんだと思います。エンターテイメントとしては音や歌などいろんな要素があるので、そのクオリティが高ければ高いほど楽しいでしょうね。いくつかドキッとする台詞もあって、「お兄ちゃんももう臭いんだよ」(P37)とか五感に影響するものは印象深い。兄妹の共通項とともに対比も描かれ、この物語における魔女ってなんだろう、と考えながら読みました。

 そう、魔女は不在です。

河野 私は最初は、魔女とは「社会」や「権力」や「家庭」を表しているのかなと思ったんですが、「欲」かもなという気もします。また、食べ物が印象的ですね。お菓子を食べることで、過去に受けた傷であったり、本人の血肉であったり、何かしらその人物自身に付随するものをどんどん飲み込んでいくようにも感じられました。

 魔女なきお菓子の家で兄妹の間に起こる変化を描いていますね。一心同体だった兄と妹がだんだん、特に妹が自我を持って兄から離れる決断をする。最後、家族の記憶を話しながら料理をする場面では、刻んで加熱する行為がかなり残虐なものに見えると思いました。だから兄を刻んで炒められたり煮込まれたりするのかなと思ったんですが、そこまではいかなかった……。兄も妹を支配していた構造がわずかな暴力性で語られますが、全体としては虐待にまつわる悲惨さの上澄みしか見えなかったように思う。

河野  それはたとえば、登場人物がふたりとも客観的かつ論理的でクレバーな喧嘩の仕方をすることにも関係してるかもしれないと思います。理屈の応酬の面白さもあると思うけど、たとえばもうちょっと、関係性や、対立時の言語化が崩壊すると、人間の心理やエグみが出てグッと来るかもしれない。とはいえ今回は上演台本でのノミネートですし、歌のシーンもあって、配役の魅力で強く引き込める作品だろうなと思います。小沢さんは面白くてパワーのある作品をいくつも上演されていますし、役者やテクニカルすべてがそろった総合芸術の作り手という印象があります。

 作家にとってはチャレンジングだったのかもしれない。妹が独立を宣言してから面白くなるのかなと思ったんだけど、そこで終わってしまった。

8. 額田大志『ぼんやりブルース』

構成・演出・音楽 額田大志
[日時]2021年10月22日 (金) ~ 10月31日 (日)
[会場]こまばアゴラ劇場
※豊岡公演中止

<イントロダクション>
未来がぼんやりとしてしまった。みんなが、自らの力で立ち上がらないといけない時代。しかし、人は一人では生きてはいけない。そんな当たり前のことに想いを馳せる。家族や会社、都市の共同体がゆるやかにすんできて、そんなときに「上演」でできることは何かを考える。今と、あのとき、あの場所で起きていたことが繋がっていくのかと、本屋の隅に置かれた雑誌から、ブルースには「日常」という意味があることを知った。「憂鬱」だと思っていたブルースの印象が大きく変わった。果たして、信じられる日常はどこにあるのか。(公式サイトより)

 この戯曲はまるで楽譜、バンドスコアですよね。ト書きと段組に従って丁寧に読んでいくと、いつどこで発話すればいいのかがきっちりわかる戯曲。記述として優れているかなと。丁寧に指示した結果、戯曲でもあり楽譜にもなったというような。

河野 昨年ノミネートの東葛スポーツ(ラップを用いた戯曲)もそうでしたが、今作も、戯曲でも楽譜でも詩でも成立すると思います。今回は戯曲賞なので、戯曲だという前提で読みました。

 コロナ禍の中で、演劇がいったん身体性をそぎ落とすことを考えさせられたのがこの二年でした。集まれない。触れ合えない。そうした時に、聴覚は、視覚よりも「他者をよりたくさん重ねる」ことができると、この戯曲を読んで改めて実感した。 そういう意味で、この作品がコロナ禍での、ある現在地を表すものだというのは分かります。劇中で、本当は上演を観にきてくれるはずだった地元の友達の手紙を読む。ここで声を通して人生がまた重なる。
続く「地球の裏側に、行きたかった人が、たくさんいて……」というところから国名を並べて歌い出すところは、最初に私が言ったとおり、「音が届く範囲に向けて」の上演なんだけど、電話のモチーフを使ってそれを地球の裏側まで飛ばす、突き抜けるエネルギーがありました。

河野 地球を飛び越えられる感覚は読んでいてもあります。身の回りのことから地球や宇宙の話題へと視野が広がっていく構成は魅力的だなと思いました。そして台詞のイメージだけでなく、人の声が重なることによって音のイメージが重なっていく。声のシーンの効果は大きいでしょう。

 ただそういった音での演出や演技とか存在に頼りすぎていて肝心の語られている内容、台詞のリリカルさが、戯曲の構成のロジカルさに対して、ちょっとだけ弱いかな。最終的には音だけじゃなくて光の明滅まで見えてくるぐらい、構造は強度があるんだけど。

河野 現場でどれくらい音の力を作れるかによって描ける世界の広さは変わるかな……という部分が、戯曲として読んだ時に引っかかっています。とくに声の部分にガイドやヒントが少なすぎる。音楽の部分に指定がほぼないので、もし演奏(?)がつまらなかったら上演の全体像が消えてしまうんじゃないかな。もしこれが楽譜だとしたら、一般的には音程や演奏記号が書かれていて、もし演奏が下手でも作品全体のストーリーの軸は紙面上に存在すると思うんです。だから今回も、このシーンにおいてこの音や声はどういうあり方をするかのガイドがもう少しあると読み手のイメージの広がりが変わる。「わ……」だけで構成されるシーンに、たとえば、小見出し『川』とかついているだけでも。

 そうだね。多少なりとも制約や指示があった方が、演出をもっと膨らませやすくなるとは思う。それがないからこそ自由に読めるとも言えるけど……。

河野 自由の作り方は難しいですね。ただ今作は上演台本ではなく戯曲でのノミネートなので、読み物として考えました。実際の上演を観たいですね!

 額田大志の音楽、俳優たちからあふれ出るように発話される言葉の中に、坂本慎太郎というシンガーの曲が挿入されるのは、最初違和感があったけれど、最終的にはひとつソリッドなものが立って均衡を保つ効果があったなと思いました。

9.蓮見翔『旅館じゃないんだからさ』

脚本・演出 蓮見翔
[日時]2021年9月24日 (金) ~ 9月27日 (月)
[会場]ユーロライブ

<あらすじ>
同僚・片山に片思いしている塚田、恋人と同棲を始めたばかりの新人及川の働くレンタルビデオショップに次々やってくるのは、好きな相手の元カノ元カレたち……! 未練に嫉妬、そして映画愛をスパイスにした、男女8人アルバイトコメディ。
ユーロライブ公式ページ

 あまりに面白くて、声出して笑いながら読みました。すごいのは、役名がずらりと並んでいるだけで、ほとんど何のト書きもなく続いていく。元カレ元カノが錯綜しまくってるのに全然混乱しないんだよね。

河野 リズムが良いですよね。句読点がなかったり言葉がカットインすることでのスピード感や、終わった話題が戻ってくるタイミングなど「音のリズム」がすごく気持ちいい。ひとつひとつの短い台詞にもうねりがあって、一文の中に予想外の単語が入ってきたり、比喩に使われる言葉の発音など「音の響き」も楽しいです。読み手(観客)との共通認識をつくるのもうまくて、ハリーポッターとか信玄餅とか、誰もがなんとなくでも知っているような単語が出てくる。ホームアローンなんてタイトルを出さずにビジュアルがイメージできる絶妙さ。

 これを読み終わって、面白いけど切実ではないものを岸田戯曲賞の文脈ではどう評価したらいいんだろうと思った。どう表せばいいだろう。長回しのコント……すれ違いコメディ……?

河野 コントというより喜劇だなと思いました。 一瞬ではなく流れで笑わせようとしているし、個性の強すぎるキャラクターが出てくるのではなく、会話による人間の面白さがある。

 普通の人たちに降りかかった非日常が面白いですよね。地道な映画愛も垣間見えて。それがすごいし、限られた年代の男女だけが8人出てきているのに様々な性格のおかしみは存分に味わえて、別れたり片思いだったり時間を超えた三角関係が急に生まれたり。終盤にかけては、片山と栗原の女子の謎の連帯も。

河野 登場人物間の関係や空気が変わっていく面白さはありますね。ちょっとしたエピソードも良くて、登場人物を好きになっちゃう。基本的に男が頼りないから、女ももっとダメでもいいかもしれないけど。

 ただ、 全部並べるとスケールが小さいかな。近年、コメディジャンルで岸田賞を受賞した上田誠さん、福原充則さんの作品では、 やはりクライマックスでわっと視界が広がるスペクタクルがありました。

河野 べつに世界観や価値観の変化が起こらないことはいいんですが、戯曲として、笑いのみに重点が置かれている印象はありますね。笑う以外のインパクトがあるともっと迫ってくるでしょうね。たとえ笑いだけであっても、その笑いが積みあがっていったり、どこかのタイミングで重なったりして、作品を通した時に笑いによる大波が起きれば衝撃が強い。今はコンスタントにずーっと面白いので、全体に笑いのうねりが感じられ、笑いそのものにドラマ性があると、演劇的かなと思います。ひとりの観客の中にも笑いの種類に変化が起きてきますから。それかもう吐くくらい笑えるところまでぶっちぎるか。

 そうだね。よくよく考えるとセリフの面白さというよりもコメディアンの話術の領域とも言えるのかもしれないな。この作品は積み上げるドラマの技量ではなく、面白いことを言い合える話術、作家の言葉の優れたセンスで見せきるもの。

河野 テンポがいいんですよね。それは強みですが、せっかく8人もいるので、この8人の間に起きる変化がダイナミックになればもっと読み手(観客)の感情が引き出されるのかもしれません。たとえば、Aグループで起きていた笑いと同じ構造や内容のものがBグループでも起きて相乗効果になるとか、2人組だったのが8人組になってまた2人組になるといった舞台上の動きが際立つとか、8人のムーブメントによる8人の掛け算があると空間にうねりが出ますね。

 展開として誰か新しい人が登場するような積み重ねとかはあるんだけど、8人全員でぐっと引きのドラマになったりね。

河野 とはいえおそらくご本人がやりたいことはお笑いだと思いますし、実際にめちゃくちゃ笑えるので、ここまで話した戯曲視点のことは全部無視して面白いと思うものを突き詰めてくださるといいですね。だって、面白い!きっとこれからもっと面白いものを書かれるのだろうなと思います。

<全候補作を読み終えて>

 9作について意見を交わしましたが、いかがですか?

河野 予想は変わりませんが、『モスクワの海』と『バナナの花は食べられる』も受賞可能性があるのでは、と思えました。やっぱり対談すると、また違う景色が見えてきますね!

 私も予想は変わりません。私は『彼女を笑う人がいても』を集団の物語として、『染、色』を個人の物語として読んだ。それで今年、2作同時に推そうと思ったんですよね。

河野 2021年度の戯曲賞としてはいかがでしたか? あえてだと思いますが、今年はとくに若い候補者が多かったですね。

 そうですね……9人中7人が初ノミネートだったので若返ったのかなと思います。今年の候補者の並びを見ると男性が6人、女性が3人で、同数ずつノミネートされていた年もあったので揺り戻しを少し感じます。もちろん数合わせに終始しては元も子もないですし、コロナ禍においては性別の差なく、劇作家が創作を続けるサステナブルな環境が脅かされてきました。引き続き、女性が人生を通して戯曲を執筆しつづけていく難しさについては考え続けたいと思いますが、まずは2022年も引き続きアーティストたちに十分な支援がなされ、ゆたかな演劇をつくる土壌が絶やされないように祈ります。

<著者プロフィール>

落 雅季子(おち・まきこ)
1983年、東京生まれ。一橋大学法学部卒業。金融、IT、貿易業務などに携わりながら舞台芸術批評を書く。2017年に批評・創作メディアLittleSophyを設立。「CoRich!舞台芸術まつり!」2014、2016審査員。18年、ルーマニア・シビウ国際演劇祭に批評家として招聘を受ける。2021年には街にまつわる演劇と音楽のライブ『しょうどしマーチ』、ショーケース『Auditorium vol.1』に作家、パフォーマーとして出演。早川書房『悲劇喜劇』などにも寄稿。

河野桃子(かわの・ももこ)
大学にて演劇、舞台制作、アートマネジメントを学び、卒業後は海外・日本各地を移動する生活をしながらライターに。雑誌・テレビ・IT企業などを経てライター・編集者として活動後、ふたたび演劇の世界へ。現在はパフォーミングアーツ全般のインタビュー・関連記事を取材・執筆するほか、観劇のアクセシビリティについての取材などもしています。

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