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変化と対応を強いられた2020年 -第65回岸田國士戯曲賞受賞作予想-

第65回を迎える岸田國士戯曲賞。今年はコロナ禍の影響を受け、従来の劇場での上演だけではなく、多様な演劇の在り方を模索した作品も複数ノミネートされました。毎年、演劇界で大きな注目を集める同賞候補作について、演劇ライターの河野桃子さんとともに、解釈を話し合い受賞予想をする対談をおこないました。(進行・構成/落 雅季子)

▽第65回岸田國士戯曲賞最終候補作品一覧(作者五十音順、敬称略)
岩崎う大『君とならどんな夕暮れも怖くない』(上演台本)
長田育恵『ゲルニカ』(上演台本)
小田尚稔『罪と愛』(上演台本)
金山寿甲『A-②活動の継続・再開のための公演』(上演台本)
小御門優一郎『それでも笑えれば』(上演台本)
内藤裕子『光射ス森』(上演台本)
根本宗子『もっとも大いなる愛へ』(上演台本)
横山拓也『The last night recipe』(上演台本)
▽選考委員一覧
岩松了、岡田利規、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、野田秀樹、平田オリザ、矢内原美邦、柳美里の各氏(五十音順、敬称略)


 2020年は本当に大変な年だった。大きな転換を一気に迫られたし、それに伴って心も疲弊するアップダウンに、作り手も観客たちもさらされ続けました。そんな中、今年も岸田國士戯曲賞の選考が12日(金)におこなわれることと、私たちが予想のための対談を収録できたことに感謝します。

河野 候補作を毎年公開してくださる白水社さんに感謝です! あやかって今年も受賞予想をいたしますが、今年は難しかった……。雑誌発表の戯曲がなく、全作「上演台本」だからしかたないのかもしれませんが、それにしても、上演を重視した候補作が多いように感じました。これが演劇賞ならまだ理解できるのですが、「戯曲とは?」「戯曲賞とは?」「では、岸田戯曲賞とはどういう賞か?」と問い直す機会になりました。

 例年、ほぼ必ず「この戯曲は上演時にどう見えていたか」「戯曲に上演多様性はあるのか?」といった観点にも言及しますが、あらためて考えさせられました。昨年は配信演劇が激増し、そのフォーマットを乗りこなすことに作り手も観客も翻弄された年だったと言えますね。

河野 オンライン配信における戯曲とはなにか、ということについても、岸田戯曲賞選定委員会がどう考えているのか気になります。

 昨年はどうしても、配信か劇場か、上演の形式を決定したうえで新作を作らなければならない状況だった。岸田國士戯曲賞は、前年の1月から12月に発表された新作が審査対象になるので、時代の影響をダイレクトに受けます。それでは、予想を発表していきましょう。


<予想発表>

 今年の私の予想ですが……「該当作なし」です。今年は、予想の仕方を昨年までと変えました。

第64回岸田國士戯曲賞予想対談
第63回岸田國士戯曲賞予想対談

毎年「本命」「対抗」「大穴」を出していましたが、今年は私が「該当作なし」以外を主張できないと判断したので、河野さんにその方針を伝えて予想を一本化してもらいましたね。

河野 「該当作なし」という予想もすごくわかります。正直、こんなに迷った岸田賞予想はないです……。私も「該当作なしか?」「同時受賞、トリプル受賞もありえるか?」と散々迷いましたが、今回のノミネートの傾向をふまえた岸田戯曲賞の方向性と、選考委員の方々がどう選考するのかを想像して、最終的に長田育恵さんの『ゲルニカ』かなと着地しました。でも、自分が一作を推すとしたら、小田尚稔さんの『罪と愛』にします。

 選考委員が受賞作に選ぶ可能性があると私が思えるのは、長田育恵さん『ゲルニカ』、小田尚稔さん『罪と愛』、そして内藤裕子『光射ス森』。いずれも構成や台詞に一定以上の深みを感じました。

河野 あと、戯曲を、上演にあたる構成台本または上演記録であるととらえるならば、金山寿甲さんの『A-②活動の継続・再開のための公演』がずば抜けて面白かったです。ただ、あくまで想像ではありますが、例年の受賞作を見るに、審査員の方々は戯曲を上演台本ではなくひとつの文字作品として選考されるのではないかな、とは思いました。

 私は、焦って今年コロナ禍を描いた作品を選んだり、大変な年だったからといって受賞作を出す必要はないと、考えました。……冒頭で、開催されて喜ばしいと言ったのにすみません。10年前の東日本大震災も大きな価値観の転換を作家たちにもたらしましたが、受賞作として影響が表に出てきたのは2013年の飴屋法水『ブルーシート』ですし、昨年の谷賢一『福島三部作』も災害から時間をかけて生まれた作品です。だから性急に、コロナ禍を意識した作品を選ぶのは、余波の見通しがまだ立たない以上、危うい。今年の鶴屋南北戯曲賞は選考中止となり残念でしたが、途切れず開催された岸田國士戯曲賞に対する厳しい意見と受け止められることは承知で、今年の候補作からはどうしても受賞に値する一作を見出せませんでした。6年間、全戯曲を読んで考察していますがこの予想を出すのは今年が初めてだし、本当に残念なことです。

河野 2020年は本当に大変な状況ですから、上演をされた作品すべてに敬意と感謝を込めたいですね。

 そうですね。上演中止を決断した団体も多くありましたが、全ての判断をくだした皆様に敬意を抱いています。それでは、個別に作品を見ていきたいと思います。まずは、感染症対策をしながらも劇場で上演された物語演劇から。


1.岩崎う大『君とならどんな夕暮れも怖くない』(上演台本)


<上演記録>
2020/7/21 (火) ~ 26 (日)  駅前劇場
演出:岩崎う大
劇団かもめんたる

<作品紹介>ウィルスが蔓延する世界では人との関わりが廃れていき、取って代わるようにアンドロイドが普及した近未来の話。人が自らをアンドロイド化していく中、それを断固拒む男がいた。彼は旧型アンドロイドとの暮らしに何を思うか。


 ジャモンというヒューマノイドの、滑稽なまでに真面目ゆえに物悲しいさま、いかに自分が主人のためになる存在であることに誇りを持っているさまには趣を感じました。

河野 私は、ベタだけど、カレル・チャペックの『ロボット-RUR』を思い出しました。キャラクター造形というより、物語の中で人間とヒューマノイドの関係性が変わったり、登場人物たちの考えや価値観が変わっていくことによって全体の流れや、物語を構成する世界も変わっていく。世界観が丁寧で安心して読め、さらに軽やかな会話で気軽に入り込んでいるうちに、一気に読み終わりました。

 差別をしないとか人を嘲笑してはいけない、それが今の世界の流れだという主旨の台詞が何度か出てきたけれど、逆説的に、テレビでも演劇でも何を書いても「それは差別だ」と突き上げが来かねない現代の状況を作家が息苦しく思ってることが伝わってきました。

河野 うーん、その窮屈さは、それほど否定的に書いているようには読まなかったです。作家個人がどう感じているにしても、意識的にいろんな価値観と向き合おうとしているのかなと受け取りました。この戯曲を上演するとしたら、時代によって価値観が変わっていくことを窮屈だと否定的に表現することもできるし、どんな価値観もマジョリティになりえると肯定的に描くこともできるかなと。

 ある時代の事実を描くときに、現代では不適切な描写も登場することはもちろんありますけれどね。ヒューマノイドの時代になったところで、ケンがミニーに対してモラハラみたいな態度を取ったり「自分たちこそ完璧な存在だ」って傲慢さも見せる。

河野 そんなヒューマノイドのケンを、ミニーが「あの”人”」って呼ぶのは面白かったです。

 ただケージーの、人間の本能として子孫を残したいという気持ちは、今一つパンチが効いてなかったな。人間の女性が、人間でありたい理由は出産だけでなくてもいいですよね。

河野 そうですね。これは私が東京で生きる30代の女性だから思うのかもしれないけど……現代において人間の未来を考えるときに、出産というカードは説得力としては少し弱い気はします。今、子供を産まない選択をして、子ども以外に人生を見出している女性は多いです。『生産性』という言葉が話題になったこともありますが、「人間の欲求や未来って子どもを産むことなの?」ということがあらためて問われている時代ですから、人間が人間たるにはなにが必要かを考えるときに、ヒューマノイドへの進化と出産以外のいろんなパターンを見たいなと思いました。たとえば人間以外の鳥とか微生物とか植物のような別の生命を登場させて比較するとか。もしくは、ケージーが前にいた街のほかの女性と比べてどんな人物なのかという人物背景をもっと書き込むとか。そうすることで、説得力が増すかなと思います。

 エンディングについてはどう思います?

河野 いろんなとらえ方ができるな、と。ラストシーンの「その時代の人の心を一番打つエンディングをお話してます」(P71)という台詞からの「どっちでもいいじゃないですか」というエンディングは、「いろんな価値観があるのが良いよね」と前向きに言っているようにも、「いろんな価値観があるんだからいいじゃん」と差別を否定せず逃げている人類の歴史の浅はかさを描いているようにも読めました。

 疫病の流行が繰り返されて人間がヒューマノイドに入れ替わったという時代設定は、2020年を意識しつつも、その後も人間が何度も危機にさらされたという想像が働いて面白かったです。冒頭からずっと登場していた陣地取りゲームを、そのまま人間とヒューマノイドの勢力図の展開とするクライマックスも良かったですね。アイデンティティとしてコメディがあるのだと理解はしていますが、今の戯曲にあらわれている細やかさは見どころだと思いました。

河野 昨年の候補作やその前の上演作品も観ましたが、戯曲としてもどんどん面白くなっているので、これから書き続けられるものが楽しみです。




2.横山拓也『The last night recipe』(上演台本)

<上演記録>
2020/10/28(水)~11/1(日) 座・高円寺1
2020/11/5(木)~8(日) アイホール
演出:横山拓也
iaku

<作品紹介>
フリーライターの夜莉は、恵まれない環境に育ったラーメン屋で働く良平を取材するなか、契約結婚のように婚姻を結ぶ。約1後、夜莉が亡くなった。生前、日々更新していたブログ『ラストナイトレシピ(昨夜の献立)』には、夫婦の晩御飯がアップされている。夜莉が亡くなる前後の時間を行き来し、彼女と周囲の人々を描く。


 ホームページに公演写真がありますが、俳優同士がソーシャルディスタンスを取りながら演技できるよう作られていたのが印象的でした。

河野 上演を観ましたが、距離を取る演出でしたね。

 戯曲を読み始めるにあたり、登場人物一覧を見ますよね。それで村崎夜莉、村崎良平……と書かれているのを読んで、夫側が改姓していることにまず気がつきました。男性が苗字を変えるのは珍しいので、現状の日本で理由なくそうなっているはずがないと思いまして。読み進めていくと良平が改姓した経緯が分かりました。

河野 夜莉と良平の関係が契約結婚のような形で、その2人の関係を言葉では描きすぎないところが「いったいどうなってるんだろう?」と興味をそそります。あと、物語の中心人物である夜莉が、あんまり応援できる人物ではないところは面白い。

 夜莉が、幼くて魅力に乏しい二流ライターというのは失敗かなあ。

河野 彼女がどれくらい周囲に影響を与えたのか不明瞭なのはいいんですが、この作品においての夜莉の存在はちょっと不思議な印象でした。大きく変化もせず、ずっと迷ったままで、亡くなってしまう。だからこそ、回想として登場する構成が合っているんだろうけれど。

 夜莉と良平の細やかな空気感の描写は良かったです。でも夜莉が抱いた、父親に搾取されている良平を救いたいという使命感にまったく正当性を見出せなくて。彼女の、ルポルタージュを書きたいモチベーションに乗れませんでした。

河野 ライターとしての夜莉はあまり応援できないですね。夜莉なりにもがいて「自分の文章で成功したい」とエゴを通そうとしたけど、結果的にはうまくいかない。けれどもほんの少しだけ誰かに影響した……のかもしれない。映画の『嫌われ松子の一生』を思い出しちゃった。作品の時代はコロナ禍ですが、考えすぎを承知で言うと、コロナという大きなものが人の存在や影響を小さくするかのようにも見えました。

 モチーフとしては目新しいものではないのですが、そこにコロナ禍が乱入してきて、しかも夜莉の死因にも重なったため、作品世界が焦点を結ばないまま終わってしまったなあ。

河野 そこは2020年の上演ということで、あえて未来が見えないラストに共感性があるのかな、とも思いました。

 良平という人物については好ましく読みました。彼の台詞は粒揃いです。「俺、村崎さんみたいな人と結婚するのが夢です」って良平が言い出した場面は、演劇的に大きくスイッチが入った瞬間でした。良平が死ぬ前夜の夜莉と話していて、夜莉が「私のせいで不幸になったってこと?」と尋ねたのに対して、笑って「俺のこと一番知ってるん、夜莉さんやのに」っていうのは、表面だけでないサブテキストに溢れた素敵な台詞だと思います。

河野 うん、いいよね。はっきり言わないのに、ここで夜莉と良平の関係がグラリと変わって見えてくる可能性がある。俳優によって印象がずいぶん変わる台詞だろうなぁ。

 ただ、この二人が夫婦になるのは、ライターとしてルポルタージュを書きたいからというモチベーションの嫌な感じが、作品としての魅力に至りませんでした。おそらく横山さんの意図通りではあるんですが、物語演劇で主人公に魅力がないというのはかなりの賭けですね。彼女が良平を変えたのは文章の力じゃなくて、積み重ねた食事の記録。筆の力で誰かの人生を変えるという決意よりも、そういう生活の積み重ねこそが人を変えると言いたい作品だったのでしょう。

河野 群像劇というほど夜莉と良平以外の人物を描いているわけでもないのに、夜莉にも良平にもそこまで感情移入できない。その不思議な手触りが面白かったな。けれども、横山さんの作品としてはもっと面白いものがいくつもあるのでは、と思うので、戯曲賞として悩ましいです。今年しか書かないだろう作品というのはそうなんですけど……。

 コロナ禍が背景にある物語ですものね……。それでは、次にコロナ禍によって上演そのものがリモートとなった作品をふたつ見ていきましょう。


3.根本宗子『もっとも大いなる愛へ』(上演台本)

<上演記録>
2020/11/4水)〜8(日) 本多劇場から無観客生配信、および期間限定アーカイブ配信
演出:根本宗子
月刊「根本宗子」

<作品紹介>
同い年の女と男。抑うつ気味の姉と妹。わかりあえないけれどもわかりたいそれぞれが、言葉を尽くしていく。稽古は完全リモート。毎公演本編終演後には演出家と俳優のフィードバックの会話もそのまま生配信し、翌日への課題を観客と共有した上で、公開期間中に作品をブラッシュアップさせていった。

河野 まず、上演にあたっての前提を丁寧に説明しているとことはとても良かったですね。内容としては、特に前半部分から後半にかけ逆転するところまでがとくに面白かったです。内面を語ることが多くなってからは、少し疲れました。ただ、劇場での公演だったら「言葉にしすぎなんじゃないか?」と感じるかもしれませんが、配信だったらこれくらい言語化しても面白く観られるかなとは思ったんですよね。配信用の戯曲として、とても良かったのではないでしょうか。

 オンライン公演はどうしても生活ノイズがある状態の空間でながら見する可能性が高い。こうした「自分の心情を全部台詞で語る」手法はいつもより伝わりやすかったかもしれないですね。

河野 人によって視聴環境は違っても、おおむね劇場や映画館より集中力が削がれるので、余白を感じることにそんなに向いていないんですよね。集中を強いられる劇場で観るよりも余分に言葉にしてもらった方が、劇場と同じくらいの圧で伝わるかなと。しかし、言語化することで、「もっとも大いなる愛」というテーマへの飛躍がしづらかった気がします。言葉にするって、個人的になりやすいし矮小化もしてしまうから、愛というものが小さく感じられちゃった。

 「愛は忍耐強い」から始まる最後の台詞は、新約聖書のコリントの信徒への第一の手紙13章4-8節と13節(新共同訳)を引用しています。根本さんの創作と思われると問題なので、これは言わせてほしい。引用であることを上演台本で明示していません。綺麗な文章だから一般的な結婚式でもよく使われますけれど、キリスト教徒でない人は気づけないと思います。

河野 そうですね、引用だろうとは思ったけど。

 アガペー(神の愛)を、人間同士のエロス(性愛)やフィリア(家族含む友愛)へ転用するさまがあまりに安直で、幼稚です……。審査員に、この戯曲の最終結論は根本さんオリジナルではなく、聖書からの引用だと分かる人がいるといいのですが、この対談を読んだ人にだけでも知ってもらいたいな。

河野 宗教的な知識がなくても、ラストに引用された「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は……」というくだりからは、大きな愛の話になっていく広がりを感じるよね。ただ、そこまでのシーンでさまざまな言語化が試みられているから、突然、言葉で説明しきれないような大きな愛に踏み込んでいく飛躍は、とても表現が難しいと思う。踊り子の踊りと歌とか演出で、なんとか説得力を持たせられるものなのかな。

 私も、言葉で伝えることがすべてなのか? と疑問に思う。演劇は、言葉で欲しがってしまう人間の強欲さをいかに抑えるかを考えることにも面白さがあると思っていますので。

河野 愛は言葉で扱うのがとても難しい。だからこそ言葉だけではなく行為が力を持つし、愛の伝え方や表現の仕方も世界には様々ある。でも、この作品ででてくる「愛」がどういうものなのかについては、ちょっと混乱してしまった。とくにラストの歌の歌詞に、突然「恋」が出てきたところ。なぜ愛の話を広げていった後に、恋が出てくるのか……。

 確かに理解に苦しみます。そんなわけで、言葉を尽くしたい側の論理はだいぶ破綻しているのですが、拒絶する側の男や姉の言い分にはリアリティがあって、誰にどうしてもらってもダメなものはダメという、心を閉ざしている側の状態はコントロールした形で描写できている。でも尽くしたい側の台詞になると暴走しちゃうよね。

河野 私は「言語化したいキャラクター」ということでだいぶ納得できてたけど、テーマが愛だから難しいのかも。男と女の愛、血の繋がった姉妹の愛、あるいは自己愛……。いずれも愛を突き詰めているというより、愛のようなものの言語化を突き詰めているように読めたので、最後に聖書を引用してアガペーが出てきた時に「じゃあ、作品を通して“愛”という言葉をどうとらえているんだろう?」と輪郭が曖昧になった気がしました。最初の男と女、姉と妹の対話や関係性やドラマによる中盤の立場の逆転はすごく面白かったけれど、内省パートに入ってから、読んでいて作品全体にとっての愛の概念を見失っちゃったんです。

 私もほぼ同感ですが、結論の箇所が創作でなく引用であることは作品の根幹にかかわるので、まったく評価できないです。


4.小御門優一郎『それでも笑えれば』(上演台本)

<上演記録>
2020/12/26(土)〜30(水) リモート配信
演出:小御門優一郎
劇団ノーミーツ

<作品紹介>
人を笑わせたい。同じ夢を追う道すがら出会った2人は、その夢を叶えるため、芸人コンビになった。憧れの舞台にようやく手が届くと思った2020年。舞台そのものがなくなってしまう。制作から配信までフルリモートでおこなう劇団ノーミーツによる、観客とともに主人公の運命を一緒に選ぶ「選択式演劇」。

 「選択制演劇」と公演HPには書かれていて、序盤から2択の選択肢が何度か出ます。集計結果によって登場人物が多かった方の行動を選びますが、どっちを選んでもその後のストーリーには影響しない。オンライン配信で空間を共有していないから、一体感を生むためにそういう能動性を要求せざるを得なかったのでしょう。ゲームシナリオとしても、もちろん戯曲としても良さが見いだせません。最終候補として2020年の舞台芸術界が置かれた複雑な状況を代表するには、あまりに空虚な作品です。

河野 ノーミーツの客層は、いわゆる演劇ファンとは層が違うと伺ったことがあります。リモート配信で観客に参加感を感じさせる構造に特化した台本として、コロナ禍で磨かれてきた独自性があるなと思いました。ただ、戯曲なのかは疑問があります。お客さんが参加する演劇やパフォーミングアーツはこれまでもありますし、オンライン配信の演劇もいくつかありますが、それらとも違う。岸田戯曲賞が「戯曲」をどうとらえてノミネートしたのかが気になります。

 この作品における俳優と観る側がリアルタイムに繋がりあっている感覚は、戯曲に内包されるドラマの楽しみではないです。

河野 リモート配信自体は、団体が観客とどういう関係性をつくるかというひとつのスタイルだから表現として面白い。選択肢があるのも、途中までは気軽に選べてたいけど最後は選べないというのも、作品構造の効果としてはわかります。

 エンディングが分岐していますが、パターンの作りこみとしても少なく思います。

河野 分岐するなら、観客が操作する以外の楽しみがもっと明確だとより引き込まれるでしょうね。たとえば、私はゲームシナリオの執筆をしていたんですけど、とくに恋愛系や育成系のシナリオゲームは、選択肢によってキャラクター造形が深まったりするんですよ。選択後はすぐに同じ筋に戻るけれども、選択肢ごとの獲得ポイントによって、攻略キャラとの距離感が変わるエピソードが用意されていて、その流れに合ったエンドにたどり着く。でもこの作品はそういう仕掛けではないから、「表層的な選択をしなきゃいけないの?」と感じる方もいるでしょうね。ただ、ここらへんのタイミングで選択肢があると飽きない……みたいなことはオンラインコンテンツでは効果的かもしれない……?

 130分の上演時間を持たせるには必要でしょうね。ただ、登場人物たちのパーソナリティがどれも浅く、類型的。ルリコの妊娠も突然で、エピソードとして陳腐でした。

河野 演劇と比べるとサブテキストが薄い2次元の映像コンテンツに近い印象です。空間的奥行のある舞台ではなく、オンラインのしかも開かれた空間で視聴できるPCやスマホで見る行為との親和性はある台本かも。

 そうね。台詞から読み解く情景の深みが全くなかったですね。

河野 演じ方や演出にもよるけど、戯曲からはその余白は少し読み取りづらいですね。モノローグがあるわけでもないですし。サブテキストが薄いと人間造形としては薄く感じられるし、瞬間的な印象が強くなる。その場その場を楽しむ作品構成は、瞬間を楽しむいわゆるお笑いと統一感があるような気もしますが、だからこそ、瞬間的ではない構造をいくつか組み込むと作品の厚みが出て、戯曲として面白くなりそうです。

 カメラワークもzoomとは別に存在していたようですが、zoomの使い方も奇妙な部分がありました。マネージャーの設定したミーティングルームで、二組のコンビが鉢合わせるとか。単純に、入室承認のコントロールとして不自然。

河野 うーん……忘年会や会議のように人が出入りしてもおかしくない設定を心がけてはいますよね。あと、画面じゃなくて部屋を映しているシーンもあるので、視聴者が見ているスクリーンを、劇場のステージの枠としてとらえているんでしょう。演出や映像美術によって、完成度にだいぶ差が出そうです。そういうところも、戯曲の力が強い演劇とは、すこし構造が異なるコンテンツですね。

 そのように上演の想定を補填しながら読まなきゃいけないものを、私は戯曲として評価できないです。読み手に想像が委ねられた豊かさではないから。この作品は、物理的にディスタンスを取らないといけないコンテクストの共有と、オンライン上では触れ合いたいという欲求が起こした「現象」にすぎない。

河野 演劇の楽しみ方というより、オンラインコンテンツとしての楽しみ方で楽しむ作品なのかな。岸田戯曲賞が、テクノロジーの進化に合わせて戯曲の概念をアップデートするならそれ自体はべつに良いと私は思うのですが、コンテンツの構造を抜きにしたときに戯曲としてどこに着目すればいいのかは迷いました。ノーミーツとしては、リモート配信として独自の技術を積み重ねてきているので、オンラインにおける物語の必然性や作家性が強まるといいですね。

 続いてもコロナ禍を正面から描いた作品ですが、観客を入れて上演した金山さんの作品です。

5.金山寿甲『A-②活動の継続・再開のための公演』(上演台本)

<上演記録>
2020/12/10(木)~12/14(月)  ミニシアター1010
演出:金山寿甲
東葛スポーツ

<作品紹介>
ビジュアルとタイトルは、文化庁による支援事業「活動継続・技能向上等支援 A-(2)」をイメージ。コロナ禍で公演の延期や中止が相次ぐ演劇界を舞台に、大量のラップにのせて、妊娠した舞台女優、Uberイーツのアルバイトをする女優、日本に滞在中のソン・ガンホほか、2020年の話題が多く登場する。

河野 このタイトルは、文化庁の助成金「文化芸術活動の継続支援事業」の申請項目からきていますね。予約画面も、助成金の申し込み画面を模しているので、お客さんは予約の段階で、当時に演劇界でも話題になっていた助成金に申し込むプロセスを簡易的に疑似体験した感覚になると思います。

 上演台本では必要ありませんが、仮に受賞作として残ることになればその注釈は必要ですね。導入からラップパートに入るときに突然俳優の名前の表記に変わるので、冒頭に出演者の名前を書いておく方が審査には有利じゃないでしょうか。とはいえラップは、文字で読んでみる、つまり声に出すだけじゃなくて文字としてもしっかり読ませる詩でさすがの言語センスだと思いましたし、ラップに乗せるしかない苦しみが人間はある。特に経済的にシビアな状況を語ることに上手く嵌りましたね。

河野 めちゃくちゃ面白かったです。ラップが多くて、そのリリックが利いていますね。コロナ禍の切実さが、ラップであることでより渦のように増していると思います。叫びのようであり、追い立てられるようでもあり。笑いの多い戯曲なので、よけいに切実さや苦しさが際立つ。それでも立つ演劇・パフォーマンスの強さも感じます。

 口にしても良いかギリギリわからないネタも満載でした。ラストで志村けんが「だいじょうぶだぁ」って言ってるけど、志村けんはコロナウイルスで2020年3月に亡くなっていて大丈夫じゃないですからね……。しかし不思議な上品さがあるので、喉元に引っかかりながらも、読むことが快感に思えるほど。

河野 実在の人物名や団体名を取り上げているところも、ものすごく面白かった。やり玉にあげるというわけでもなく、情報もしっかりしているし、なにより言葉のリズムが良くて笑いました! あと、2020年における文化庁の補助金がどういうものかという、お客さんがある程度文脈を理解しているものを要素として作品に反映する構成も、とても効果的で良かった。文化庁の助成金申請をするのに、何回も電話で「妊娠してるんですけど中絶費用は対象ですか?」って問い合わせるシーンなんて、ブラックジョークで物悲しいのに笑えるし怖いし、いろんな感情が渦巻きました。

 中盤の、葛飾区ならではの『おかえり寅さん』大コケと『パラサイト』アカデミー賞との対比は、寅さんの時代にすがって衰退していく日本文化と文化助成に力を入れて結果を出した韓国との差をくっきり描いていました。ヒップホップ精神に乗っ取ってすごくいろんなものをディスってるけど、根底にリスペクトがあって丁寧なんですよね。

河野 そう感じましたね。その勢いや、趣向、作家性が最初から最後まで崩れず、一貫して高いテンションが保たれていたので、どんどん引き込まれました。ある シーンだけ取り出してみると、苦手な描写があったりもするのに、全体を通して強い力があるのでずっと楽しいんです。

 私も楽しく読みましたが、普遍性はないと思ったかな。2020年の断片を、新鮮なうちにかき集めて華麗に韻を踏んだ……だけ。もともと東葛スポーツは内輪でアンダーグラウンドなものだと作り手・観客ともに了解済みで、元ネタや俳優のパーソナリティを一緒に楽しむコンセプトだから成功してはいますが、この賞にふさわしいかというと疑問が残る。内輪ネタのアングラでも、見た人の人生観や価値観を刷新するようなインパクトを持つ作品ってありますよね。でもこの作品はそうじゃなかった。2020年の日本人にとって、鬱屈と困窮を共有するために必要な作品ではありましたが。

河野 普遍性はなくてもいいんじゃないかな。情報としては2020年のものが詰まっているけれど、ほかの時代や年代にも通じる、人前に立つことの魂のような、生身の強さは戯曲からでも十分に伝わるなと思います。

 劇場でゆったりとドラマを楽しんだり、 豊かさを享受したりとか出来ることが非常に限られた年だったからそれも仕方ないことです。読んでいて面白かったのは事実です。

河野 同時代の上演台本の記録としても、そこから伝わる上演イメージもものすごく面白いし、最高に楽しかったです。でも、これは「戯曲賞」へのノミネートで良いのかな……。体裁は丁寧に作られているし、戯曲ではあると思うのですが、その俳優個人である必然性やパフォーマンスのリアルタイム性がとても強い。演劇賞や作品賞が相応しい作品のように思えました。戯曲には、上演における役割とか、戯曲の歴史がありますよね。一方で、演劇には、戯曲がない口伝えものや、即興での上演や、エチュードから立ち上げていくものといろいろある。じゃあ演劇賞と戯曲賞はなにが違うんだろう? 面白い芝居の戯曲は、戯曲としても面白いのかな? そこにはいろんな価値の見出し方があると思いますので、とくにオンライン配信という場が出てきた今、「岸田戯曲賞は戯曲をどういうふうにとらえていくんだろう?」というのは受賞予想をするにあたって迷いにはなりました。

 それでは最後に、劇場で上演された物語演劇に戻って話していきましょう。骨太な作品が揃っていました。



6.長田育恵『ゲルニカ』(上演台本)

<上演記録>
2020/09/4 (金) ~11/1 (日)  PARCO劇場、京都劇場、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館・劇場、穂の国とよはし芸術劇場PLAT 主ホール、北九州芸術劇場 大ホール
演出:栗山民也
株式会社パルコ

<作品紹介>
旧体制派と新体制派が激突し、スペイン内戦が本格化する頃。ゲルニカの元領主の娘・サラは、婚礼直前に婚約者が突然「戦いに参加したい」と出て行ってしまう。残されたサラは街の食堂に出入りするようになり、兵士・イグナシオと恋に落ちる。しかし彼はドイツ軍のスパイで、ゲルニカを爆撃するための工作を進めていた。

 2020年に、コロナのコの字も出さずにこのエンターテインメント大作を書き上げたというのは偉業ですよね。でも、いわゆる大きいドラマチックな演技を喚起する台詞回しで、冒頭のクリフとレイチェル、ジャーナリスト二人のやり取りから大仰なノリに付いていけず、読み込みには難儀しました。

河野 そうですね……600人キャパのPARCO劇場への書き下ろしで、候補作のなかで唯一、作家と演出家が異なりますね。依頼を受けて書いているだろう作品ということもあり、あの座組みで上演されるなら成立するんじゃないかしら、と思いながらひとまず読んでいました。戯曲賞の読み方としてそれで良いのかはまた別ではありますが。

 私は、スペイン内戦を勉強したことがなく「人民戦線軍」と「ファシスト」の対立構造がわからなくて調べながら読みまして。ゲルニカの爆撃とピカソの絵画の関連はもちろん知っていましたが、逆に言うとそれしか知らなかった。……内容、難しくなかったですか?

河野 細かく理解しなくてもいいと思って読みました。というのも、冒頭から具体名を細かく出してくるので、知識と慣れがないと理解できない。観客が台詞の意味や歴史背景を理解できなくも、誰と誰がどんな関係なのかがわかることで物語を進めていくように書いているんじゃないかな。自分が客席にいても、言葉の意味はわからないまま楽しめると思います。

 きちんと理解したかったので、読むのに一番時間をかけた戯曲でした。細かい部分では、ミサや礼拝などカトリックとプロテスタントの用語がかなり混同されていることが気になった。上演の時点では、監修・校閲を入れることは難しいとは思いますが。

河野 落さんは小説のように文学作品として読んでいますよね。私は脳内に上演の可能性を何パターンか浮かべながら戯曲を読みましたが……ただそれは、今年の候補作のラインナップを踏まえて、例年より上演を意識して読んでいるところはあります。

 登場人物像のひとつひとつはよく作られている。だけど演技を届ける射程を遠く大きくしようとしたときに、ドラマチックな台詞回しに人物が飲まれて、心情と行動の整合性が取れなくなっている箇所が散見されました。

河野 世界観も展開もダイナミックなので、そのぶん繊細な心の動きがわかりづらくなるのかもしれないですね。あと気になったのはラストで、このゲルニカの悲劇はいったいなんだったのかを、画家の登場でどれくらい受け止められるだろうなとは思いました。『ゲルニカ』というタイトルありきのラストにも読める……。この重い歴史を絵画という芸術に繋げることはいいんですが、ちょっと唐突感がありました。演出の力で印象が変わるのかな。

 人間ドラマとは別に、ジャーナリズムはどうあるべきかも、記者二人によって語られますね。レイチェルの「何を選んで、何を刻み付けるのか。(中略)私利私欲や主観で書くべきじゃないわ」という台詞は尤もであると私も思うわけです。それにしたってレイチェルとクリフの仲の悪さには必然性がなく、初めから二人の仲が悪くないと成立しない物語のために動かされているようでした。

河野 どういうこと?

 人物の書き方が、設定ありきなんです。イグナシオは数字が好き、とかも。設定した人物像に台詞をはめこむんですが、設定と人物が一体化していないから物語に都合よく存在しているように見える。象徴的なのはレイチェルが戦場ジャーナリストとしてバスクに来た理由です。「私の母はこの町の生まれだったの」と言って、彼女自身の設定を持ち出す。サラの妊娠に気づいたときも「私はね、子供ができないの」と言って、まるで母になれないから男のような仕事を選んだという設定で、戦場に来た動機を説明する。すべての動機の前に、設定が置かれてる。

河野 なるほど……設定によって人物が動かされているように見えるということ?

 登場人物たちは動機に基づいて動いているはずなのに、設定を明かす手順を踏んでるだけになってドラマが薄くなってしまう。

河野 たしかに。個々の人物描写ももっと見たかったなとは思いました。長田さんは人物が背負うドラマや思いをもっと書ける方だと思うので、あえてかなと思ったんですよね。設定がもたらす興奮に感動するお客さんもいますし。

 登場人物に設定だけを生きさせないでほしい。

河野 設定によって生まれる人物の変化は描かれていますよね。たとえばクリフは冒頭に出会ったレイチェルによって、最後に自分の記事の文体を変える。ただ、そこまでクリフ本人が葛藤した末に変化するわけじゃないから、設定の強さが際立つのかも。

 戦後から現在にかけても絶対悪とされるドイツ・ナチスの側のスパイであったイグナシオの背負っていたものは、その設定を超えた重みが唯一あるかなと思う。

河野 それで言うと、レイチェルはゲルニカを背負っているようにも読めたんですよね。もうひとりのジャーナリストであるクリフは生き残って記事を書くけれど、レイチェルは記事を書くのをやめて赤ん坊を生かすことで未来を繋いでいく。ここで赤ん坊が出てくるのはちょっとありきたりかなという気もしたんですが、この赤ん坊は、未来に続く生命ではなく、“バスク爆撃の悲劇が歴史から消された事実”あるいは“バスクの歴史”の象徴かなと思いました。焼け野原のゲルニカでのあの出産はあまりリアリティがないですから。バスクの血を引いたレイチェルがその歴史を抱えて生きていくことは、事実を残すジャーナリズムの役割を執筆以外の方法で果たしたのかもしれないなと。まぁ単純に、“希望”の象徴、みたいなとらえ方もできますが。

 だから最後に書き残すのは他者であるクリフということですね。レイチェルは赤ん坊ともども死んだとも、血のつながらない赤ん坊を育てていく新しい物語が始まるとも解釈できる。

河野 戯曲賞の候補作として考えると、横山さんと同じように良い作品がほかにもたくさんありますし、悩ましいです。



7.小田尚稔『罪と愛』(上演台本)

<上演記録>
2020/11/19(木) ~23日(月祝) こまばアゴラ劇場
演出:小田尚稔
(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場

<作品紹介>
アパートの一室で脚本を書いている男1のほか~4までの男が登場し、彼らは同一人物のようにも見える。それぞれが、家にいる蜘蛛や鼠、女、母などと会話を重ねるなか、ドストエフスキー『罪と罰』はじめさまざまな書籍から引用しながら、「罪(Sin)」と「愛(Love)」について探求する。


 多くの引用やアイディアの転用も、出典を明記した上でオリジナリティに昇華できていましたね。引用と本人の筆力のバランスが高く融合していた。貧しくて苦しい話だけれど、内面にはすごく豊かさとうるおいを感じる戯曲でした。

河野 全体的を通して、コロナ禍に劇作家が置かれた状況の切実さが出ているなと思いました。しかもそれがちゃんと戯曲の根拠にもテーマにも問題意識にもなっている。

 ある種のプロレタリア文学でしたよね。登場人物表にある「鼠 深夜に現れて音楽を奏でる」という説明をまず可愛いと思って、読むのがずっと楽しかった。登場人物が分割されているように書かれているけれども、会話はいきいきとして読みやすかったし、各シーンにすんなり入っていけた。男1~4に一体感と矛盾がバランスよく混在していて良かったと思います。

河野 男1~4は4人の俳優が1人の人間にも見えるようだ、という設定なのに、それぞれの存在にも全体像にもリアリティがあった。コロナの中で小劇場で演劇をしている人の後ろに、アパートの一室が見えるようでした。

 克明なリアリティとともに、蜘蛛や鼠という人間ではない存在が出てくる。彼らが掃除機に吸い込まれないように気を付けているとか、スパゲッティのお礼に一曲歌うとか、グロテスクさと可愛さが重なる魅力を感じましたね。

河野 ドストエフスキーの『罪と罰』を模したタイトルや、大家の女性を殺す展開の引用も面白かったです。注釈はないけど「好き好き大好き超愛してる。」は舞城王太郎の小説かなとか、蜘蛛が男4を助けるシーンは芥川龍之介『蜘蛛の糸』かなとか、バルサンで死にそうになる場面はカフカ『変身』のグレゴール・ザムザも思い出しました。いろんなものを背負える余白がありながら、筋は通っている。ただ、なにかから引用して作品に合わせて改訂することの強さと弱さと危うさみたいなのが混ざり合っている気もします。うまくいったらすごく刺さる人もいるだろうけど、時には、誰かを傷つけるかもしれない。

 チャーミングな蜘蛛や鼠の様子が困窮のシビアさを炙り出すとか、男と女が鳩の鳴き声の真似をする後ろで自由の女神を爆破する話をするとか、苛烈なものと長閑なものの対比が全体的に効いていましたね。一人の人間の内面を多重的に描いたあと、その境界を崩していく面白さもある。

河野 世界を地続きにしますよね。つねに音響が舞台上にいるし、物語にも登場する。おそらく客席と舞台の境界も曖昧だし、男1~4の個と個の境界や、人間と虫・動物の距離感も曖昧。一方で、母親が登場することの生々しさもある。どれもが同じ地平で入り乱れていく感覚は演劇として強みだし、面白いですね。

 男たちは各々夢から覚めたり死んだりする描写があるけれど、最終的に「今見ることはよく見る夢、妄想」と、男4が自身の境遇のメタ構造を宣言している。ラストシーンは男1が脚本を書き続ける姿で、本当はまだ何も起きておらずすべての出来事が書かれている途中である様子が示されます。

河野 この作品を通していろんなことがあったけど罪と愛についてまだわからないから、ラストの男1はまだ作品を書いているのかも?

 まだ見ぬものを探しているという構図が続く感じは強くありましたね。最期の台詞がブコウスキーの小説の引用で、その手前、小田さんのオリジナルで書かれた最後は「愛が欲しい訳でも、愛して欲しい訳でもなかった。ただ精一杯誰かを愛したい、愛したかった。」というもの。そこで表されている「愛」って、異性愛だけでなく、ある他者の存在すべてを受け入れる覚悟のようなものだと思うんですが……積み重ねてきたシーンに対してこの結論が唐突かつ短いので、愛についてフォーカスがぼやけた気がするんですよ。

河野 わざとぼやかしたのかと思った。女と蜘蛛を重ねることで。

 ぼやかすには、一度自分の中でクリアになっているからぼやかす意味があるわけで。ぼかすことがポジティブに効く場合と、答えが出ないから逃げたように見える場合があって、戯曲上だけでは後者に読めてしまう気がした。与えられるより、愛を与えたいのだという心情の吐露が最後の台詞だけでは弱いと感じ、過去の岸田受賞作ほどのインパクトは持ちえないと思いました。

河野 経済的、体力的など、いろんな意味での弱者に関する罪や愛として、今この時代のさらにコロナ禍で切実でしたね。弱者の暴力と弱者への暴力の両方を描きながら、どこに愛があるのかもいろいろと模索しました。戯曲単体としても、上演としても、一貫性と可能性と魅力がありました。何度も読んだら、また違った景色が見えそうです。上演台本なので仕方がないのかもしれないですが、せめてト書きでもいいのでもっと状況がわかる厚みがあれば、戯曲として読み応えもうまれて、迷わず受賞予想に推せたかなと思います。

 そうですね。一番受賞に近い戯曲だったと私と思います。

8.内藤裕子『光射ス森』(上演台本)

<上演記録>
2020/5/22(金)31 (日) シアターX(カイ)
演出:内藤裕子
演劇集団円

<作品紹介>
日本の国土3分の2を覆う森林の4割が人口林と言われている。ほとんどが戦後、復興を目指した私たちの祖父母の世代が、急峻な山に苗を背負って登り植えた杉やヒノキだ。利便性や経済が優先される今、その森が見捨てられ、荒廃している。そこに踏みとどまり、あるいは飛び込んで、豊かな森を残そうと懸命に生きる人々の物語。

 会話が細やかで、老年の俳優を必要とするので、幅広い作り手と観客に受け入れられる戯曲でした。2020年が舞台になっていますが、コロナウイルスが出てこないしステイホームの描写もまったくないのは、田舎の林業を描いているためでしょうか。作業は屋外ですし、感染者も少ないでしょうから切実ではないし、家族の物語だからソーシャルディスタンスを気にするわけでもない。そういう一つのリアリティ。2020年の沢村家と2010年の奥居家、二つの林農家を往来しながら混乱することなく、ふたつの家族を描き分ける手腕は確かなものでした。由里子の過去についても、誰が何を知っていて、誰が何を知らないのか、ちょっとした言葉遣いで婿入りしてきた男と父の距離感をわからせるとか、テクニカルなコントロールが上手かったです。由里子にはかつて家族があった事実がだんだん明らかになっていく様子や、全体的に語らずして語る台詞の妙が、味わい深かったですね。

河野 どちらの家のおじいさんも魅力的でした。それぞれの家族の空気の違いや、ちょっとした会話が優しくて、温かくて、居心地がよくて、登場人物に本当に出会ったような気持ちの良い作品ですね。

 登場人物はしっかりした人数が登場していますが、誰も余分でない。林業についても私たちの知らない事実を説教くさく説明するのではなく、二つの家族の人々の生活描写によって伝わってくるものが多くあります。それでいて書きすぎず、余韻を感じさせる誠実さがある。智子が由里子に筍を2本あげて「多いよね」って言うことで彼女が今独り暮らしであることが分かるとか。土砂崩れで奥居家が由里子以外亡くなっているということが明らかになってからの、民雄と里子夫婦のシーンは名場面です。これから亡くなることが分かっている人物を観客に見せることができる、演劇のせつない魔法。

河野 良かったよね。言葉が多いわけじゃないのに、それぞれの思いが伝わる。このご夫婦が、それまでどんな人生を歩んできたのかも想像するような、温かい会話でした。観客は2つの家族を観ていく間に、両方に関わる由里子が2つの家族をどう繋いでいくか理解していく。由里子を通して家族の変化を読み取れるのも味わい深いし、でも由里子自身のことが明かされるまでに時間がかかるので、ストーリーとしても興味を持ち続けられます。

 もちろん、勘が良くて序盤で(由里子が家族を全員失っていることに)ピンとくる人もいるとは思います。

河野 それはそれで、由里子に感情移入してより応援したくなるかも。登場人物みんなが、山に対する思いが違うのも面白いですね。山のこともいろんな角度から想像できます。とくに、長く山と生きてきたおじいさんたちの山に対する姿勢が素敵。綾香の山が無断で木を切られた時に正利が「死刑だな」とぼそっと言う台詞は印象的。ぶっそうな台詞だからこそ、どれくらい山を大事にしているのかが伝わってくる。あと、民雄に宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』を読ませるところは、ストレートですが印象的でした。演じる俳優さんは大変だろうなと思いますが。

 私も詩の朗読は戯曲上でもとても感動しました。けれど、和利と由里子がハッピーエンドになっていく感じは正直あっけなく感じられた。それまで、家族の描写を深くおこなっていただけに、由里子の変化が唐突すぎるかなと。

河野 そういう澱を残したエンディングがいいという人もいるし、すっきりして大団円がいいという人もいますよね。この作品は実際に劇作家の内藤さんが山で取材をされたそうで、その手触りとか、そこで生きる人への眼差しを感じられます。疑似体験をする演劇の喜びはあるんじゃないかな。丁寧なあまりさっぱりスッキリしているので、他の候補作と比べて印象は薄いですが……

 エンディングがちょっと浅かったけれど、総じて丁寧な戯曲でした。

河野 内藤さんの作品は、米農家を舞台にした『初萩ノ花』、天然染の工房を描いた『藍ノ色、沁ミル指ニ』に続いて三作目だそうです。劇団円とお客様が脈々と積み重ねて来られたなかで、作家のエゴとか欲が出すぎず、物語を、演劇として、丁寧に届けてくださる作家さんが出てこられたことが嬉しいです。

 エゴが出すぎないのは、取材した自分を代弁する登場人物を書いていないからですね。透明感すら感じましたよね。逆に綺麗すぎて流れてしまい、読み手の中に深い問題提起をすることは難しいかもしれない。由里子の山への愛は父譲りのもので、父と山を重ねて見ているファザーコンプレックスを描く技量も、今後また別の戯曲で観てみたいなと思いましたね。



<全候補作を読み終えて>

 さて、8作全部論じましたが、河野さんは振り返ってみていかがでしたか?

河野 毎年思うけど、上演規模と環境とかの前提が違う作品を比べるのは難しいですね。とくに今年は、ある特定の上演のための台本という印象の強いラインナップでしたから、戯曲賞と上演賞の違いが曖昧になりそうです。また、リモート配信やオンライン配信などそもそも「演劇の上演形態」に変化があったので、世の中のテクノロジーの変化に合わせて「戯曲とはなにか」という価値観をアップデートしていく必要があるかなと思いました。

 昨年配信されたオンライン演劇では、三浦直之の連作短編通話劇『窓辺』シリーズ(ロロ)や、カゲヤマ気象台『ウォーターフォールを追いかけて』(円盤に乗る派)の物語の運び、内容の新規性に惹かれましたが、候補に入らなかったので名前を挙げておきたいと思います。

河野 落さんも、二人で振り返ってみてどうでした?

 ずっと「該当作なし」と、言葉にして予想するかは迷いがありました。でもどうしても今年は、従来の受賞作と比肩するものが見つけられなかった。河野さんと今日話して、ノミネート作品の良さについても確認しあえたし、仮に受賞作が出ない年があったとして、それが公演中止の相次いだ年のことだったとしても、人間が必要とする演劇の炎は消えない。まだまだコロナ禍での創作、観劇は続いていきます。2021年、そうやって演劇を刷新していくものがまた生まれると、私は信じています。


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