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自分の言葉16〜イエスというより愛〜

“イエスにとっては全ての人間が盲目状態にあり、同時に全ての人が救われるに値する存在である。イエスを信じない人は、「全ての人が救いの対象であり、私もその一人に入っているということは逆に不愉快なことであり、私はイエスに救ってもらおうなどとは思わない」と思ったりすることもある。しかし、この「全ての人がイエスに招かれている」という事実は、「全ての人がイエスを信じなければいけない」ということを意味せず、それとは直結しない。ここは大切なところだ。ここを勘違いすると、受洗者はすぐに傲慢と憐憫の目で洗礼を受けていない人を見る。”

(イエスという言葉を愛や真理という言葉で置き換えても良いのです。)

キリスト者は「イエスを信じない者は下でイエスを信じている私たちは上だ」という思いに引っ張られやすいです。宗教では陥りやすい問題でしょう。

事実はただ単に「私はイエスに救われた」ということだけであり、そこに他人は介在できないし、他人へ強制もできないのです。それなのに、傲慢と憐憫の目で見てしまうキリスト者は本当に罪深いです。

前にも言ったかもしれませんが、神は神を信じている者を上にして、神を信じていない者を下にすることは決してありません。神は条件なしで愛する存在だからです。

神を信じている者が優秀でもないし神を信じない者が劣っている訳でも負けている訳でもありません。

ただ単に「私がイエスに救われた」「私を救ったのはイエスだけだった」ということだけなのです。

「信じなければいけない」という言葉は微妙な表現なのです。「信じなければいけない」という言葉で勇気をもらえる人もいれば、「信じなければ救われないなんて、なんと苦しい条件なのだ」と思う人もいるのです。

また、「愛が人を救う」という言葉も微妙です。そもそも愛について私たちは本当に心の底から理解しているでしょうか。

なので混乱しないように、「愛が人を救う」という言葉を掲げつつも、「救ったならば、それが愛」というように理解した方がいいです。

もちろん全ての手段が正当化されるという意味で言っているのではなく、あくまで「愛が人を救う」を大前提とした上でです。

私たちは本当に愛のある行動をしようとすると、身動きが取れなくなり、結局何もできない時が往々にしてあります。

なので、がむしゃらでもいいから馬鹿にされてでもいいから動き回ったほうがいいです。

失敗しようが懸命に動いた分だけ真剣さが一言一言に加わり、相手に与える影響も大きくなるでしょう。

愛による救いは、常に私たちの近くにあります。自分ができることを全て行い、あとは神に任せるしかないという心境の中で、全力で神に祈った時、世界そのものである神は世界に働きかけ、私たち一人一人を救ってくれると私は信じています。

この世は経済面・家庭面・教養面などの不公平によって成り立っているがゆえに、この私の信仰は愚かなものかもしれません。しかしそれでも、私は「全ての人が愛に招かれている」ということを信じたいです。

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