偶像について

偶像を、英語ではアイドルといいます。アイドル歌手のアイドルと同じ言葉です。崇拝物、実像のない誤った認識、邪神物といった意味があります。

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教では偶像礼拝を禁止しているのはよく知られていますね。

なぜか、カトリックの教会には、キリスト像やマリア像、聖人と言われる人たちの像が溢れていますが、本来は聖書で禁じられている偶像礼拝の一例かと思います。カトリック教会の十字架にはイエス・キリストが掲げられていますね。一方、プロテスタント教会の十字架は、キリスト像はなく十字架のみのシンプルなものです。

キリスト教には、大きく分けてカトリックとプロテスタントがあります。教科書にも出てくるマルティンルターが説いたものがプロテスタントです。カトリックはローマ法皇を頂点とし、庶民は神父を通じてしか神の言葉を聞けないとし、お守り札を高額で売り、いわば宗教を道具にして、政教一致としてヨーロッパを強大な権力で牛耳っていました。信仰を「宗教」として利用し、拝金主義に陥っていました。これに対して、ルターは異を唱えたのですね。
「聖書にそんなことは書いていない。私たち一人ひとりが神と繋がり、私たち皆が、神が愛してくれる神の子供だと書いてある。お布施を買える裕福な人しか祝福を得られないと説くのはおかしい」と。
聖書には、教会の中庭で商売をしている者たちを、猛烈に叱りつけるイエスキリストの様子が描かれています。

偶像は、仏像や石像、木像、お地蔵様などに限らず、御札、お守り、占い、自然信仰などもそうです。物に対して、まるでそれが神であるかのように敬い拝むことを偶像礼拝と呼ぶのですね。自然は神が造ったものですから、神ご自身ではありません。

農耕民族であった日本人は、農作物を作ること=生きる糧であり、農作物の出来を左右する天候や自然変異は生死に関わる重要な問題でした。だから、太古の昔から太陽をお天道様と敬い、山や水を信仰していたのでしょう。これは世界的にみると原始(=自然)宗教といいます。アイルランドの自然(妖精)信仰も原始宗教ですね。

神社仏閣の木像や建造物には職人たちの技の見事さ、文化として素晴らしいものがあると思います。そして、かつての人々が、これらの圧倒されるほどの見事な作品に込めた自然への敬意を感じます。

私の叔父は仏師でした。全国の寺社から請われるほどの腕を持ち、自分の彫った仏像を納めていました。クリスチャンだった叔母と出会い結婚してしばらくしてから、思うことがあったのでしょう。叔父はクリスチャンになり、仏師を辞めました。

なぜ偶像を拝んではいけないのでしょうか?
それは神ではないからです。人が作ったものに過ぎないからです。

聖書にはこう書かれています。

出エジプト記20章4節
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。

イザヤ書44章12-17節
鉄の細工人はこれを造るのに炭の火で細工し、鎚をもってこれを作り、強い腕をもってこれを鍛える。彼が飢えれば力は衰え、水を飲まなければ疲れはてる。 木の細工人は線を引き、筆で描き、かんなで削り、コンパスで描き、それを人の美しい姿にしたがって人の形に造り、家の中に安置する。 彼は香柏を切り倒し、あるいはかしの木、あるいはかしわの木を選んで、それを林の木の中で強く育てる。あるいは香柏を植え、雨にそれを育てさせる。 こうして人はその木の一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き、他の一部を神の形に作って拝み、刻んで像を作りその前にひれ伏す。 その残りは火に燃やし、そのまた残りで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、身を暖めて言う「ああ、暖まった、熱くなった」と。 そしてその余りでまた神を作って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って「あなたはわが神だ、わたしを救ってください」と言う。

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御札やお守りもそうですね。おみくじもそうです。
これらは、神社仏閣から下請けされ作成する業者さんがいます。国内にある数社が作成し、全国の寺社仏閣に納めています。果たしてこれらがあなたを守ってくれるでしょうか。

また、偶像礼拝は物にとどまらないと聖書にあります。欲望を引っ張られてしまい理性が利かなくなるもの。煙草やお金も偶像の一種です。

コロサイ人への手紙3章5節
地上のからだの諸部分、つまり不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりがそのまま偶像礼拝なのです。

ぜひ、聖書の神様があなたに注ぐ恵みに目を留めてみてほしいと願っています。

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