#35 でも独立は、させてやる。
独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人にへつらうものなり。常に人を恐れ人にへつらう者は次第にこれに慣れ、その面の皮鉄の如くなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。所謂習、性と為るとは此事にて、慣れたることは容易に改め難きものなり。 福沢諭吉 著述家
独(ひと)りで立(た)つと書いて、独立と読む。
引用が続いて申し訳ないが、その意味を振り返ってみる。
独立(どくりつ)
1 他のものから離れて別になっていること。
2 他からの束縛や支配を受けないで、自分の意志で行動すること。
3 自分の力で生計を営むこと。また、自分で事業を営むこと。
4 他からの干渉・拘束を受けずに、単独にその権限を行使できること。
5 一国または一団体が完全にその主権を行使できる状態になること。
一息に言えば、群れないで自分が思う通りに独りでやるという事である。
今の世で言う独立とは、育った家を出て暮らす事だったり、会社を辞めて起業したりする意味で使われる。しかし多様化する現代の暮らし方の中では、わざわざ家を出る理由が無ければ、物理的な独立をしないという選択肢も多い。
多様化する暮らしの中でどうあるべきかという事は言いにくいが、せめて物理的な独立をして、やがて精神的にも独立していくことを目指すのが一般的ではある。独立していこう、という気持ちが人にはそもそもあるハズである。
・・・え?ないって?まぁ、そういうこともあり得る。でももしかしたらそれはあなたのせいだけではないかもしれない。あなたを守る者のせいかもしれない。
それでは下のコマを見てもらいたい。
てんとう虫コミックスドラえもん第15巻収録「ナイヘヤドア」からの1コマ。
毎日の暮らしを親に頼りっぱなしで自分を情けなく思ったのび太。歯ぎしりしながら貯金しているところをドラえもんに見つかる。のび太がワケを話してドラえもんに自分の力を試してみたい!と独立の相談をすると、「えらい!力をかしてやるから、やれるだけやってみな。」となり、二人はアパートへ向かう。てっきりドラえもんがアパートを借りてくれるのかと思いきや、そんなお金ない。と言い、これはその次のコマである。
「独立はさせてやる」
この言葉は大きな矛盾をはらんでいるように見える。独立をさせてもらうのであれば、のび太は本当の意味で独立できていないのではないだろうか。ドラえもんの援助ありきで独立する事になるからだ。
だからこの時点で彼らがやろうとしていることが、あくまでも独立ごっこになっている点に注目したい。そもそも小学生が、独りで暮らすのは難しいというのは言うまでもなく明白だ。それにのび太が貯金しているのは100円とかそのくらいのお小遣い程度だと推測する。とてもじゃないけど独立資金には足りないだろう。
それを踏まえた上でも、ドラえもんはのび太の独立精神だけを伸ばしてやりたいと思ったのではないだろうか。そんな風に、端々に親心的な温かさを感じるのは、F先生の言葉のマジックのせいであると言える。
のび太からは、大きなクエスチョンマークが出ている。ドラえもんはお金がないのに、どうやって自分を独立させてくれるのかがわからないからである。しかし、前述した通りこれはすでに「独立ごっこ」なのである。ドラえもんはのび太を本当に独立させる訳ではないのだ。
今回抜き出したこのコマだけを見てみると、この言葉が浮かんできた。
親の心、子知らず。である。
親の心子知らずとは、親の子に対する深い愛情がわからず、子が勝手気ままにふるまうこと。 また、自分が親になってみなければ、親の気持ちはわからないということ。
保護者であるドラえもんの目的は、のび太の独立精神を育てるためにいると言える。親代わりといっても過言ではない。だから、これが実際には独立ごっこである事を、のび太に名言したりはしないのである。あくまでも、本当に独立しているかのようにさせてあげようとしているのである。そうやって体験させてあげようとしているのである。
そういった意図は、のび太にはわからないだろうな。と思った時、この大きなクエスチョンマークが大いにしっくりくるように思えた。
次に、なぜこのコマの2人はバックショットで描かれているのだろうか、と考えてみた。
まず、のび太はここから先に行く目的地(4号室の無いアパート)を知らないので、必然的にドラえもんについていく事になる。その結果、並んで歩く構図からこのコマのように、ドラえもんが先導する構図に切り替わるのである。
これも前述したが、ドラえもんの言う事を理解できていないのび太が、そこに置いてきぼりにされているという事を表現するために後ろ向きに描かれているのではないだろうか。だからこのコマは文脈と構図が見事に一致していると言える。
こんなにも自然体に描かれているのに、である。何気ない1コマに立ち止まって分析してみると、そこには様々なテクニックとスキルが生かされているのだ。
ただ一方では、もしかして顔を書くのが面倒だったからじゃないだろうか。という邪推も出来る。当時、小学館の雑誌の複数に同時連載していたことを考えれば、いかに自然に手を抜くか。は重要だったかもしれない。
さて、物理的な意味での独立はしていても、精神的には独立していない人もいる。べき論で言えば多くの人は、自ら独立していくべきであり、さらにその先で、また別の誰かを独立させるべきである。こうして独立した個の集合体が集まって、社会を形成していく。
家族というコミュニティーは、人間に取って基本になる。生まれてすぐに入るコミュニティーは家族でもある。一般的には、死ぬまで家族というコミュニティーには所属し続ける事になる。
しかし野生動物の親は、子が社会で暮らせるようになるまで子育てを行った後、時期を見て子供を突き放す。親離れされた子は頼るものなく野に放たれるが、いずれその意味を理解し、自らで獲物を捕らえて食べるようになる。
自然の中では、親は子を「独立させてやる」のである。
これを踏まえると、独立とはそもそも、誰かにさせてもらうものなのかもしれない。と思えてきた。
ハイハイから初めて、つかまり立ちを経て、やがて赤ん坊が歩き出す時。
その時、手を出さないで見守る親は、自ら歩き出す子供を独立させてやっているのだ。
独立とは、そこに至るまでに誰かしら必ずいたと言う事である。
だから、ドラえもんのこのセリフは、何もおかしくない。ドラえもんがのび太を、独立させてやるのだ。そうやって彼は成長を促されるのである。
そしてその意味を、大きな?を出すのび太がわからないのも、自然な事だ。
ドラえもんが見せているのは、背中だ。独立を促すとき、見せるべきは背中なのかも知れない。
何気無いこの1コマから、自分が今、独立しているのが、沢山の人が独立させてくれたからなのではないか。と言う事に気がつくに至った。
確かに、多くの人の背中を見てきたような気もする。次は自分がどんな背中を見せられるか何だろうと思った。後ろに人がいれば、だが。
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