見出し画像

#38 ぼくがきみらの罪をぜんぶ引きうけよう。

#1コマでどれだけ語れるかチャレンジ

人間の大部分は罪にではなく、罪人に対して腹を立てている。
政治家、哲学者、詩人 ルキウス・アンナエウス・セネカ

テレワークで会議をしていた時、話がそれにそれて「これまで自分がどんな酷い仕打ちを受けてきたか。」という話になった。

ある人が「僕はね、仕事で受けた仕打ちは絶対に忘れないんですよ。」

と言いだした。

これまで軽んじられてきたと言うこの人は、やすい金額でかなりの労働を強いられ、アイディアを盗まれ、手柄を横取りされたりもしてきたそうだ。

熱量を込めて語るこの人の中には、だいぶ昔の話だとは言え、まだまだ怒りが心の中で燃え盛っている事を伝えて来た。

こういう、ネガティブな感情は伝搬する。僕まで怒りを感じて来た。身体に良くない。だって本当は僕に関係のない話だからだ。

だからこういう時は感情じゃなくて、理屈で捉える事にしている。

まず、構造的に考えてみる。

仕事には発注者と受注者がいて、そこには明確なヒエラルキーがある。

金を出す人とその金で実際に仕事をする人に分かれ、当然、金を出す人が上に来る事になる。出された金で仕事をする人は、その責務を果たさねば対価である金を得られない。

画像2

間に別の人が入る事もある。発注者はこの別の人に発注して、その別の人が、また別の人に発注する。こうして発注者を頂点としたピラミッドが形成され、上に行けば行くほど、労少なくして益多しの状態になる。

また。金の流れはよく流れる川に例えられる。

当然、上流の方が純粋できれいで旨味が多い。汲み取ればきれいな水がたっぷりとその手に入るだろう。

逆に下流に行けば行くほど、汚れて少なくなっている。広がった金の流れは、手で掬っても少ししか取れない。労多くして益少なしという事になる。

画像3

この構図の中で、下請けでしか仕事をして来なかった場合、当然なことながら、忙しいのに儲からない。という淀みに流れてついてしまう。淀みにいるという事は、お金を流してもらう立場なので弱いし、そこから動けない。という状況になる。


もちろん下請けには下請けの、中間業者には中間業者の、代理店には代理店の、元請けには元請けの、発注者には発注者の辛さがある。それぞれがそれぞれの立場で、”労多く”している・・・ハズである。

だから上に行くほど、益ばかり占めてズルい。という事でも一概には言えない。結局のところ本質は、作業と責任の分散と分担である。

責任の重さは上に行くほど大きいのが筋だ。

いや、筋なんだ。理屈ではね。

よって責任の少ないハズの受ける側の人は、相対的に作業量が多くなり辛くなるのは仕方がない。

だが、委託された作業を行うために、全体像を把握する必要があるばかりか、その作業の為に全体のビジョンを整理して、行く方向や表現までも決めなくてはいけない状況が出てくる。そして上からの指示は一切無い。

いわゆる「丸投げ」だ。

そうなると下請けなのに、プロジェクトの管理をしているような事になる。丸投げに対応できるような能力のある下請けは、このような事態になりがちだ。それに伴い、負わないハズの責任までもが増えてくる。

画像4

実はこの状態こそが、労多くして益少なしの正体だ。責任が増えるというか押し付けられると、自分の仕事以外の事もしなくてはいけない。それが出来る下請けは優秀だが、やはり益少なしに陥り勝ちだ。

冒頭の「受けた仕打ちは絶対に忘れない」と言った人は、なぜそのような仕打ちを受けたのかについては具体的な説明はしてくれなかった。ただ、自分の立場は弱く、丸投げにも対応せざるを得なくしているとの事であった。

説明したようにそれは社会の仕組み・構造である。そこに文句を言いたい気持ちは理解できるが、変えたいのであれば資本主義の世界から変えなくてはならない。だから丸投げされる側の立場だとしても、最終的には金銭交渉がうまくいったかどうかの問題になる。納得できる額がもらえるかどうかである。

身も蓋も無いが、多くの場合これが真実だ。

画像5

なんやかんや言ってもやっているのはビジネスである。下請けは残念ながら、安い金額で労働を強いられ、アイディアを盗まれ、手柄を横取りされる、いわば搾取される側の存在だ。それ自体の事は、仕打ちとは言わないのではないだろうか。悲しいけれど、これ現実なのよね。

もしかしたら本当はとても言えないような、常識から逸脱したもっと酷い話があるのかもしれないが、その辺を教えてはくれないのだから聞いている僕はどうしてそうなったかという原因もわからない。背景を説明しないという事は、自分にも後ろめたい事があるのかもしれない。

それはまぁ想像でしかないが、いずれにしても、その相手が自分に対して犯した「罪」を決して許したくないんだろうな、という事だけ理解できた。

どうやらその話は、すいぶん昔の事のようであった。いかなる感情も、時と共に薄れていってしまうのが人間である。そういった意味で、15年近い前の話に対して、今血圧をあげて話す必要は無いのではないだろうか。

「あいつは許せないし、今更信用できない」という言葉があった。これを聞いた時、本当は起こった罪はもうどうでも良くなっていて、今は「あの人は罪人である」というレッテルだけが心に残っているのではないだろうか。と思えて来た。

高揚して赤い顔になり、唾を飛ばしながら饒舌に悪口を言い続ける・・・それはまるで正義を執行していて、どこかでは愉悦を感じてさえいるかのようだった。

僕の心がザワザワして、何かが引っかかったような気がしたのは、これなのかもしれない。

僕も人の罪を責めたくなるような時、自分の中にあるこんな感情が顔を出す。

私は、あの人の事を責める事が出来る。あの人は私に対して罪を犯した。怒りの感情はまだ収まらない。だからこれは正当性のある「あの人を責めたり悪口を言ったりする事の出来る」私だけの免罪符なのだ。だから、私はいつでもこの怒りを取り出して、いつでもあの人を責めよう。
あの人は「私の罪人」なのだから。ヒヒヒヒィ!


では下記のコマを見て欲しい。

画像1てんとう虫コミックスドラえもん第8巻掲載「ニクメナイン」からの1コマ。

粗相をされたジャイアンまでもが、「どうしてかアイツは憎めない」と思われる人(名前不明)をうらやましく思ったのび太。そうなりたいと駄々をこねるのび太にドラえもんが渋々に出したひみつ道具が「ニクメナイン」という薬である。これを飲めばたちまち「なぜだか憎めない人」になれる。何をしても、していなくても、自分のせいにさえすれば全てが許されるのび太。案の定調子に乗り、自分に関係の無いみんなの罪を引き受ける事を宣言したシーンである。

こ、これは宗教画ですか?そう思えるだけの要素がたくさん詰まっている。出来るだけ分析してみよう。

まず、のび太のポーズからだ。

大きく広げられた手を天に伸ばし、懐をひらいて人を受け入れるポーズを取っているのび太。もちろん、その相手は左側にいるみんなに対してである。罪を引き受けると言っているのだ、胸の内、懐の広さを見せないでどうすると言わんばかりだ。または十字架に貼り付けにされたイエス・キリストの模倣かもしれない。であるならば、これはメシアの降臨である。

背景に、書き込まれた集中線はこの場がパっと明るく輝いたという表現だ。他人が自分の罪を引き受けてくれるというのだから、人類の希望の灯が点いたと言っても過言ではないのだ。ここに救いがある事を表している。

のび太の周りに何気なく描かれた草木の描写は、コマのバランスが左に集中していることと、のび太の周りが白く空いてしまうのを防いだのではないだろうか。一見、無くてもいいように思えるかもしれないが、これがコマに違和感を無くすための技術であると言える。

これは深読みしすぎだが、草木・植物というのは、生命力とか神秘的な力の象徴なのかもしれない。自然とはそういう神々しさを表すのに使われる物の1つだ。

左からジャイアン、しずちゃん、安雄、スネ夫の順に並んでいるが、しずちゃん以外はのび太と同じポーズだ。万歳しているともいえるし、自分のすべてを曝け出してのび太に任せようとしているようにも見える。

しずちゃんに至っては、祈りのポーズである。これで救われたのだという安堵が表情からも見て取れる。これも信仰のなせる業であろう。

では、次にセリフを見て欲しい。

「ぼくがきみらの罪をぜんぶ引きうけよう。」

「のび太さま!」

キリストみたいなおかただ。

どれをとっても笑えるが、ここで触れておきたい点は、ジャイアンの教養についてだ。

ジャイアンが、人々の罪を引き受けて自己犠牲を示したイエス・キリストについてある程度の理解をしている。あのジャイアンがである。ここがこのコマの面白ポイントであると言える。このタイミングでこの一言を発せられるというのは、非常にウィットに富んでいる。

しかし、ジャイアンの教養は所詮は子供のレベルである。自らが犯した罪は、母ちゃんに叱られる程度の話であり、それは罪の懺悔というよりも罰の回避だ。他のメンツの罪も、正直しょうもない内容だ。

このように悔い改めの無い罰の回避は、キリストの本意ではないだろう。そこが、笑えるポイントである。つまるところ、のび太はみんなの都合の良い救世主になってしまっている。良く考えられ、いくつかのレイヤーに分けられた面白さのミルフィーユみたいなコマである。

このコマの元となった宗教画も本当にあるのかもしれない。
もし心当たりがある人がいたら教えて欲しい。


さて、ここで「罪」の定義を見てみる。

罪(つみ)とは、規範や倫理に反する行為をさす。

人としてのルールや、社会の常識、通念などに反する事が罪になる。法律や規則を破るのも、ルールを破るという違反であり、違反をするというのは、罪である。罪は概念的でより広義に使われるようだ。

もう一つの定義として言えるのは、神話や聖書の世界からだ。人は生まれながらにして罪を持っているという物がある。アダムとイブから続く、原罪というやつだ。神の規範や倫理に反して、知恵の実を食べたからである。

この原罪という点でみると、人が自らでその罪を償える事は出来ないとなっており、神に赦しを乞いながら生きる事で救われるとされる。であるならば、罪という物はそもそも人自身には償えない物であるのかもしれない。

考えてみれば、起きて過ぎてしまった事をどうやって償うのか。現代社会では、刑務所にお勤めしたり、賠償金を払ったりするとされているが、過去自体を変えられないのだから、それは結局のところ代償でしかない。

では我々は、人は、罪に対してどう対処するべきなのだろうか。

誰にも犯した罪は償えない。もしそうだとしたら、当事者にはどうしようもないのだから、他者が許しを与えるしかないのではないだろうか。

このニクメナインという薬の効果は、他人に許されるような何かを強化して、許される体質になる。その対極として「ムシスカン(虫スカン)」が存在するが、これを飲むと「強烈なふゆかい放射能」が身体から発せられる。

故に、ニクメナインを飲むと、体からゆかい放射能を出すという事になる。

整理するとこうだ。

・体からゆかい放射能(線)を出すニクメナイン

・体からふゆかい放射能(線)を出すムシスカン

つまり、まだ我々には発見できていない2種類の放射線源を体に取り込むというのがこの2つのひみつ道具という事になる。

放射能なんて言うといい印象では無いかも知れないが、医療では毎日使われている。レントゲンもそうだし、がんの発見検査や、シャーレなどの殺菌にも使われている。どこにでもある身近にある物だ。

だから今はわかっていないだけで、もしかしたら本当に、ゆかい/ふゆかいを感じさせる放射能はあるのかもしれない。現在の人間の道具ではそれを計測できないだけだ。そう思うと、未来世界のバイオテクノロジーは凄いよね。夢が広がる無限の宇宙さ。


冒頭、受けた仕打ちを忘れない人の話をした。彼の気持ちは、その語り口の熱量から理解できた。誰でも不利益を被る様に理不尽さで扱われたと思ったら、我慢できない事だってあるだろう。

しかし、そのせいでいつまでも怒りの感情を持って「自分にとっての罪人」を糾弾し続けることも、おそらくまた別の「罪」なのではないだろうか。そしてそれを聞いた人に、ふゆかい放射能を浴びさせて、負のエネルギーを伝搬してしまうふゆかい放射線源になってしまうのも別の「罪」であると言えるのではないだろうか。

誰かの罪のせいで、自らが別の罪を犯すべきではない。と言える。

復讐的な考え方も良くない。責めたところで誰にも、犯してきた罪は償えないのだ。

同じように、のび太がやろうとした誰かが他人の罪を引き受ける事なんていうのも、やっぱり不可能だろう。ニクメナインを使っても、許されるのは罪ではなくて、のび太という人だ。

「罪を憎んで人を憎まず」とはよく言ったものだ。

どこにも人を憎んでもいい免罪符なんて無いのだ。

できるのは、罪だけを憎んで、他人の事も自分の事も許すという事なんだろう。

もし、

もしそうできたのなら、

その時は僕もあなたも、キリストみたいなおかただ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?