見出し画像

#39 助けてといってくれえ!!

#1コマでどれだけ語れるかチャレンジ

野生動物はエサを食べません。エサを食べたらもう家畜です。
エサというのは人間が与えるものです。
エッセイスト 永六輔

生きているという事は、与えられていると言えるかもしれません。

生を受け、名を受け、食物を受け、世話を受け、教育を受け、仕事を受け、子を受け、やがて誰もが死を受け入れます。

与えられるとは言っても通常、ある程度の自由意思がそこに介在します。

どんなものを食べ、どんな教育を受けて、どんな仕事につくか。

もちろん全てが希望通りとは言えませんが、大体の場合において自らの意思によって選択を行います。

この「自らの意思」は、それぞれがどのような環境で育ってきたかによって変わります。選ばれた意思とは、その人がこれまでに経験してきた事や受けて来た教育によって変わるのです。

だから「あの人は、なぜその選択をしたのか」という、理解できない事が起こるのは自然です。

もっとも考え方が似ている人はいるかもしれません。ですが2人としてあなたと同じように生きて来て、同じ経験をした人はいません。

そのために、違って当たり前なのです。むしろ全く同じ考え方をしていたら、それはどちらかが片方に合わせているかもしれませんし、忖度などのように気持ちの良いものではないかもしれません。

その視点から見ると、他人の考え方というものは尊重すべき物であると言えます。その人が生きて来た道筋の先にあるのが、考え方だからです。考え方を否定すると、生き方を否定するような事になりかねないのです。

相手を理解できないという事は、新しい知見を得るためのチャンスであると言えます。人間としての幅や深みを増すためにも、常に相手を理解しようとするべきであるという事です。

周りがそういう人たちの集まりであれば、お互いの事を理解しようとしてくれる訳ですから、より良い相互理解へとつながる訳ですね。世界平和も夢ではありません。

しかし、その違いが受け入れられない程の物だったらどうしたらいいのでしょうか。

それこそ生きるか、死ぬかというほどの違いだったなら。

F先生は、この「相互理解」という物の難しさについて、こんな形で示してくれています。

このコマをご覧ください。

藤子・F・不二雄SF短編集<PERFECT版>1 収録「ミノタウロスの皿」からの1コマです(2コマだけど)

まず最初に言っておきたいのは、この銃を構えているのは21エモンではありません。極めて似ていますが、彼では無いのです。

彼は、この「ミノタウロスの皿」の主人公でありながら、原作では名前の設定はありません。アニメ版では「立花」という名前だそうです。ここでは、主人公と呼びます。

左の裸の女性は「ミノア」という名前の、主人公とは違う星の人間です。

以下は「ミノタウロスの皿」のあらすじです。wikipediaからの引用

宇宙船の事故で地球によく似た惑星に緊急着陸した主人公は、その星でミノアという少女に救出される。その星は、地球でいうところの牛に酷似した種族が支配する世界で、彼らは地球でいうところの人間に酷似した種族を家畜として育てていた。地球のウシと人類が逆転したような世界に唖然とするものの、主人公は美しく気立てのいいミノアに惹かれる。しかし、当のミノアはその家畜の中でも特に育ちの良い食用種で、最高級の食材「ミノタウロスの皿」に選ばれ、民衆の祭典で食べられる運命にあると知り、愕然とする。主人公は喜んで食べられようとするミノアを助け出そうと説得に奔走するが、彼女にも高官にもまるで話が通用しない。猶予が無くなり、光線銃を片手に強行手段を取ろうとするものの結局は救出できず、迎えの宇宙船に乗り込んだ主人公は、ミノアのその後を想像して泣きながらステーキを食べるのだった。

このあらすじだけでも、身の毛のよだつような気持ち悪さがありますね。

そして、ここにあるように、

光線銃を片手に強行手段を取ろうとするものの結局は救出できず、

のシーンがこのコマになります。

では、さっそくセリフを見てみましょう。

主人公「助けてといってくれえ!!」

ドン ジャン

ミノア「そうでしょ、おいしそうでしょ。」

この ドン ジャン というのは、ミノタウロスの皿であるミノアが、食べられるための前処理を終え、解体されるための祭壇へと向かうのをお祝いするパレードの音です。

この音が主人公とミノアの会話が成り立っていない理由の1つです。要するに聞こえなかったので、きっとこういっているんだろう。という予想でミノアは答えている訳ですね。

しかし、それはすれ違いの理由の全てではありません

仮に聞こえていたとしても、ミノアは主人公の説得には応じなかったのではないでしょうか。ミノタウロスの皿とはそれほどの栄誉なのです。そして、そのために生きて来たミノアにはそれが人生の全てであり、最終目的地でもあります。例え、その後が死であるとしてもです。

このコマの前に、ミノアは死ぬのは怖いという気持ちがある事を主人公に打ち明けています。しかしながら、ミノタウロスの皿の栄誉を失う事の方が怖いとも言いました。それを聞いて呆気にとられた主人公は、そのまま放心してしまい、ミノアとの会話はそこで終わってしまいました。

ここに重大な考え方・価値観の違いがあります。それは文化的な違いでもあり、常識の違い、宗教の違い、生物としての違い、そしてお互いが絶対に理解しえないギャップが存在する訳です。

まとめるとこうです。

一方は、ステーキが好物な主人公は牛を食べる地球人。

一方は、ズン類に食べられるという栄誉ある死を自ら望む家畜ミノア。

一時、心を通わせる事があっても、決して二人が一緒に歩むことはありません。どうであれ、家畜と結婚する人はいないのです。

地球ではない星であっても、たとえそこにどんなに文化や思想の違いがあっても、人(人類・ズン類)とそれ以外という構図・関係性は変わらないのかも知れません。※主人公は、ズン類から主人公が地球のズン類に当たるという事を認識されています。


さて、次はこのセリフです。

主人公「助けてといってくれえ!!」

世の中の漫画に、こんなに悲しくて美しいセリフはなかなかありません。

彼は、ミノア本人からの「ミノアを助ける許可がいる状態」になってしまっているのです。

つまり、今まさに食べられようとしているミノアが、本当はどこかでまだ死にたくないと思っていて欲しいのです。つまり彼の願望がこのセリフの中に含まれているのです。

死ぬほど誠に僭越ながら、セリフに込められた思いを継ぎ足すとこんな感じかもしれません。

「助けてといってくれえ!!君さえそう思ってくれれば、俺にそう伝えてくれれば、俺はこの光線銃で周りのやつらを倒してでも、君を助けるのに!

しかし、これはミノアは望んでいない事なのです。ミノアは今まさに、栄誉ある死を、彼女の望み通りに遂げようとしているのです。

もっとも、ミノアはすでに体の洗浄から、血の入替、そして頭を人工心肺に繋げる準備までも終わっています。仮にここで助けたところで、彼女はその後にも人として生きて行けるのでしょうか。

もしかしたら処置室を見て来た主人公も、認めたくはないでしょうが、そういう事に気が付いているのかもしれません。そして、彼の願いが心のどこかでは、決してかなわない事も理解してるのかもしれません。だから、こんな変なセリフになってしまっているのです。

ですが、彼が希望を捨てる訳にはいかないのです。

わかっていても、いや、だからこそ叫ぶのです。

しかし、無常にも ドン ジャン にかき消されるのです。

そしてトドメは、
ミノアの「そうでしょ、おいしそうでしょ?」のセリフです。

主人公の声が聞こえなかった彼女は、彼が自分に対して、他の人たち(ズン類たち)が言うように、「おいしそうだ!」と言っていると思っているのです。彼も祝福してくれている、と。

この事からわかるのは、主人公の気持ちや思いは、ミノアには全く通じていなかったという事です。そして、その逆も然りです。ミノアの気持ちを、主人公は最後まで理解することは出来なかったのです。

だから、この

「助けてといってくれえ!!」

は、悲しくも切なく残酷なほどに美しいセリフだと言えるのです。


私たちにも、誰かに対してその人が選択したモノやコトに対して、理解できない。という事が多々起こります。

しかし、その選択は選択をしたその人にとっては、ごく当たり前の事だったりします。

なぜこのような違いがあるのか。それは、

自分と他人では、得ている物も、与えられている物も違うからです。

得ている物も、与えられている物も、その人の考え方や生き方に影響します。そして得ている物よりも、与えられている物の方がはるかに大きく多いのです。むしろほとんどの物事は、与えらえているという事に気が付くかもしれません。

つまり、私たちの考え方や生き方は、ほぼ与えられている物によって決まってきている。という事になります。

与えられている物とは、物質的な物もそうですし、精神的な物かもしれませんし、才能や環境なども含むかもしれません。

そして明らかに私たちは得た物を分かちあう事よりも、与えられた物で普段を生きていると言えます。得た物は圧倒的に少ないのです。

そのために相互理解に至るという事が、いかに難しいかが良くわかります。むしろ理解しあえるというのは、幻想とも言えるかもしれません。あまりにも基準が違い過ぎるからです。

では、仮にそうであったとして、私たちはどうするべきでしょうか。

そうです。

やっぱり叫ぶしかないのです。

「助けてといってくれえ!!」と。

あるいは、こういいます。

「そうでしょ、おいしそうでしょ?」と。

例え何度も失望する事になっても、叫び続けるしかないのです。

そしてすれ違いながらも、何とか誰かと寄り添って生きたい。
と思い続ける。

同じ気持ちであってほしいと思い続ける。

そうであることが、悲しくも美しい人類なのだと思うからです。

願わくば、それが、その選択が、
誰かに与えられた物では無く、自分で得た物であって欲しいと思います。


それでは本年もよろしくお願いいたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?