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『トランスジェンダー入門』ノンバイナリーに関心がある人も必読の本

周司あきら、高井ゆと里による、トランスジェンダー入門書。新書のためコンパクトで読みやすい。

第1章 トランスジェンダーとは?
第2章 性別移行
第3章 差別
第4章 医療と健康
第5章 法律
第6章 フェミニズムと男性学

『トランスジェンダー入門』集英社、2023年、目次(章のみ)

ノンバイナリーが見る世界

①女/男として生きる。
②女は「女らしく」、男は「男らしく」生きる。

この2つの(性別を割り当てられた人の)課題(本書p. 35)を見て、私は②が嫌なだけのシスジェンダーなのだろうか?とも思ったが、

ノンバイナリーは、あらゆる場面で人間を男女に区別したがったり、性差には意味があることを当然としたりすることに疑問を抱いている人々。

というような話(本書pp. 206-207)を読んで、やはり自分はノンバイナリーかなあと思った。

そういう話をすると、「では男女に違いはないと思っているのか?」などと言ってくる人がいるが、そもそもすべての人にはそれぞれ違いがある。

「男性とされている人の大多数が共通して持っている特徴」があったとしても、「男性だからそうなのだ、そして女性はそうでない人が圧倒的多数なのだ」と認識、主張する意味が本当にそんなにあるのだろうか?

(医療の場面で「こういう器官がある人、ない人」などという情報は必要だが、例えば「女性」とされているすべての人に子宮があるわけではない。個別にその人に合った医療を適用してほしいし、そうすべきだろう。コストや人手の問題もあり、健康診断で「女性/男性の正常値はこの範囲」というふうに平均値などで(?)規定してしまうのだろうが・・・)

人種は確かに存在する(異なる人種の人たちの間に生まれ、単一の人種に特定されない人もいるにしても)。だからといって、「〇〇の人種の人はこう」と取り立てて言う意味があまりよくわからない。(性別と人種では話が違うのかもしれないが、どうだろう、違わない気もする)

アファーマティブアクションなどの際にそうした「区別」は必要だと言われても、そもそも性別や人種の違いによって差別をするからそういうアクションが必要になっているわけで、差別をやめれば、性別や人種を過度に持ち出す必要もなくなる。

単に「差別をやめましょう」と呼び掛けても差別はなくならないのだが、性別や人種を過度に意識することをやめていくことから始めることはできないのだろうか?

ノンバイナリーの人が少ないことを考えると、そうできる人は少数派なのだろうが。ノンバイナリーの考え方に触れても、多数派はやはり変わらないのかな、どうなのかな。

特例法の問題点

本書全体が、トランスジェンダーについて話し合う上での情報を提供し、話し合いのきっかけになると思うが、特に「第5章 法律」は誰もが読むといいと思う。

(本という特性上、最新情報が反映されていない箇所もあるが、増刷時に修正されるなどの対応があるとありがたい。日本の性交同意年齢が13歳と記述してある(pp. 160-161)が、16歳に引き上げられた点など。ただし、この変更は本書の該当箇所の議論に大きな変更はもたらさないだろう。
「今回の改正で、性交同意年齢は16歳に引き上げられました。ただし、13歳以上16歳未満に対しては、被害者より年齢が5歳以上上の行為者だった場合のみ適用されます。」(ハフポストの記事より引用))

例えば、戸籍上の性別を「女」から「男」、または「男」から「女」へ変更できる「特例法」が定める変更の5要件は知っていたが、「不妊化要件」や「外観要件」が具体的にどういうことなのか、聞きかじった情報でぼんやり想像していただけだった。そのような、特に非当事者にはアクセスしづらい情報についても具体的に記述してある。本書のように手軽に読める入門書がそうした情報を提供していれば、疑問や好奇心をぶしつけに当事者にぶつけたり、遠慮して聞けずにずっと知らないままでいたりすることも減るだろう。本書を読めばいいのだから。(特例法については本書pp. 151-174)

5つ目の「外観要件」が、「ペニスのある女性」を認めていない一方で、男性の身体の要件として例えばペニスの長さ(や太さ)を定めてはおらず、これには、女性の身体のみを管理しようとする思惑が透けて見える、という指摘(本書 pp. 165-166)は興味深い。(医学的にも、人間の身体は男女という2つにくっきりと分けられるわけではないことが知られている)

「第6章 フェミニズムと男性学」に、トランス女性が、トランスであることをアウティングされた途端に、知人から、いわば女性にそぐわない男性的な特徴があると言われる、という話が書いてある(本書p. 191)が、この話は、仕草などのみならず、いわゆる身体的な特徴についても、人は特徴自体からのみ男女を判別しているわけではなく、女/男であるという「前提知識」を基に「判断」している(部分もある)ことを示唆している。

4つ目の「不妊化要件」については、出産経験のあるトランス男性が自身の子どもが成人後に戸籍を「男」に変更した事例があり(本書p. 163)、精子凍結子宮移植(後者には倫理的な問題やリスクもある)の技術もある中で、外すべき要件だと思う。この要件があるのは、「子どもは女性が産む」ということにこだわっているせいかもしれないが、状況が変わってきているのだから、考え方を変えればいい。

よくある「心配」

トランスジェンダーについてしばしば言われる主張に、「性別変更の要件を厳しくしないと、「本当は」トランスではないのに性別を変える人が出てくる」「トランスではないのにトランスの振りをして、女性用トイレや女性用浴場に入る男性がいると困る」といったものがある。本書は、そうした「意見」に対しても反論を提示している。

医師の診断なしに本人による表明で性別変更を可能にする「セルフID」(日本では認められていない)についての懸念に対しては、性別移行は日常生活と人生のすべてに関わるため、必然性がないのに「気軽に」行うことはあり得ない、と述べている(本書pp. 167-168)。

女性スポーツや女性刑務所などに関して表明される「懸念」についても、人口の0.1%のトランス女性が「生じさせ得る」と考える事柄よりも、現に多くの事例が発生している問題にまずは取り組んだらどうか、と提言している(本書pp. 170-171)。

さらに、スポーツや公衆浴場の話と、トランスジェンダーの法的な性別承認は別の話であり、後者は人権の問題なのだ、と述べている(本書p. 171)。(妥当であるかは別にして、日本の公衆浴場でタトゥーのある人の入浴禁止を事業者が規定することは認められており、そういう個々のルールと人の性別登録は別の問題である、とも記されている(本書p. 167))

戸籍と婚姻制度は必要か?

「戸籍」(英語ではfamily register)制度自体が、かつての明治民法における家制度の残滓にほかならず、そもそも不必要な制度だとも言える

本書p. 175

そもそも婚姻制度が偏った利益・不利益をもたらす以上、婚姻制度自体がなくなって然るべきかもしれません。

本書p. 178

そのとおりだなあと思う。もしものとき(病気など)にはこの人に確認してください、というような意味合いのパートナーシップ制度や、この子どもの保護者は誰々です、と規定する制度は必要かもしれないが、それで十分なのではないか。子どもの保護者は、1人でも、2人でも、精子提供や代理出産に関わった人、またそうでなくても子どもの親の旧パートナーや現パートナーなどを含む3、4人、などということをあり得るのかどうか、わからないが、あり得なくもないかもしれない?(日本は単独親権で、共同親権にするかどうかも議論になっているので、当分そういうことは起こらなさそうにしても)

婚姻制度がなくなれば、結婚している・していないにまつわる面倒なあれこれもどうでもよくなって、みんな楽になるかもしれない。

「婚姻制度がなくなれば少子化がさらに進む」と言う人もいるかもしれないが、誰もが子育てしやすい環境さえ(法的に、そして社会全体の意識としても)整えれば、子どもを産みたい、子どもが欲しい、という人は一定数いると思う。婚姻制度自体が出生率を左右するわけではないのでは。

マイノリティーに対する法整備が進まない理由

なお自民党は、2021年の衆院選には選挙公約に記していたLGBTに関する議員立法の記述を2022年の参院選では削除しています。
性的マイノリティに限らず、日本にはさまざまなマイノリティ集団に対する差別の禁止を定めた法律がほぼ存在しません。2013年に制定された障害者差別解消法はその数少ない例外ですが、諸外国にあるような包括的差別禁止法を可能な限りすみやかに制定する必要があります。

本書p. 180

トランスの人口は全人口の1%にもはるかに届きません。つまり、社会のさまざまなルールを作ったり、何かを決定する場面にトランスの人が参加している確率は極めて少ないのです。にもかかわらず、シスの人たちにとって都合よく作られた法律や制度によって、トランスの人たちは自分の生存を縛られることになります。前章で扱った特例法などは、まさにその典型です。

本書p. 185

日本ではマイノリティーの権利保障があまり進んでいないと言われている。それはなぜなのか?

本書にはそこまで書かれていないが、上記の引用部分を見ると、やはり、よく言われることだが、政治家は票を集めることのみを考え、有権者は「自分」の利益のみを考えているためかなあと思える。「マイノリティーの問題はマイノリティーの問題だ」と考え、(マジョリティーである)自分たちの問題とは考えない。だから、マジョリティーを対象にした政策ばかりがまかり通る。

本書が指摘するように(pp. 185-186)、「過少代表」には問題があり、アファーマティブアクションも場合によっては必要だろうが、自身が当事者ではなくても当事者から話を聞いて行動していくことができたらいいのに、と思うのは夢物語なのだろうか?誰もが少なくとも一つはマイノリティー性を抱えているのではないだろうか?それを手がかりにして、さまざまなマイノリティーに注意を向けることはできないものだろうか。

「マイノリティーは自分たちの権利の主張ばかりする」などと言う人もいるようだが、主張しなくても権利を得られている人の考え方だなあと思う。そして、その自分が得られている権利さえも、過去の人々が「主張」したために得られたものかもしれないのに、歴史を知らないということなのだろうか?また、自分たちで「主張」せずに、ほかの誰か(それはマジョリティーになるだろう)がお情けで「与えて」くれるのを待っていろとでもいうのだろうか?

誤解しないでほしいことがあります。トランスジェンダーは、ただの「可哀そうなマイノリティ」ではありません。トランスたちは、自ら行動し、世界を変えるために運動を積み重ねてきましたし、これからもそうして世界を変えていくことでしょう。

本書p. 181

再びノンバイナリー、そしてジェンダー

本書を締めくくる、「第6章 フェミニズムと男性学」の「ノンバイナリーの政治」の項(本書pp. 205-211)は、読んでいて少し泣けてきた。例えば下記の部分。

人は好きな服装をし、好きな身体を生きればいいではありませんか。いちいち「それは女性的な格好だ」とか「それは男性的な身体だ」などと他人をジャッジするのは、誰にとっても得にはなりません。例えば現在の社会で「女性的」とされる服装を好むノンバイナリーの人に「あなたは女性らしい格好が好きだから、やっぱりただの女性なのでは?」とミスジェンダリングするのは最低の行為です。その人は、自分に手が届く範囲の服装のなかから、自分の好みに合う格好をしているだけです。

本書p. 208

最後にどうしても無視できないのは、学校という装置の役割です。学校は、いまだ男女の二分法を当たり前のものとは捉えていない幼い子どもに対して、あるべき性別らしさを教え込む役割を果たしています。学校は、ジェンダー二元論を反映しつつ、それを再生産する国家装置なのです。

本書p. 208

トランスジェンダーに限らず、ジェンダーやセクシュアリティーの問題には、ほかのことについては賢い人でも、驚くほどの無理解を示すことがある。それだけ人にとって自分の根本に関わるようなテーマなのかもしれない。無理解や知ろうともしないことにがっかりすることが多いのだが、諦めずになんとか少しずつでも変えていきたいと願っている。


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