「末期の眼」の駄文

「末期の眼」には自然が美しく映るそうである。
芥川を始め、川端が同名の随筆内で連想的に挙げる人物達は、みな文芸の人であり自然含めこの世界と向き合ってきた人であった。その彼らの最期の眼に、もし自然が美しく映っていたのだとしたら、それは面白くも当然のように思えてしまうかもしれない。

私は、自分に死期が目前まで迫っているなどとは微塵も思わないが、特別生きようとも思わない。怠惰に明け暮れ過ごす人間に、自然は無関心である。
私には末期の眼に似た物が訪れるとは思えない。何の前触れも意図も無く、ただ漠然と死を志すことは往々にしてあるが、自然は私の眼に何の変化も見せない。それは、彼らが私の衝動的な性分を見抜き、安易に私に死期を定めさせることを許さないためである。
こう書くと、自然が私に生を促すかのように見えるが、ただ彼らは無関心なだけだ。平生すら自然を美しく見ようと努力しない私に、自然も同様に無関心である。

自殺を忌むことは、現代では倫理的社会通念のようになっているが、これも西洋のキリスト教世界による産物なのだろうか。私は宗教に暗いので下手なことは言えないが、東洋では自殺を忌む教義をあまり聞かない気がする。こちらでは殉死のような慣習もあったぐらいであるから、実際自殺に対する東西の価値観は異なっていそうである。
宗教教理だとか慣習儀礼というのは元来実利性を伴ったものであろうから、自殺をしないことが利益だと判断したか、することに価値を見出したのかの違いだろう。色々と考察できそうだが私にはそこまで深く立ち入る余裕は無い。

それにしても忠義のために死ぬ人間が居るのも面白いが、神のために生きようと思える人間が居るというのは尚更面白い。
他人に自分の生を求めるのは一見利己的にも思えるが、他人のために自分の生を捧げていると見れば大いなる献身である。忠義の死も同様に大いなる献身であろうに、洋を跨ぐとこうも違うのかと驚かされる。
少なくとも私は神のために生きようとは思えそうに無い。生きよ、と命じられたとて、寧ろ死んでやろうと思うかもしれぬ。日頃から生に飽いた、この世は苦しい、と呟く私が未だ自殺に踏み切らないのはきっと動物的本能が故である。

川端は確か「末期の眼」の中で自殺に否定的だった気がする。ノーベル賞の演説でもそのようなことを言っていた覚えがある。私にとっては神が言うよりも川端が言う方が自殺を諦められるのだから滑稽だ。私はとかく、過去の読書からの影響を受けやすい。であるならば聖書を通読すれば神をも敬えるのだろうか。つくづくバカみたいな男である。

それにしても、川端が芥川の遺稿を幾度か引用しているのはやはり興味深い。芥川の遺稿を読むと、彼は自殺をする人間にしては嫌に落ち着いていて大真面目に死のうとしているのである。周到に自殺のための準備をしていく様に、自殺をする己への酔いを見出しておかしがることもできるが、実際に自殺してしまっているのだから本当に大真面目なのであって、バカにはできない。

川端は、芥川をそこまで尊敬していないとか、旧友宛にこんな手紙を書くのは芥川の汚点だ、みたいなことも書いていたと思うが、私はここに不粋ながらも川端の強がりを見出したくなってしまう。川端がわざわざそんなことをする人とも思いにくいが、芥川と彼は親しくない仲では無かった筈であるので、芥川の自殺が小さくない影響を彼に与えているのは本当だと思う。

芥川の大真面目な自殺は、漫然と暮らしながらぼんやりと死を思いつつ何も為さない私とえらい違いである。彼が敢えて挙げた死因は「ぼんやりとした不安」だったそうだが、彼の死は全くぼんやりとしていない。かといって衝動に任せた刹那的なものでも無い。彼は、じっくりと時間をかけて死と相対した末にそれを実行している。私はおろか並大抵の人間には到底できそうも無い。

私だけに限らず、漠然とした希死念慮が多く見受けられる現代だが、芥川の自殺を前にすると何もかも矮小に思えてくる。
少なくとも私は、死の恐怖や本能に打ち克つ胆力も、最期に覚悟の手紙を送るべき旧友も、未練無く寧ろ堂々として家長たる立場を失わずに自殺を告白できる妻子も、自分の言に違わずやり遂げてみせる決意も、端から端まで何一つ持ち合わせない。彼の自死にはある種狂気をも感じる。

死にたくなるほど人生に絶望していたりもした筈だったのに、こうしているとすっかり死を考えなくなっている私は、呆れんばかり単純短絡である。そうは言っても、私にとって希死念慮が衝動的なものであるように、川端の言も芥川の覚悟も、自殺を押し留める理由としてはこの上なく衝動的なものである。私も過去の一文学者を生の理由にできるほど暇では無い。

ただ、やはり「末期の眼」には少なからず興味がある。自然を美しく感じて死にたい、もしくはそれまで生きてみせる、だとかそんな陳腐で気障な動機ではない。
ただ興味がある。今までに冷静になって真摯に自然と相対してこなかった私は、この言葉に出会った時初めて世界を美しく見ようと思ったのである。いや、初めてでは無い。私は自然との嘗ての関係を思い出したのだ。
幼い頃の私は、どんな小さな木の芽にも、どんなちっぽけな虫にも、どんなに平凡な形の雲にも、心を動かしていた筈である。眼に映る全てに興味を示し、毎日毎日を全力で楽しんで生きていた筈である。
この幼い頃に自然を見つめていた私の眼は、末期のそれとは大きく違う。しかし、自然に対し大真面目だった点は同じである。自然に対して自分の全身全力で相対していたことは、きっと同じである。今の私は在りし日のような純真な気持ちで自然と向き合えそうも無い。
しかし、在りし日の私は失われない。
純真なまま自然と相対できていた私は、確かに過去に存在したのだ。

私は、ここから先どのように生きていくのか分からない。このままぼんやりと何も為さず死ぬか、衝動的につまらない自殺を遂げるか、そんなところだろうか。
そしてきっと、私がちっぽけな生を送るずっと前から、そしてその生を終えたずっと後も、きっと自然はそのままにしてそこに在る。
自然は何もしない。ただ見られるだけである。彼らは我々が純真だろうと末期だろうと、本来は全く無関心の筈である。
我々が、自然を様々に見るのである。

ふと思いたって筆を一旦置き、窓から外を眺めてみた。これを書いているのは深夜の1時であるが、夜の闇の中で草木は静かである。田畑で蛙達が無遠慮に鳴いているのが聞こえる。空を見上げたが雲で月は見えない。
やはり、私に自然は無関心である。しかし、たとえ衝動的な私の振る舞いだったとしても、ふとその様子を私に窺わせたのは、自然である。私に筆を置かせて眺めさせた自然が、そこに在る。
であるのに、いざ眺めると彼らは最初から無関心のままそこに在る。
この無関心さに美を見出してしまうのだから、人間というのは面白い生き物のようだ。

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