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★007 墨子「三辯」

【現代語訳】

弟子が墨子に聞いた
先生は、聖王は楽の儀礼を行わないという
昔の諸侯や士大夫も統治に疲れると音楽で休憩した
民も、春に耕し夏に刈り秋に納め冬に終えると音楽で憩った
まるで弓を張って矢を射ないようなもので、理解されないでしょう

墨子はいった
堯舜は質素な家に住んでいたが、楽の儀礼を行った
湯王は桀を放伐した後、新しい楽を加えた
武王も紂を放伐した後、また新たな楽を加えた
周の成王はさらに自分の楽を加えた
成王の治世は武王に及ばず、武王は湯王に及ばず、湯王も堯舜に及ばない
楽が増えるほど統治は貧しくなっていった
楽は国を治めるのに必要ではないのだ

弟子はいう
それでは聖王にも楽があったわけですよね
聖王に楽は無いとはどういうことですか

墨子は答えた
過剰になったら控えねばならぬ
食べ物も生きるために食べるのは知恵だが、食べ物自体は知恵ではない
聖王の楽は最低限で、ほとんど無いに等しいのだ

【コメント】

空腹で美味しすぎて目をつむって食べたからカロリーゼロみたいな感じ
急に問答体になったわけではなく、実はこれまでも論語の「子曰く」
方式で書かれてあったが、一方的な語りのみなので省略した
この時代のスタンダードなのか、そういえば初期仏典も
アーナンダが聞いた、みたいなのがあったような(うろ覚え

墨子の考えとしては、とにかく質素で過剰でないこと
そしておそらくやはり儒家へのアンチとして
当時すでにどんどん煩雑になる礼楽を批判したものなのだろう
実際に、儒教は心の内の見えない徳は、外側の礼儀に現れるという考え(たしか
予想通りどんどん形骸化して、心の中を無視して形だけになったとよくいわれる

そしてやはり見たこともない古代を理想化し
その古代の聖王たちも、時代を下るにつれて劣化しているとまで述べている
人類が今も続いていて、いわゆる発展してきた理由は
言葉や文字による知恵の継承と、継承される集団の人数といわれるが
時代に優劣の概念を持ち込むこと自体が違うと個人的には思う
前回に即していえば、人間の優秀度はつくづく変わらないと思う
単なる知恵の蓄積の成果だと思う
つまりいわゆる「発展」というのも少し違うと思う
単なる変化で、気候変動と同じ単なる変化だと思う
地球にとっては、今よりも暑かった時代も、氷河期もあったし
間違っても「地球の危機」ではなく、単に人類の危機でしかない
テクノロジーで乗り越えるのか、破綻して質素な生活に戻るのか
あるいは適者生存として進化するのか、まだ分からない

次回から墨子の有名なあたり?中心的なあたりっぽいところに入っていくはずです
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