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8309日

人生録を書いてみよう、ということで。

正直どなたが見ているか分からないので、書くのに少し抵抗はありますが自分のためには書かないであろうという思いから、公開を決断しました。

虐待表現や、虐待関連の詳細な心理描写を伴います。性別特有の記述も出てきます。抵抗のある方はきちんとご自身と相談した上で、見る見ないを判断していただければと思います。常体で書こうかと思ったのですが、シリアスになってしまいそうなので口語体で行きましょう😌乱文です!ご容赦を。

(偏った価値観や発言が記述されていますが、特定のどなたかに向けた攻撃ではない点ご了承ください)


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誰かの子どもとして生まれてきた女の子

ある女の子が、約23年前の2001年9月11日に、10年の不妊治療を経た母親によって産み出されました。女の子の誕生日にはアメリカ同時多発テロ事件から〇〇年、というニュースがいつも流れており、女の子は自分の誕生日に流れる衝撃的な映像をいつも不思議そうに見ていました。

未熟児、帝王切開で生まれた女の子は生まれてすぐNICUに入り、その後も保育器で時を過ごしました。母親は、帝王切開で痛む体を引きずりながら、女の子に会いに行きました。

女の子はしばらく沢山の点滴に繋がれており、それはそれは痛々しい様子だったそうです。成長した彼女の体には、今でも点滴痕が残っています。母親は、それを見て、どこか悦に入った様子で可哀想だと言うのです。

成長した女の子が見つけた母子手帳には、母親の字で「〇〇はじめまして!ずーっと逢いたかったよ。産まれてきてくれて有難う!」というメッセージが書かれていました。

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ユートピア

女の子は念願の子どもだったこともあり、甘やかされまくってすくすくと育ちました。飼い犬に舐められて蕁麻疹だらけになり、押しピンを丸呑みする危機を潜り抜けながらも、女の子は保育園に通う年齢となりました。

保育園に預けられる際には、女の子はこの世の終わりかと思うほど泣き叫び、仕事に行く母親の心をひどく痛めつけました。保育園ではおやつを食べて、お友達と遊んで、お昼寝をして・・・。

幼稚園に上がってからも、女の子は何不自由なく過ごしていました。母親は女の子を本当に可愛がり、毎日ヘアアレンジをしてあげて、美味しいご飯を作ってあげました。正方形のビニール素材のケースの中に、たくさんのカラフルなヘアゴムやヘアピンがありました。女の子はその中からお気に入りのものを選んで、毎日楽しく幼稚園に通っていました。女の子は食べることが大好きで、母親はよく色とりどりの芋を蒸してくれていました。女の子の毎日はキラキラしていました。

明るく活発であった女の子は、常に走り回り、縄跳びをし、粘土で遊び、先生とお話をし、バスの運転手さんとも仲良くしていました。どの写真でも、女の子は必ず満面の笑みをしていました。

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こわい

ある日、女の子はお友達とその保護者たちとでお出かけに行きました。
楽しく車に揺られていると、女の子とお友達がトラブルになってしまいました。女の子はよく理解できませんでしたが、どうやら女の子ではなくお友達がトラブルの原因のようでした。

そのことを訴えようとした女の子は、見たこともない母親の怒りの表情を目にした上に、罵声を浴びせられました。女の子が口にするはずだった言葉は消え去り、代わりに涙と鼻水がたくさんでてきました。

女の子の母親を、お友達の保護者がたしなめました。その保護者は女の子の話も聞いてくれようとしましたが、女の子はひたすら泣くばかりでした。女の子は初めて、「ママよりちゃんと話を聞いてくれる、優しい人がいる」と思いました。同時に、「ママはおかしい」とも思いました。

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お受験

女の子の父親と母親の実家の間には大きな隔たりがありました。
女の子の父親の実家は由緒正しき家柄で、祖母(父方)には使用人がついていたそうです。当然、祖母(父方)は学歴、教養、礼儀、家柄などの体面を重視する人でした。その祖母から見た女の子の母親の家庭は、まさにイレギュラーでした。

【女の子の父親の家庭】
→祖母:薬剤師、良家の令嬢
 祖父:薬剤師
 父親:大学主席卒業、超大手企業に就職
 父親の弟:薬剤師、起業して社長に

【女の子の母親の家庭】
→祖母:中卒、美容師、一度離婚して再婚
 祖父:自衛隊、祖母の再婚相手
 母親:美容専門卒業後、看護師に

女の子の母親は、「こんな女は工場労働者とでも結婚すれば良い、うちの息子が結婚すべきじゃない」と言われました。母親は、それまでの人生の中で、見た目の特異さや家庭環境の複雑さから虐げられてきた人でした。母親の人生は劣等感でいっぱいでした。それなのに「ここでも虐げられるのか」と思いました。

紆余曲折を経て結婚した後、母親は流産を繰り返しました。街中で歩いている妊婦を見て「死ね」と言い放つくらいに追い詰められながら不妊治療をして、やっと女の子が生まれました。

そこまでして産まれた女の子は、絶対に馬鹿にされてはいけませんでした。色々な人を見返す道具として、女の子は絶対に頭の良い学校でエリートとして暮らさなければいけませんでした。女の子は小学校受験のために約数年間お受験教室に通い、英会話教室に通いました。両親の努力の甲斐があり、女の子は受験競争を経て有名私立小学校に入学しました。

母親は、女の子が合格した瞬間にアドレナリンが湧いて、こう思いました。
「これでやっと見返せる」「馬鹿にしてきた奴らを見下すことができる」
「今まで馬鹿にしてきた奴らが私を羨ましがっている」

こうして、母親の人生が新しく始まりました。

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【小学生】

すこしずつ、すこしずつ

女の子が小学2年生になる頃までは、相も変わらず平和に過ごしていました。しかし、小学3年生以降から女の子の日常はどんどんなくなっていきました。成長した女の子が覚えているのは、小学6年生のときに児童相談所に通報したことです。

女の子は、今でも通報した理由をよく覚えていません。その当時、通報する以前から、必死に児童相談所の人と毎日メールをしていたことは覚えています。学校に持って行ってはいけないガラケーを握りしめて、お昼休みには必ずお手洗いにこもって、メールを確認していました。メールは1日1回しか返してもらえませんでした。運が良ければ、1日2回やり取りをすることもありました。そのメールだけが、女の子の救いでした。

メールがバレたのか、通報をして両親に伝わってしまったのか、女の子はよく覚えていません。しかし、あるきっかけから児童相談所との交流が暴露されてしまいました。母親はこの世の恨みや憎悪を全て集めたかのようなエネルギーでもって、女の子を責め立てました。

「どれだけ私を馬鹿にしたいんだ!!!」「私に恥をかかせるのがそんなに楽しいか!!!」「ママの悪口ばっかり他人に言いやがって!!!」

女の子は、誰も助けてくれないんだと思いました。
母親のおかしな点を糾弾することもやめようと、思いました。

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恥ずかしい娘

小学4年生のときにおねしょをしてしまい、女の子は激しく叱責されました。鼻血が出やすかったり、お腹を壊しやすかったりと体調を崩しやすく、就寝前にリバースすることも珍しくはありませんでした。女の子は、体調を崩す度に手をあげられていました。

女の子がおねしょをしたときには、「〇〇に言うからね!!!」と知り合いの大人の名前を挙げられて、世間的に恥であると脅されました。リバースしたときには「自分で片付けろ」と怒られました。

女の子は、自分の体調不良を「世間からみて恥ずかしい」「怒られるもの」と思うようになりました。それでもコントロールできない自分の体に、次第と嫌悪感を募らせました。

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じぶんのからだ①

女の子は、幼い頃家族でよく温泉に行っていました。だんだんと温泉に行く機会も少なくなっていましたが、小学5〜6年生頃に、久々に温泉に行きました。そこで女の子の体を見た母親は目を瞠り、女の子に詰め寄りました。

「なんで毛なんか剃ってんの!!!変なことしてるの!?気持ちが悪い」
「理由を言わないとパパに言うからね」
「パパに言われても良いの、恥ずかしくないの」
「何考えてるの、知らない人に体を売ったりしてないやろうね」

女の子は、とてもびっくりして、言葉にならない気持ち悪さを感じました。女の子は、自分の体毛を興味本位で剃ってみただけでした。体を売るってなんだろう、でもパパに言われるのは、なんとなく恥ずかしいかもと、そう思いました。

女の子は、必死になって言い訳をしました。(言い訳でもないのだけれど)その時、女の子は理不尽とは違う、実に表現し難い気持ち悪さでいっぱいでした。温泉の側には、女の子をじっと見るかのように紫陽花がたくさん咲いていました。

その日から、女の子は自分の体を、本当に心の底から気持ちが悪いと感じるようになりました。お風呂に入るたびに思いました。以前とは異なる胸の膨らみが吐き気がするほど嫌で、暇があれば女の子は自分の胸を潰していました。気づけばスカートは履かず、ズボンばかり履いて、男の子のような格好ばかりするようになりました。

そんな女の子は不幸にも初潮に見舞われました。もう大人の女の子だからとワンピースを着せられ、祝われ、お寿司屋さんに連れて行かれた瞬間は女の子の人生で一番気持ちが悪いものでした。

女の子は、ボーイッシュに生きることで、女の子の見た目にならないことで、言葉にできない気持ち悪さから解放されていたのでしょう。

ある日、女の子がお風呂から上がったタイミングで女の子の父親と鉢合わせました。女の子が必死に蓋をしていた気持ち悪さが、一気に湧き上がりました。父親が何も悪びれず、それどころか「お前の裸を見たって」と言わんばかりのバカにするような言葉を投げかけてきたからです。

女の子は、自分の体であることに疲れてしまいました。

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じぶんのからだ②

元々の体質に加えて、月経を迎えてしまった女の子は、これらと戦わなければなりませんでした。衣類や寝具を血液で汚してしまうたびに、本当に本当にひどく叱責されました。女の子は、汚したくて汚しているわけではありませんでした。どうすれば良いのか、分かりませんでした。

ある日、生理痛でお腹が痛い時と、母親との外出のタイミングが重なってしまいました。当然、母親はとても不機嫌になりました。3時間も4時間も苦しむ女の子に母親は痺れを切らし、「そんなに痛くないでしょ、大袈裟すぎる」と言いました。女の子は「また、怒られることが増えちゃったなあ」と、ぼんやりと思いました。

女の子って、吐き気がする。

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記憶にないものたち

女の子の小学生時代は、先述した「身体への嫌悪」と「暴力」にまみれていました。しかし、成長した女の子は「暴力」のことを鮮明には覚えていません。

女の子はよく、剥き出しの電球が1つだけついている物置のスペースに閉じこもっていました。怒られていたのかな。その物置の扉は完全に閉めてしまうと内側からは開けられなくなってしまうため、少しだけ開けておかなければ出られなくなります。しかし、開けすぎてしまうと居場所がばれてしまいます。女の子は扉の閉め具合の調整がとても上手でした。努力も虚しく、外から閉められてしまったときには、女の子は泣き叫んで出してくれと懇願していました。

電球のある物置に居てはすぐに見つかってしまうので、女の子は次第に隠れ場所を変えました。お手洗いは鍵がついているので、手を上げられる心配がありませんでした。布団がある物置には、布団に挟まれる形で隠れていました。息苦しかったけど、何かに包まれている感覚がして女の子はとても安心できました。

隠れることが得意になると、女の子は外に出されました。庭が広く、ご近所さんも高齢の方ばかりだったので通報等の心配はありませんでした。女の子は外に裸足で出されて、玄関の扉に縋り付いていました。「私が悪うございました」という、冗談にも聞こえる謝罪を土下座とともにしなければ、母親に許してもらえることはありませんでした。謝っても許されませんでした。

女の子は、毎日、一生懸命に、力の限り泣いていました。

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お受験後の女の子

女の子は熾烈な小学校受験競争を潜り抜けたのち、学力向上のため塾に通うようになりました。両親は度々成績のことで争っていました。試行錯誤の末に、女の子は両親が争わない方法を探し当てました。

カンニングです。女の子は、それはそれはとても上手にやりました。塾では無事一番上のクラスになったため、母親も父親もニコニコしていました。束の間の平和でした。

この頃から、女の子の人生は嘘でいっぱいでした。

ある日、カンニングを続けているとテスト中に怖い社会の先生にバレてしまい、前の人と机を離されました。女の子は一瞬で血の気が引きました。けれど、先生は強めの注意をしただけで女の子は糾弾されませんでした。

危機的状況を乗り越えてしまった女の子は、その後も平穏を求めてカンニング以外のズル(解答を見るなど)を続けました。母親は、とても嬉しそうでした。

けれど、どんなに頑張ってズルをしても、女の子のお家での喧嘩は止まりませんでした。朝のニュースが流れているリビングで、父親が母親の胸ぐらを掴み、母親はハンガーや容器など身の回りにあるものを投げていました。白熱したときには食器などの危ないものも飛び交いました。包丁が持ち出された時もあったのではないでしょうか。女の子の母親が父親を階段から突き落としている時もありました。

女の子は本当に、母親が死んでしまうと思いました。子どもの自分には出せない力でもって、大人が掴み合いをしていたものですから、その力が大きすぎて、女の子は圧倒されて、動けなくなりました。女の子は喧嘩のたびに「やめて」と泣いて懇願していました。両親は出勤が迫っているものですから、朝の喧嘩はなんとか収まって家を出る毎日でした。夜、また両親が顔を合わせると些細なことで喧嘩になり、怒号が飛び交います。

月曜日には、女の子にお肉が少し多く盛られたので父親が「家長は俺なのに娘に多くご飯が与えられるのはおかしい」と怒って喧嘩が始まりました。

火曜日には、お金の話になり母親が「パパがお金を搾取する」と愚痴をこぼすと父親が激怒して母親につかみかかります。女の子は、喧嘩がおさまるまで階段に座っていました。階段の真ん中の、すぐに2階に逃げられるけどリビングの話し声が聞こえる、ちょうど良い位置に座っています。

水曜日には、母親が「新しい冷蔵庫が欲しい」と呟くと「そんな金あるわけねえだろ」と父親がまた不機嫌になります。喧嘩になり、父親が叫びます。「文句があるなら出て行けや、ここは俺の家だ」と。

木曜日には、母親が「昨日パパが飲み会で12時過ぎに帰ってきた」と文句を言い、腹いせに父親の晩御飯の準備を雑にしました。「日付超える前に帰ってきたやろうが」と父親が激怒します。女の子は、ヘッドホンをしたままご飯を食べています。

金曜日には、仕事から帰ってきて不機嫌な母親に、女の子が口答えをしてしまいました。「あんたにご飯なんか作らん」と言われてしまったので、女の子は冷蔵庫を漁って冷凍食品を電子レンジで温めるのでした。1人で食べるので、いつもより美味しく食べられました。

土曜日は、家族で外食をしました。人の目もあるので、喧嘩することなく平穏に食事を終えられました。しかし、会計になると父親と母親が喧嘩をし出します。「お前が払えよ」「なんで私が払わないけんの、あんたが払いよ」
女の子にとって外食は、だれがお金を支払うかという言い争いの素でしかありませんでした。

日曜日は、喧嘩をして、女の子は1日中物置にこもって泣いていました。
だれかが2階の階段を登ってくる音がします。

このように、女の子は物心がついてから、普通の会話をしながら食事をしたことがありませんでした。食卓は居心地が悪く、ご飯を詰め込む場でした。頭を痺れさせるために、女の子は食べ物を詰め込みました。女の子は、誰かとお話をしながらご飯を食べた経験が乏しかったのです。こうして育った女の子は、温かい家族を持ったパートナーに「いつも携帯を見ながらご飯を食べるのはやめてほしい」と言われてしまうのでした。

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SNSという救済

女の子は小学校高学年の頃、スマホを手に入れました。同世代の子たちが持ち始めた時期より、少しだけ早かったように思います。

スマホを買い与えてくれたのは女の子の母親でした。スマホを持つことに強く反対していた父親を無視して、勝手に二人で買いに行ったのでした。それから、女の子は夢中になって、毎日のようにスマホを触っていました。

それから女の子はアニメやゲームハマっていきました。スマホを手に入れたことによって、たくさんの人と知り合うこともできました。普通にお話ができる、年上のお兄さんお姉さんの友達がたくさんできました。

父親は、勉強をしない女の子を見て母親を責め立てました。

「お前が買い与えるからだ」
「お前のせいだ」
「甘やかすな」
「お前の子どもだろ、お前が責任取れよ」

女の子は、毎日起こるその喧嘩が嫌だったのでしょう。いつも文面で話していた、お兄さんお姉さんに相談することにしてみました。彼らは、女の子の話を少し聞いて「それはお母さんがおかしいよ」「普通はこんなことしない」と、冷静に女の子の状況を把握して、その歪さを指摘しました。

女の子は、自分が言葉にできなかった違和感、不信感、苦しみを文字として見ることができました。自分の嫌な気持ちの正体はこれだったのか、と思い知りました。女の子は、お話を聞いてくれるお兄さんお姉さんが大好きでした。

女の子は、言葉でもって両親に反抗するようになりました。女の子にとって、言葉は自分を守るための武器でしかありませんでした。優しい言葉や寄り添いの言葉は女の子の中から抜け出していって、戦うことのできる言葉や思考のみが残っていきました。女の子にとって会話とは、生きるか死ぬかの戦争でした。反抗の、唯一の手段でした。

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私の、誰にも侵害されない居場所

辛い毎日を送っていた女の子は、ネットにいるお兄さんお姉さんとの繋がりによって、すこしだけ救われました。ネットで同い年のお友達も4〜5人できて、お誕生日にはお手紙のやり取りをしたり、写真を共有したりして楽しい毎日を送っていました。

一方で、女の子は休日の外出を許されていなかったので、現実で遊ぶことのできるお友達など一人もいませんでした。塾に行くか学校に行くかの2択で、お泊まりや保護者を伴っての遊びなど、一度もしたことがありませんでした。

女の子は、周りのお友達が学校以外でも遊んでいることに気づいていなかったので、なんともありませんでした。ネットで楽しくお友達と過ごしていましたから、幸せでした。女の子は初めて、自分だけの世界ができたと思って嬉しくてたまりませんでした。

ある日、女の子はSNSである人からいいねをもらいました。その人はお友達ではなく、いわゆる「捨て垢」のようでした。Blackstarという名前でした。女の子は、変な名前だなあと思いました。それから、何度かその人はいいねをしました。女の子は、根拠を伴わない気持ち悪さを感じました。

・・・・・どうしてでしょう?

その人は、女の子の父親でした。女の子が父親の携帯を借りたときに興味本位で開いたSNSに、Blackstarというアカウントがありました。

女の子は取り乱し、泣き叫び、持てる力全てでもって抗議しました。自分の投稿が全部見られていた。自分の世界を踏み荒らしていたにも拘らず、父親は素知らぬ顔で私に接していたのだ。怒りというより、気持ち悪さでいっぱいで、どうすれば良いのかわからずに、ひたすら父親に物を投げつけ、彼の腕を引っ掻き、力の限り蹴りました。

優しい仲介人のふりをした母親が、「パパは〇〇が何をしているのかわからないから、心配だったのよ」と言いました。


女の子は、みんなまとめて死ねばいいと、心の底から思いました。
女の子は、「死ね」という言葉が口癖になりました。

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お留守番

女の子の両親は共働きでしたから、小学校低学年の頃、塾に入る前までは、1人で下校をしていました。

女の子は近くのバス停で降りて、野良猫の多くいる、ちょっと怖い帰り道を歩くことが大好きでした。野良猫が本当にたくさんいて、模様が珍しい子や怪我をしている子がいました。女の子は「野良猫に触ると病気をもらう」と再三言われていたので、触りはしませんでしたが、怪我をしている子をかわいそうに思いました。女の子は、お弁当の残りの生ハムを、猫の前に置き、走り去るのでした。

束の間の冒険が終わり帰宅すると、両親が帰宅するまで待つ時間があります。女の子は「外の世界は怖いものばかり」と言われて育ってきたので、お留守番の間はひどく怯えていました。

そんな中、お家の電話に頻繁に電話がかかってくるようになりました。それは「ヒツウチ」と呼ばれる人からで、女の子が電話をとってもすぐ切れてしまいました。女の子はランダムにかかってくる電話に怯え、苦しみました。女の子は今でも、固定電話の着信音が大嫌いです。

すこし時が経ったときに、女の子は「ヒツウチ」が父親であったことを知りました。父親は面白半分で、ヒツウチで女の子に電話をかけていました。小学生の女の子は、恐怖と怒り、裏切られたという気持ちに支配され、ばらばらになってしまいました。

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【中学生】

何にもない

晴れて中学生となった女の子は、新天地で新たな生活を送ります。小学校から一緒のメンバーが半分、新しく顔を合わせる子たちが半分でした。ここからも女の子の記憶はめちゃくちゃです。女の子はあまり思い出したくもありません。

入学後すぐに、女の子には2人のお友達ができました。お友達2人と仲良く帰ったりもしました。女の子は部活に入りましたが、お友達と一緒に帰れないので、部活をサボって帰るようになりました。お友達は「部活なんか辞めちゃえ」と女の子に言いました。

その言葉通り女の子が部活を辞めると、2人は女の子を避けるようになりました。女の子は1人でお弁当を食べていました。それが辛かったようで母親に言うと「そんなことでごちゃごちゃ言うな」と一蹴されてしまいました。

女の子は、とにかく毎日頑張って生きるのでした。掃除の時間に、校庭を掃除していたときに、空を見上げながら「わたしは一生大人になれず、無力なままなんだ」と、そう思いました。

お家では、依然として毎日毎日毎日毎日毎日両親が喧嘩をしていました。女の子は、ヘッドホンが手放せなくなりました。耳が痛くなるほどの大音量で音楽をかけると、そこは女の子だけの世界になりました。

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学校には、何も考えずとりあえず行けばいい

ある日から、女の子は学校に行けなくなりました。体調不良でお休みをした日もありましたが、だんだんと起き上がれなくなり、朝起きたときに反射的に学校に行きたくないと思うようになりました。

6時に起きて、無理やりお風呂に入りました。だんだんと起きる時間が遅くなるとお風呂に入らぬまま、体だけ拭かれ学校に行く日もありました。どうしても学校に行きたくなかった女の子は、次第にお手洗いに閉じ篭もるようになりました。

お手洗いには鍵がついていて、両親が入ってこれません。6時45分ごろになると、もう学校に行けるよねという雰囲気を感じて嫌になった女の子は、お手洗いに行くふりをして閉じ籠ります。最初はお腹が痛いといってそのまま欠席をしましたが、繰り返しているうちに両親が女の子の行動パターンを把握してしまい、欠席を許してもらえなくなりました。

女の子の両親は鍵をこじ開けようと奮闘し、母親はひたすら扉を殴り続けました。広いお手洗いの端っこまで逃げていたはずの女の子の体に、振動が伝わってきました。父親も扉に体当たりをし続け、女の子は本当に扉が破られてしまうのではないかと怯えました。

7時になるとタイムリミットです。最初は、女の子の両親は諦めて仕事に行きましたが、次第に我慢比べになってしまいました。お手洗いの近くには2階に続く階段があり、女の子の母親はそこに座ってひたすら女の子が出てくるのを待ちました。このために仕事を休むこともありました。

女の子は出たら殺されると思いましたから、必死に息を殺し、生きていないふりをしました。泣き声が聞こえないようにしました。女の子は、声を出さずに泣くのが上手になっていきました。

少し退屈になってお手洗いの中を探検する時も、音が出ないように注意深く行動しました。5〜6時間経ち、お昼過ぎになって、流石に疲れた女の子がお手洗いから出て2階に避難すると、様子を察知した女の子の母親が2階に上がってきます。

女の子は、人が階段を登るときの音が大嫌いです。心臓がギュッと握りつぶされそうになります。

2階に上がってきた女の子の母親は

「なんで学校に行かないの」
「どれだけママに嘘をつかせるの」
「体調悪そうに見えない」

と、女の子を責め立てました。女の子はひたすら、無視をするか、殴りかかるか叫ぶかをして、その状況を切り抜けました。

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助けて、病院

そんなことを繰り返していたある日、女の子はついに限界を迎えて、本当に頭が痛かったかどうか確かではありませんが、「頭がいたい」と泣き叫びました。当然、女の子の母親は憤ります。

優しい仲介人のふりをした父親が、その体調の悪さの程度を聞いてきます。女の子は、持てる知識の全てを使って、その体調の異様さを主張しました。いつも以上に違う様子を演出できた女の子は、無事病院に連れて行かれることになりました。

病院では、てんかんが疑われ、血液検査をし、頭にコードのようなものをたくさんつけられました。結果は、「よく分からない」とのことでした。その後の診察で、起立性調節障害、自律神経失調症という診断名がつきました。

診断がおりてからも、女の子は学校を休むことが多くありました。でも、ほんの少しだけ、「ママに嘘をつかせて楽しいか」と怒られる回数が減ったのでした。

トラウマや発達障害のある人が逆境体験(物理的、感情的な困難やストレスなど)を多く経験すると、神経発達が阻害されます。これは、逆境体験が引き金となって神経発達の成長が適切に行われません。この結果、心理的ストレスや物理的な圧力に対して自律神経が適切に反応し、調整する能力が低下する可能性があります。 自律神経系は、我々の体の「自動的な」部分を制御しており、心拍数や呼吸、消化などを調節します。ストレスに対しては、この神経系が身体を落ち着かせ、リラックスさせる役割を果たします。しかし、神経発達が阻害された場合、この調整機能が上手く機能しなくなり、ストレスや圧力に対する反応が適切でなくなる可能性があります。

自律神経失調症の乱れ|交感神経・副交感神経の働き

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【高校生】

オアシスの発見

そんなこんなで高校生になった彼女に、運命を変えるような出来事が起きます。高校生になって、単位の説明などをされて、勉強についていけるだろうかと不安になっていた彼女は漠然と授業を受けていました。

彼女はちょうど風邪をひいていて、机にはビニール袋とティッシュが積まれていました。3限目だったか4限目だったか、男性の先生が授業時間の少し前に颯爽と現れて板書をし始めました。

授業が始まると、先生はとてもよく通る大きな声で『世界史』という名前の教科の授業を始めました。他の人と違って、先生はどこか楽しそうに授業をしていました。ホモサピエンスとか、ネアンデルタール人とか、訳の分からない話を楽しそうにしているのです。

彼女はちょっと楽しそうだな、と思って授業を受けていました。フランスにあるラスコーは「フラスコ」で覚えるんだよ、という先生が言いそうにもないギャグを、女の子は楽しんでいました。

彼女の1学期中間考査の世界史は63点でした。先生は、黒板に点数の分布表を書き、彼女の点数ははちょうど真ん中らへんに位置する点数だ、ということを知らされました。

彼女は、なんだかつまらないなと思いました。あんなに楽しそうに授業をしていた先生の授業で63点ってつまらないなと。彼女はテスト返却があった後の昼休み、先生にどうやって勉強をしたら良いのか質問しにいきました。先生は、頭の悪そうな彼女に、丁寧にやり方を教えてくれました。彼女はそれを書き留め、すぐに実行に移しました。

次の試験まで、彼女は一生懸命授業を聞いて、問題集を解き、先生のもとへ質問しに通い詰めました。本当に夢中になって、毎日授業プリントを見つめていました。

あっという間に時が過ぎ、1学期期末考査で彼女は92点を取りました。点数の横にはVERY GOOD!と書いてあって、彼女は生まれて初めて、心の底から嬉しいと感じることができました。

その後、彼女は世界史にハマり、さらに質問に通い詰め、授業を異様な熱意でもって聞いていました。本当に面白くて、合唱部も楽しくて、負けたくなくて声楽まで通い始めて、生徒会のメンツなどとの折り合いは悪かったけど、先生が相談に乗ってくれるので毎日を楽しく過ごしていました。

中学生の時の不登校ぶりが嘘のようで、高校1年時の欠席日数はたったの1日でした。先生は相談に乗る以外にも、自主学習ノートを毎日見てくれて、そこには本当に温かい言葉が毎日綴られていました。彼女は、それを支えになんの心配もなく生きていました。

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再来

高校2年生になると、先生は違う学年の世界史の先生になってしまいました。彼女は支えを失ったような感覚に苛まれましたが、先生が担当でなくなっても質問に答えてくれて、話を聞いてくれていたので生きていくことができました。

しかし、彼女の高校2年生の世界史授業担当の先生はこの様子を快く思いませんでした。本来の担当者である自分を差し置いて、高校1年時の担当者の先生のもとに通い詰めていたものですから、目障りだったのでしょう。

彼は授業の中で私にだけ難しい問題や、すぐに答えが出せないような問題を当てて、彼女を困らせました。彼女は悔しくて、もっともっと勉強をしようと先生のもとに通い詰めました。

彼女はまた、だんだんと学校を休む日を増やしていきました。
その度に、担任から「社会に出たら休めないし、1日休むだけで授業内容がわからなくなってしまう。体調管理をしろ」と小言を言われてしまうのでした。

わかりやすい欠席日数の増加に笑わざるを得ないですね

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あいだに

今回はここまでにしたいと思います。今日は、私が生まれて8309日目です。2024年6月11日、自身の誕生日3ヶ月前という区切りの日にどうしても自分の記録を残しておきたかった。書ききれていないことは多いですし、ここに書いていることが私の全てではありません。私も整理できていなかったバラバラの記憶を紡いでいく作業はとても骨の折れるものです。しかし、今整理できてよかったなと、そう思います。

高校生以降のお話はまた次の機会に。
後編は後日記すので、ひとまず「あいだに」とさせていただきます。
ここまで読んでくださった奇特な方、乱文でしたが目を通していただきありがとうございました🌸




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