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数の公理系における順序性の役割について 他



3) About generality and repeatability of sign
  記号の一般性と反復可能性
  菅原博文

はじめに
 記述は世界の絵である、と言われることがある。これは記号と事象との対応について語ろうとする暗喩であるが、私達はこの比喩に、ある種の正確さと共に、幾分かの居心地の悪さも感じる。ここでは、この表現の正確さは対象一般が存在する時の安定性と記号が存在する時の安定性との符合にその根源を持つと考え、その事情について分析を与える。
この比喩の不都合さの根源としては、様々な点を挙げることができると思われるが、恐らくその大きなものとして、一般性および反復可能性という記号の側の性格があるだろう。記号のこの二つの性質は、個別性・唯一性という対象のリアリティーと激しく対立するのだが、しかし一方でそれは、記述や思考、更にはコミュニケーションの可能性の前提となるものでもある。こうした事情について考えることによって、私達の記述や思考が如何にして世界を捉え得て、また如何にしてそれを変容させるのか、大まかな分析を与えたい。


生活の上で得られる様々な知識が固定性を帯びるのは、記憶といった受容者側の能力によるところもあるだろう(これは恐らく、記憶機能の物理的・化学的な安定性に由来するだろう)。それはここでは措いて、もう一つの根源的な理由は、自己の身体も含めて、対象、或いは世界そのものが持つ一定の安定性・固定性(物理的な安定性)に、私達が強制されることにある。対象の持つこうしたスタビリティーは、私達に知識の固定化を強いる。
 林檎という類の果実について私達が持つ知識は、林檎が何時の時点でも、またどのような場所にあっても、皮を剥くと白い果肉が現われる、或いは食べると酸っぱい味がする…といった安定した性質を示すこと、私達の働きかけに対して繰り返し一定の反応を示すことによって、固定化されていく。こうした固定化により、類の概念、もしくは言語が可能になるだろう。そして更に、言語記号自身の物理的な固定性が、この知識の固定化に荷担する。
 対象と記号に共通の性格は、持続的・安定的な自己同一性である。当然のことながら、記号も、音声や線的形態の物理的同一性によって成立している。このことにより、記号が、諸記号間の関係性の中で、対象と同じように振る舞うことが可能になる。
次の二点に注意しよう。
a)「xはPである」、という命題の可能性は、
「xが何らかの意味で安定的に存在すること」、および、
「xがPという性質等を安定的に示すこと」
の二つの事態に依存する。
b)これは結果的に、対象のスタビリティーと、(xやPなどの)記号のスタビリティーと
  の符合である。
a)に注意しながら、自然科学の命題の特質について考えよう。科学的命題に要求される要件の一つは、後に他者が同じことを実験・観測等で確認できる、という、追体験の可能性であるだろう。この追体験は、厳密な意味では検証ということを意味しない。自然の全ての事象に亘って反応・結果を検証することはできず、例外の存在を否定する方法が原理的に存在しないからである。
しかし、上に述べたように、物理的対象一般は(一定の条件のもとでは常に一定の振舞い方をするというような)性質の安定性を持っている、と、私達は経験的に信じている。この確信を信頼する限りでは、それが一定の条件を整えた実験・観測であれば、数回の検証から一般性を導き出すことは、非妥当ではない。様々な形で後に反証される可能性を常に含んでいる、という断り書きをつけた上であれば、私達はこの一般性を相対的な形で信じて構わないわけである。逆から見ると、このような物質の存在に関わる安定性への信頼が、自然科学における推論を成立させるための基本条件となっている。
論理学の体系がスタティックでありうること、或いはスタティックでしかありえないことは、記号が固定的に存在する他ないことに直接起因する。ここで、対象の存在に関する固定性が記号の存在に関する固定性に写し取られるように、一応見える。
しかし私達がその体系を前にして対象について考えるとすれば、それは言語を共有する社会において有効な方法であるが、基本的な図式を逆転させてしまっている。私達はここで対象を見ているのではなく、論理学を見ているのであり、そこから対象を見てしまう。
これは論理学に限らず、記述や言明一般に共通する事柄と思われる。繰り返せば、私達は通常、対象を見るよりは言語や概念を見るのであり、概念から対象を見てしまうのである。この逆転は、私達の思考の様式において根源的なものだろう。
言葉についての知識の体系は、私達の共同体において本質的である。このことは勿論、記号の一般性という性質と結びついている。恐らく私達はそうした構造に依存してしか生きて行けない。
(3) 対象との交渉・相互作用による知と、言語的な知
私達は確かに直感によってしか対象を知覚できないのだが、もう一つ、対象に働きかけ、それとの相互作用において対象について知る、という方法も持っている。例えば分かり易い例では、ただ林檎を眺めることと、林檎を叩いてその音を聞くこと、との間には、或る違いがある。後者は林檎に対して或る働きかけをしており、林檎やそれを取り巻く物理的な環境が、それに対して或る反応を示している。つまりそれは相互的な作用である。さらに、その働きかけによって林檎が変形したような場合、この働きかけは世界に或る物理的・事実的な痕跡を残すのであり、それは単なる直感を超えた或る事実へと跳躍している。   
それらの作用も痕跡も、私達は直感によってしか知ることができない。しかし私達は既に対象と直感の対応がある種の安定性を持つことは信用しているのだから、そうした物理的な痕跡(変化)が何らかの形でとにかく事実的に生起したことを疑う必要はないし、むしろ積極的に、その諸相・様態について学習していく姿勢を持つだろう。このように、身体が物質世界に参画しており、対象に働きかけることができて、相互的に作用・関係し、そこに変化・痕跡を与えることができる、という事実こそが、私達に生きる意欲、或いは物と自己の身体について学習していこうとする意欲、を与えるように思われる。
そしてここで強調したいのは、こうした相互作用による知は非言語的な側面を持ち、言語による理解を超えた何ものかを私達に与え続けているように感じられる、ということである。そして実は単に見ることですら、実際には対象と深く関わる行為であると感じられる
2.記号の一般性と反復可能性
論理学に限らず、記述は知識を固定化する作用として働く。それは記号自身が物理的対象として通時的な安定性を持つからに他ならない。その中で論理学が幾分かの特殊性を持つとすれば、それが先ず対象の存在の一般的な形式を取り出して、記号の存在の形式の一般性に符合させようとすることであり、その一般性においてそれは言語表現の一つの基底を成すことを意図している。どんな対象・命題にも当てはまるという一般的な形式だけが問題になっている。
対象一般の規定と、記号の物理的規定や機能との間には、著しく相違する点がある。そのため、指示される対象の振る舞いと、記号の振る舞いとの、類似点と違いとを峻別して両者の対応の諸様態を分析することが必要になる。その相違点としては端的に冒頭に述べた記号の一般性があり、またもう一つには記号の反復可能性があるだろう。次に、この2点について考えたい。
(1)記号の反復可能性
 事物と記号がその存在形態において著しい違いを見せる点がある。記号が反復可能である点だ。事物は通時的な個別性と唯一性を持ち、つまり物理的に反復不可能であり、その点に物理的対象のリアリティーがある。
 記号は記述されるが、書くあるいは読むという行為においては、記述の線的順序関係における時間的持続性・連続性が本質的であり、通常の記述においては、記号の反復可能性は、この記述の時間的連続性の中に解消されるように見える。
反復可能性の原因について考えてみよう。記号の反復可能性は、或る程度トポロジカルに同等と見做される形態の線的「しるし」が同一の記号であるとされる、物理的な形態に関する約束に依存している。この形態的な類似が物理的に確保されることによって、記号は様々な記述において反復して出現することが可能になるし、それ以前に、記号の可能性自体が、この類似と、他の記号との峻別の可能性によって成立する。
書かれた記号も、発話された記号も、当然のことながらそれぞれ本来の物理的な自己同一性を持ち、対象一般と同じく全き個別性において成立している。しかしそれらは或る類似によって類別され、ある類別に属する記号は全て同一のものとみなされる。ここで記号自身の物理的な個別性は無にされるが、それによって第二の自己同一性(類似によって同一と見なされるというレベルの同一性)を確保する。
 記述するという行為からして見たならば、同一の記号を反復して使用するという行為は、同じ概念について再び言及すること、或いは同じ概念を用いて他の何かを記述することの必要から生じるだろうし、また、事物が通時的に存在し続ける事態に対応するためであることもあるだろう。特に最後の点、記号の反復が対象の持続的な存在を表現するという点については、記号の機能と対象の存在の形態に関する著しい相違点として注意すべきと思われる。記述における時間性のあり方は、現実の時間の流れのあり方とその形態を著しく異にするのであり、その違いによって、記号の反復が必要になり、またそれが有効に機能するようになる。
 ところで、概念は常に再生可能であり、或いは少なくとも再生可能であると感じられている。この概念の再生可能性は、記号の反復可能性によって物理的に裏打ちされるだろう。一方、物質の物理的変化は一般に不可逆性を本質とする。ここにも、世界のリアリティーと言語・概念のリアリティーとが激しく対立する点がある。
 ここでその変化が、先に述べた私達の行為によるものである場合を考えよう。この時、まず、外在的物質の物理的過程が不可逆であり、また私達自身の身体・心の変化・過程が不可逆であり、そして両者は本質的に時間の不可逆性によって規定されている。
同じ行為を繰り返すことは可能にしても、状況は常に変化しているし、私達自身もその行為によってなんらかの変化を遂げている。こうした事情は、私達にとってみれば、本質的に、与えられた諸状況の一回性と、自己の諸行為の一回性を意味することになる。或る状況において或る行為をした場合、常に、それは良くも悪くもとりかえしのつかないものである、ということが、私達の生において一つの本質であるように思われる。(注1)
もちろん、そこで私達の、或いは世界の時間が停止するわけではなく、私達はむしろ新しい時間の経過の中で常に生起し続けていく諸事象に常に対応し関わっていくのであり、このことが時間と私達の生との関わりにおいて、もうひとつの本質的な事柄であるように思われる。
 この対象の物理的過程の不可逆性やそこから派生する状況の一回性は、紛れもない世界のリアリティーであるし、また私達の行為の一回性や新しい状況への不断の対応は、それに応じて私達が強いられる現実であり態度である。
 一方概念は、常に同等な再生が可能であるようなものとして想定されている。例えばこのような形で、世界のリアリティーと言語のリアリティーとは対立するが、私達はこうした世界の具体性を、言語を通して見ることにより、或る意味でそれを緩和し、中和して認識するように思われる。しかしそれでも、様々な意味で、概念の再生とその記号による反復は、私達が生きていく上で必須のエレメントになっているだろう。
(2)記号の一般性の階層
記号の一般性に応じて、階層の設定を試みる。
a)固有名詞
b)一般名詞
c)論理学における命題記号、述語記号、個体記号、(代数記号) 等
d)自然数記号
 固有名詞は、或る特定の個体を指示する。一般名詞は、自然界や文化世界に類や種が存在することを想定して、それに対応する形で世界を分節し、その概念(=分節)を指示する。一般性は記号の本質的な性格である。種々の言語による理論もこの一般性によって初めて可能になるが、一方でそれは、世界の生の現実に独特のフィルターを被せる作用をする。つまり当然のことながら、私達が物を見る時に先ず分節がフィルターとして働く。私達は一つの林檎を、林檎という概念を通して見る。
 また逆に、私達が知識を得るとは、通常は概念・言葉に関する知識を得ることを意味している。個別の対象についての知識はむしろ片隅に整理されてしまい、それよりも、類や種についての一般的な知識が知識の中核であるとされるだろう。
 「葡萄について知っている」と言う時に、多くの場合は、或る果樹園の或る葡萄の木になっている一房について知っているというようなことを意味するのではなく、葡萄一般について何かの知識を持っている、ということを意味する。そうした知識は元々は個別の葡萄から得られたものであるはずだが、私達はそうした個別的な知識の多くを、類・種(言語・概念)に関する一般的な知識へと転化していく。もちろんそのことによって私達の知識の体系が成立し、実用に供しうるようにもなるし、またコミュニケーションの基盤もむしろ記号のこの一般性によって成立するだろう。(個別の対象を指示する時には、「この、あの、…」を使えば済む)
 しかし一方で、現実の、世界内にある諸対象の個別性・唯一性という著しいリアリティーは、そのことによって大きく覆い隠され、中和されるように見える。私達は或る葡萄の一房を、この世界内に唯一つ存在するもの、絶対的な無二のもの、全き個別性・具体性によって成立しているもの、として見るのではなく、葡萄一般の一例として見てしまう。
 こうしたことがつまり、良くも悪くも記号の一般性が機能する局面になるし、恐らくこれは私達が生きていくための基本的な条件ですらあるだろう。恐らく私達は、世界の具体性に全面的に直面して生きていけるようには造られていなくて、言語のリアリティーによって緩和され糖衣された現実性を、普段は生きている。
 c)、d)について考える。c)にあっては、記号にどの名詞(もしくは命題、述語であるが、ここでは名詞に限定して考える)を代入することも可能であるように、記述の方法が設定されている。これは②の階層よりも更に高い一般性を持っており、或る概念の外延や内包ではなく、概念一般が扱われる。このような階層での記述は概念・命題間の一般的な図式を扱うに過ぎない。ただしここで、例えばP、Q、R… といった記号を使う場合、P、Q、Rがそれぞれ異なる概念(或いは対象・命題・述語)を指示することは前提されている。つまり、一つの記号に対して一つの概念が対応するという一意性(≒他概念との峻別)は前提されている。
 自然数記号は、ここまでの一般性の拡張路線とはまた異なる、非常に特殊な一般性を持っている。記号1において、私達はそれによってどのような対象を想定することも可能であり、c)と同じと思われる。
 「1」が示しているのは、個別の対象ではなく、対象の類でもなく、対象一般の存在であると考えられる。ここでは、或る対象の存在を他の対象の存在と区別するものが何もなく、ただ共に個体的な存在であるということによって、等しく記号「1」によって示される。勿論ここでは、類という概念も初めから介入する余地がない。私達は数概念に、根源的な非分節性、というよりもいわば反区別性を見出すだろう。対象の数理的存在に関する限り、対象の個別性もしくは分節は、初めから問題にならない。
これは、アリストテレスと同じく、存在は対象の属性ではないとする立場に繋がる。
「一と存在者がある意味において同じことを意味するということは、それらが同じ多様さにおいて諸範疇に従うものであり、しかしてどの一範疇の中にも存するものではないということからして明らかである。すなわち例えばそれは本質の中にも性質の中にも存するものではなく、存在者と同じようにそれらに関係してあるのである。のみならずこのことは、またあたかも存在ということが本質や性質や分量から離れたものでないように、・・・一つのものであることが各事物であることに他ならなぬことからしても明らかである」(*1)
 ここでは、一という数は対象の属性ではなく、対象の存在のみを表現すると考えられている。存在は対象の属性ではない。同時に、存在が属性と関与することによって成立することも述べられる。
 通常の言語は世界を分節するが、数記号は独特の仕方でこのような分節を無化する。言語的分節はこのような数記号の無差別性と対立するように見えるが、それは背反するというよりは、むしろ比較しようのないレベルの違いであるように感じられる。
 そうすると数記号の一般性は、対象の存在自体の、数理的一般性にそのまま由来する形になる。しかし数記号もあくまで、対象の個別的存在と存在の形式(スタビリティー)は前提としている。
 このように、数「一」を対象の存在の表現と見ることは、非常に説得力を持っているし、存在について考える豊かな手がかりを与えるように見える。
最後に
 以上、記号の安定性、一般性、反復可能性に関して、おおまかな分析をしてきた。恐らくここまでの議論は種々の問題への入り口でしかなく、特に記号の反復可能性が記述における対象との対応においてどのような事態を引起すかについては、多少とも具体的に見ていく必要があると思う。論理記号や代数記号の一般性の分析からも、なんらかの新しい成果を期待することができるかもしれない。
 一方、ここでは触れていないが、数詞の一般性については、上の存在論的な理解のまま、つまり、何らかの個体という概念を基本にしていたままでは、四則演算のレベルで、既に、非常に理解の困難な問題を引起す。私達はその困難を、順序数としての性格を数の性質として基本に据えることによって克服することが可能だが、そのことについては別稿で述べている。
(注1)
 こうした行為の一回性は、現実性であると同時に、或る意味では原則的なものでもある。例えば社会的な行為や学習に関する行為においては、むしろ持続的な反復の重要性が指摘されるだろう。
 ただそうした場合においても、個々の行為それ自体は一回的であるという事実を意識することは、私達の行為を生き生きとしたものにする秘薬になると感じられる。
[引用]
(*1)Aristotelis Opera.Ⅱ.Ex recensione Immanurlis Bekkeri.Eddit Regia  Borussica.Berolini,1831,S.1054. 岩崎勉 訳 講談社学術文庫「アリストテレス 
    形而上学」講談社1994年,433頁
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