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『罪と罰』 ドストエフスキー 宗教的視点からの考察
罪と罰。ロシア帝国の文豪が描く壮大な物語は、犯罪心理を描写する小説である一方、ロシア正教(ロシアで発展したキリスト教の一種)への信仰物語でもあると言える。
今回は主要な登場人物の人物像と彼らのとった行動に焦点を当て、新約聖書・旧約聖書で重要な役割を果たす人物たちと照らし合わせながら、彼らがこの小説でどんな役割を担い、聖書でどのような役割を担っているかを考察していく。
聖書の人物に照らし合わせることで、罪と罰という物語の中で、ドストエフスキーがその人物から何を伝えたかったのかが紐解ける手がかりになればと思う。
ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ
まず、この物語の主人公であるラスコーリニコフについて。
彼は物語の序盤で、高利貸しのアリョーナとさらにその場に居合わせたアリョーナの妹・リザヴェータを殺害する。ただアリョーナの殺害は彼にとって悪ではなく、正義である。彼の理論は「多くの苦しめられている人間を殺すことは罪ではない、私はその多くの苦しめられている人間を救うために一人を殺害するのだ」というものだった。彼の下記名言からもわかるよう極端な思想の持ち主である。
「選ばれた者は、凡人社会の法を無視する権利がある。」
この理論に似た信念を持つ男が新約聖書のヨハネの聖書にも出てくる。カイアファという無神論者の男だ。
彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。
「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
引用:ヨハネによる福音書 11章45~54節
この会話ののち、カイアファはイエスの十二使徒唯一の裏切り者であるユダとともに、イエスを貶める計画を練り、最終的にイエスに十字架の刑を科し命を奪う。
このようなカイアファの、罪なき人間を死に追いやり、また度を超えた優生思想を持つという点は、ラスコーリニコフに重ねられやしないだろうか。ラスコーリニコフは多くの人を助けるためにという優生思想上の正義感よりアリョーナを殺し、図らずも罪なきリザヴェータまでも殺害しているのだから。
リザヴェータ・イワーノヴナ
彼女は高利貸しのアリョーナと対照的に慈善家で誰にでも等しく優しい人間として、罪と罰の物語の中では珍しくなんの罪の描写もなく描かれている。彼女はラスコーリニコフに殺されるため序盤のみ登場する人物だが、彼女の形見の描写はどころどころに見られる。
その形見とは十字架のペンダントであり、ラスコーリニコフを救う立ち位置のソーニャが常に肌身離さず持っているものである。つまり彼女は中盤以降、ソーニャを通して存在を読者に思い起こさせるのである。
十字架として存在を表されるリザヴェータは、イエスに近い存在として描かれていると考えられるのではないか。罪のない人間かつ不遇な結末で殺されてしまうのはイエスと同じであり、また彼女が十字架やソーニャを通して物語に存在し続けることは、イエスの復活も連想される。
ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ
リザヴェータからもらった十字架を持っていることから彼女もイエスに近い存在と考えられるだろう。
ただし彼女には罪がある。彼女は娼婦として身体を売る。ただその罪は家族のためであり、これは人間のために原罪・十字架を背負ったイエスの姿とかぶる。
また彼女が娼婦として受け取る金額=30ルーブリは、聖書上でイエスの価値として描かれている金銭、銀貨30枚と表現が酷似している。
そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、
「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。
そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
引用:マタイによる福音書 26章14~16節
つまり、ソーニャの価値がイエスの価値とこの物語上で対構造になっており、ソーニャもまたイエスや信者の象徴ではないかと考えられる。
アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフ
スヴィドリガイロフは色欲に溺れ過去に婚約者を殺害したと仄めかされている人間だ。彼は、イエスの十二使徒唯一の裏切り者であるユダとして描かれているのではないかと考える。ユダにふさわしい理由、それはユダを象徴する彼の最期の時が彼の最期に重なるからだ。
スヴィドリガイロフの最期はこの物語の中でかなり鮮やかに描かれている。彼の最後はピストルでの自殺である。その自殺直前には、色目をかけていたドーニャへ金銭を渡している。
ユダも自身の罪を認識した時に、イエスを売った見返りの金貨を落としたあと、自分で自身の命を終わらせるのだ。
イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「われわれの知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
引用:マタイによる福音書 27章3〜10節
また、スヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフと同じく、ラザロの復活をソーニャに読ませそれを嘲る。これは無神論者の象徴的な行動とも言え、ユダのキリスト裏切りの行動の原理と重なる。
まとめ
ここでは主要な人物のみを取り上げ、聖書の登場人物を重ね合わせたが、他にも様々な考察が繰り広げられている。
ここで私が現時点で推測するのは、ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフが無神論者のカイアファやユダのような存在であり、ソーニャとリザヴェータが神またイエスのような存在であるということだ。
また無神論者スヴィドリガイロフ、神の象徴であるリザヴェータ、それぞれともにこの物語では生涯を終えており、残された無神論者ラスコーリニコフと神の象徴ソーニャは支えあいながら生きてく。
残された二人の、無神論者であるラスコーリニコフが神への信仰心を徐々に湛えていく様子、神の象徴であるソーニャがそれを見守り生きていく様子が、最後に描かれている。無神論者と神・信者の共存。ここに「罪と罰」の主題が垣間見えるのではないか。
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