苦みとコーヒー
苦みとコーヒー
用事があり一人で福岡に来た日のことだった。
特急で二時間も移動に費やしていながら、用件は三〇分もかからず終わってしまった。話の続きは二週間後というのだから、待たされる側は堪ったものではない。けれど癇癪を起こすことは到底できることではない。ただ言われるままを受け止めることしかできない私は辟易とした足取りで、東恵比寿から博多駅までの道を御笠川に沿って歩いた。
帰りの特急の時間まで充分な時間がある。慣れないスーツとパンプスによる堅苦しい疲労と、PCを入れたせいで無駄に重量を増した鞄はやたら重く感じてしまう。
せっかくの遠出でありながら遊ぶお金はほとんど持っていなかった。しかし用件を終えた達成感と、歩き疲れた徒労は募るばかりで、耐えかねた私は駅近くのお洒落な構えのコーヒーショップに立ち寄ることにした。
ビジネスビルの一階にある店内は天井がやけに高く感じた。本来であればゆとりのある空間なのだろうけど、普段あまり立ち寄ることがないせいで、まるで私だけが溶け込めていないような気がして、落ち着かなかった。
平日の昼間というのに店内はそれなりに混んでいた。私が列に並んだ時点で前に人は三人いたし、私が注文する時には複数人が列を成していた。また座るところを探すまでも時間がかかった。
「あっ」
運よく座ることはできたものの、今度は新たな問題が起きたことに気付く。
シンプルなカップに注がれた真っ黒な液体。トレーの上をくまなく探すが、砂糖とミルクの姿は見えない。私にとってコーヒーは苦い飲み物でしかない。飲むにしても砂糖とミルクを加えることが絶対条件だ。
きっとカウンターで一言添えれば、貰うことも不可能ではないかもしれない。だが、一度腰を下ろした今、再び立ち上がることは億劫以外の何物でもない。
そもそも注文の時点で過ちは始まっていたのだ。初めて立ち寄った店である以上、メニューはカウンターに行くまでわからなかったし、いざ注文しようと思えば、私の後ろには列ができていた。結局焦って、真っ先に目に留まったオリジナルブレンドのコーヒーを選んだ。
それだけではない。コーヒーの味は二年前に呆気なく終わったサークルの同級生のことを思い出す。彼はコーヒーと煙草を嗜んでいて、キスする時はいつも苦かった。初めてのキスは酸味のある味に例えられがちだけど、あんなのは誰かが仕立て上げた妄言に違いない。でも、最後のキスも苦かったから、「最後のキスは煙草のフレーバーでした」から始まるあの曲は内容も相まって心を重ねてしまった。
ともかく、深みのある香ばしい匂いと、舌の先に滲む苦みは思い出して、懐かしさと切なさがこみ上げて来るから、苦手だった。
きっと彼ならこのコーヒーも美味しいと言って飲むのだろう。そして「一口どう?」とか、私が飲めないことを知っていながらからかったりするのだ。容易に想像がついてしまうのは、未練があるからなのか。それともよく交わしたやり取りだから覚えているだけなのかわからない。
けど、きっと疲れのせいだろう。私はカップに手を伸ばしていて、口をつけてその液体を流し込む。
甘味などなく、仄かな酸味が混じった強烈な苦みが口の中に広がって、滲んだ。昔ならきっと眉を顰めて、文字通り苦い顔を浮かべていただろう。しかし、今は何の問題もなく飲めるようになっていて、美味しいとは思えないけれど、嫌いだとは思えなくなっていた。
いつからブラックコーヒーが飲めるようになったのか、彼に一度尋ねたことがある。その時は「いつの間にか好きになってたんだよ」と答えられた。同時に「いつか千波も飲めるようになるよ」と言われたけど、それがいつなのか。当時は釈然としなかったけれど、今なら彼の言葉の意味が良く理解できる。他人事だったその時が私にも来たのだ。
例えるのであれば「大人になった」とでも言うのだろうか。
この感覚がわかるようになったことを、嬉しくて喜ぶべきなのか、寂しくて嘆くべきなのかわからない。だが、苦みの強いこのコーヒーを飲んでいると、憧れと呼ぶには熱を帯びていて恋というには幼かった彼との思い出も、穿った感情も、全てこの液体の中に溶け込んでいるようで。少し思い出すことと、感慨深いものがあった。
でも、次第に飲み続けていると、まだ砂糖は入れたいかもしれない、とか。これからは何も入れずに飲み続けるべきなのだろうか、とか。とりとめのないことを考えているうちに、カップは空になっていた。
「……そろそろ行くかあ」
私は店を後にして、バイト先や家族にお土産を買う為に博多駅に再び向かった。
帰りに乗った特急で数回、吐息に紛れるコーヒーの匂いを味わいながら、私はまた考える。
いつかブラックでも飲める日が来たら、コーヒーが好きな人の気持ちがもっとわかるようになるのだろうか。その時が来たら、今度はもしかしたら……
思考を巡らせているうちに、疲れてそのまま眠ってしまった。
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