芥川龍之介「羅生門」考~羅生門の下に集まる研究論たちを再考~

芥川龍之介「羅生門」考

~羅生門の下に集まる研究論たちを再考~

たまには文学論くらい語ったっていいじゃないか。
もっと論文ならもっと書かなきゃいけなかったけど、とりあえず再考という免罪符でお茶を濁します。


はじめに

芥川龍之介の「羅生門」は大正四年『帝国文学』の十一月号にて発表された、芥川文学における初期の代表作の一つである。本作は今日までに数多の側面で論考が成されており、その数は既に五〇〇を超えている。その中でも『羅生門・鼻』(新潮文庫)の解説で三好行雄氏は本作を以下のように記している。

大正四年十一月、「帝国文学」に「羅生門」が発表される。芥川龍之介の手に入れた最初の傑作である。『今昔物語』に素材をもとめた短篇で、王朝末期の荒廃した都を舞台に、飢餓に直面するゆき暮れた下人に托して、善悪を超越した我執のドラマが描かれる。文壇からはいぜんとして黙殺されたが、龍之介がやがて新しい領域をひらくことになる歴史小説の原型をさだめた記念碑である。

『羅生門・鼻』芥川龍之介 新潮文庫(1968)

 三好氏はこの他にも「「羅生門」(鑑賞)」や「無明の闇―「羅生門」」―など本作に纏わる論説が複数発表している。特に「無明の闇―」羅生門―」はその強い説得力と「羅生門」の文学的価値を示したことから、今日の羅生門の高い評価に一役買っている。
 一方で芥川は当時の事を「あの頃の自分の事」で以下のように回想する。

それからこの自分の頭の象徴のやうな書斎で、当時書いた小説は、「羅生門」と「鼻」との二つだつた。自分は半年ばかり前から悪くこだはつた恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になる可く現状と懸け離れた、なる可く愉快な小説が書きたかつた。
(略)その発表した「羅生門」も、当時、帝国文学の編輯者だつた青木健作氏の好意で、やつと活字になる事が出来たが、六号批評にさへ上らなかつた。のみならず久米も松岡も成瀬も口を揃へて悪く云つた。それから自分の高等学校以来の友だちの中には、一体自分が小説を書くのが不了見なのだから、匆々やめるが好いと意見の手紙をよこした男さへゐた。

『中央公論』「別稿「あの頃の自分の事」芥川龍之介(1919)

 羅生門を論じる上でこの回想の扱いは大きく分かれている。三好氏はこの回想と批評を「信じがたい」と一蹴し〈心情の暗部〉を描いた〈傑作〉だと鑑賞を述べた。その上で本作を、人間が持ち得る〈存在悪〉の認識に着目した深刻な作品だと論説を展開する。およそ五十年前に唱えられていながら、今日まで三好論はその高い説得力と荘厳なテーマの提起が本作へ長きに渡り影響を与えている。
 愉快か、深刻か。この両者が多く書かれている中で、私はあくまでも「羅生門」は芥川の意図した通り「愉快な小説」ではないだろうかと唱えたい。本論では、渦中の三好論の骨組みを明らかにした上で、三好論の他にも本作について述べられている論説にも耳を傾ける。そこから羅生門がどのように愉快なのか掘り下げて行きたい。

 

1 羅生門における愉快/深刻論争

 Ⅰ 三好論の概要と論拠

三好氏は「無明の闇―「羅生門」」―の中で「下人が羅生門の上で老婆に出会い老婆の着物を剥ぎ取る」というストーリーと、題材である「今昔物語」との相違を述べた上で、下人を盗人になるという必然性を自ら閉ざした人間だと言い、以下の箇所を次のように説明した。

どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、餓死をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、何時までたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつける為に、当然、その後に来る可き盗人になるより外に仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

『国語と国文学』五十二巻四号 明治書院(1975)

(上記について)作者は〈勇気〉という言葉を使っているが、下人に行為をためらわせている禁忌の感覚がなんに根ざしているかは自明であろう。人間としての最後の倫理といってもいいし、超越的なモラルといいかえてもよい。あらゆる法の背後に想定されている自然法の比喩で語ることもできるだろうし、西欧の人間ならば、下人を制止するのは〈神〉だ、というかもしれない。しかし、もとより、芥川龍之介に〈神〉は不在である。

(下人が老婆の行為に憎悪を膨らませることについて)下人の見たのは単なる死者への冒涜ではなく、朽え、崩壊しつつある世界の風景だったのである。それにしても、善悪の判断が法の領域に属するとしたら、下人の直観の内部に動いたのは明らかに法を超えた超越的な倫理であり、かれから行為への勇気をうばうものにひとしい。〈許す可らざる悪〉をだれが許しうるか、この問いをめぐって、「羅生門」の主題があらわれてくる。

 この論理を示唆するものとして、三好は老婆の言い分を掲げ、その後の下人の行動を合わせて〈生きるために仕方のない悪の中でお互いの悪を許しあった〉と述べる。下人は極限状態では悪を許し合うものという認識を得たとして、盗人になる勇気が出たのだと三好氏は続ける。

 この論理を更に強めるべく〈飢餓の極限にあらわれる悪のかたちを描いた〉という理由から、大岡昇平の「野火」という長編小説にも触れている。「野火」は食人肉の欲望と死体の冒涜に直面する兵士に対して〈いずれも神をおそれぬ悪である〉ことが老婆の論理と重なると記し、「野火」では食人肉を〈神〉の存在で思い止まるが、「羅生門」の世界には上記のように〈神〉はおらず〈お互いに許し〉あったのだと記した。

 三好氏は「羅生門」と「野火」を並べると、「羅生門」には〈読者へのダイナミックな問いかけが欠けている〉と指摘しながらも、それは芥川があえて取った行動だと論を展開し、迫るものがないからと言って主題に真摯に向き合っていなかったということにはならないと補足を述べている。最後に結びの一文の改変について、芥川が抱え込んでいた虚無が深まり、必然の一行にたどり着いたと記している。

 その他にも、芥川が回想していたかつての恋路と失恋が本作を書かせていたことへの否定など幾つか省いた箇所があるものの、大まかな骨組みはこのようになる。では、その他の論考はどのように展開されていたのか。次項では三好氏への反論意見を挙げる。

 Ⅱ その他の「羅生門」について

 三好論では「限界状況に露呈する人間悪」と見る老婆と下人の論理を提示したが、三好氏と対峙する論の多くはその老婆や下人の論理について言及することになる。浅野洋氏は『芥川龍之介作品論集成「第一巻羅生門」/浅野洋 翰林書房(2000)』の解説で老婆の論理に対する下人の受け止め方の内実を問い三好論に対峙した研究論の存在について触れている。ここで名前が挙げられたのは浅野洋、笹淵友一、首藤基澄の三名である。

 浅野氏は芥川が武者小路実篤を「愉快」だと形容したこと、そして武者小路の戯曲『ある日の一休』で〈餓えたものはぬすんでいい〉という台詞など、作品を通して〈自己完結的なエゴイズム〉と〈底の浅い論理の虚妄を破ってみせるエネルギー〉を読み、「羅生門」に反映されたのではと説き、本作と原典の違いから下人の老婆に対する同調を否定し、三好論に疑義を呈した。

 笹淵氏は下人が芥川の分身であると述べた上で「挫折した自我、エゴイズムの欲求」を芸術世界に実現させた作品として現実とはかけ離れた「愉快な小説」としている。また、下人が老婆に感化して盗みしたならば、老婆に対して抱いた憤りの感情の数々に辻褄が合わないといい、下人の追い剥ぎの裏には老婆に対する制裁の意味もあったとして三好論に反論を投じている。
 最後に首藤氏は主に三好論の「下人と老婆の同調」に対して異を唱えており、下人の追い剥ぎは「論理に対する軽蔑と嘲笑」だと述べ、下人と老婆の論理はそもそもが違うもので、下人は自身の論理を最後まで押し通したと講じている。

 いずれも(アプローチは若干異なるものの)三好論における老婆の論理と下人の受け取り方について考察がなされている。特に浅野氏は武者小路実篤との関連性から本作を「愉快」な小説と捉えている点や、笹淵氏の下人が芥川の分身であるという前提と下人の行動そのものが「愉快」たらしめる所以という考察は言及の余地を感じられる。
 次項では「羅生門」がなぜ深刻な小説ではないのか。ここで扱った三つの反論には触れず、三好氏が示した「野火」と本作の相違から考察を進めたい。

 

二 なぜ羅生門は「深刻」ではないのか

 三好氏は「野火」を挙げる際に〈唐突な類推に見えるかもしれないが〉と前置きをわざわざ敷いて〈読者は大岡昇平の﹁野火﹂を想起する自由をもつ〉と記している。しかしながら、三好氏も指摘している通り、本作には相応たる迫力が足りず、戦時中の食人肉(それも兵士と将校のやり取りが交わされている状況)に触れるような深刻な問題の前に直面しているとは考え難い。というのも、この二作に置かれている立場は全くもって格が違うと言わざるを得ない。確かに、「羅生門」の世界背景には多くの理由で荒廃した京の町が据えられている。だが、本作中で老婆が死体を漁っていた理由は〈存外、平凡〉の範疇である。もし仮に老婆が死体の肉を鴉のように啄ばんでいる場面や、下人が老婆を斬殺・刺殺し、鬘を奪い、最後にはその肉を食そうとしていた直接的な描写または片鱗が描かれていれば、この小説は紛れもなく深刻な小説と断言できるだろう。

 三好氏が自然と「野火」を想起したのは、彼の青春時代の痛烈な体験が植えついたからではないのか。三好氏の青春時代は戦時中とほぼ重なっている。少なくとも、太平洋戦争開戦時(1941)は三好氏が当時まだ十五歳。三好氏の戦時中の生活の様子や詳細は分からないが、「野火」を想起するファクターには三好氏個人が持つ経験則めいた感性が少なからず作用したのではないだろうか。先述のように、決して本作と「野火」が重なっていないわけではない。しかし、その世界、置かれた状況、葛藤の規模など差異が大きく表れている。三好氏が本作を深刻なテーマを扱っていると映ったのは、困窮と飢餓に悩む本作の世界構成に三好氏の感慨が引っ張られ、加えて「野火」という深刻な小説と本作を照らし合わせてしまったことで生まれてしまった弊害と言わざるを得ない。

当然「深刻ではない=愉快だ」という等式が当てはまるわけではない。確かに本作のストーリーのどの部分を取って見ても〈愉快な小説〉と感じられる箇所が微塵も存在しないと感じるのは何ら不思議なことではない。芥川の回想は三好氏のように一蹴することも可能だが、それは芥川の回想そのものが恣意的で意味の無いものと割り切ったからこそ進められた論説である。本当に無意味で耳を傾ける必要もなく、信じられないという理由ひとつで切り捨てていいものなのか。屁理屈のように映るかもしれないが、芥川の回想は「書きたかった」であって、「書いた/書けた」とは記載していない。この一点は留意しなければならない点である。本作は芥川の「愉快に生きてみたい」という転身願望を反映させた小説であることは視野に入れるべきなのだ。

 また、三好氏は芥川が自身の短編集の扉に書かれた〈雙眼の色〉というエピグラムに着目した。(要約だけすれば、三好氏はこの詩句を中心に芥川の心の闇と虚無感が表れていると書いた)だが、羅生門にはその〈雙眼の色〉は直接的、ましてやほのめかすような描写も現れていない。三好氏は本作から垣間見える芥川の暗澹な感情に目を向けてしまったばっかりに、論考を展開したからこそ解釈を見誤ったのである。この詩句を据えた意味は逆にある。この文言は寧ろ愉快な「羅生門」を書くために必要だったのだ。芥川の生涯(「羅生門」執筆時までとしても)彼の家庭環境・恋愛面並びに人間観などを考慮すれば、彼の置かれていた状況は少なくとも「愉快」とはとても言えない。(外からは嘲笑や皮肉の笑みになるかもしれないが)この文言はそういった芥川のこれまでと現状を詩句として表している「だけ」に過ぎない。愉快な小説を書く人間が必ずしも愉快に生きていない。その逆を生きている存在だからこそ、憧れ、焦がれ、虚構の中でもと逃れんばかりに愉快な小説を書いたのではなかろうか。


おわりに

第一に言いたいのは三好論が優れた論説であることは紛いのない事実である。研究論としての説得力と影響力が突出しているからこそ、三好論は発表から五十年近くが経った今でも根強く「羅生門」に影を落としているのである。

 本論では梗概を多く述べたため、まだまだ言及の余地が多く残されている。芥川の本作執筆当時の時代背景や、芥川も属していた「新思潮」との関係性。また、「羅生門」を愉快な小説と論ずる文献も掘り下げ、下人の行動とその心理を重ねて論じることで、芥川の愉快に対する思いなどを深め明らかにしたい。

 最後に、小説のような作品は他者によって哲学・教訓・思想が込められているのではないかと探りを入れられ、時には傑作だと囃し立てられる。人々は文学そのものをどこか一定数高尚なものと捉えがちである。もちろん、深刻な意味やテーマについて綴った作品や、社会的な風刺などが込められた作品が存在することは事実である。しかし、「羅生門」のように傑作の祭壇に奉られた小説はその行為によって本来持っているはずの背景すら奪い去り、作品の文学的価値と研究によって打ち立てられた論考のみが示されるようになってしまう。少なくとも「羅生門」を大層立派な思想があると奉られている傑作の祭壇からおろしてはどうだろうか。

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