僕がマニュアル人間なのは
小学生低学年の頃、通っていたそろばん塾で「LITE君、もっと丁寧にやりなさいよ」と先生から嗜められた時、「丁寧ってどうやるんですか?」と詰め寄ったことがある。
子どもの純粋なヘルプは、「お宅のお子さん口答えするんですよ。正直そろばんに向いてないんじゃないですか?」と告げ口されたことで無事親に伝わった。
その後の人生のあらゆる局面で、このエピソードは「お前は人から何を言われても口答えして受け入れない人間なのだ」という証明として幾度となく蒸し返された。
今振り返ってみれば無理もない。俺は「抽象的な表現にあまりにも弱い、マニュアルを提示されないと動けない人間」なのだ。
皆で準備するバーベキューでは、大抵何をすれば良いか分からず端の方でずっと固まっているタイプ。
受験勉強の時は何から勉強すれば良いのか分からずインターネットで「受験英語 勉強法」と検索し、バカ正直に実行して失敗した。
宗教が「こんなのに頼る人間は弱い奴だ」という理由で忌避され、自分の考えで生きることこそ尊いとされがちな日本社会。
その中でこういう自分が無いタイプは大抵、大学生になると科学的根拠を著しく欠いた自己啓発やビジネスインフルエンサーの発信にハマって泣きを見る。
目を覚ました今だって、発達障害者に向けた情報や書籍を軸にして人生を立て直したのが実情だ。僕はそこに教科書があって初めて動けるタイプの人間だということ。
話は変わって、最近仕事で個人的にマニュアルを作成している。これまで業務で周囲から指摘されたポイントを備忘録としてまとめたものだ。だが正直、ベテラン社員の方からの反応はあまり良くない。
それも正しいかも知れない。画一的な方法論に固執することで、逆に自分で考える応用力が育たなくなるリスクもあるだろう。
勉強でもアルバイトでもファッションでも、今まで何か一つのやり方や物にしか目を向けないことで雁字搦めになって空回りするのは悪い癖だった。
だが冷静に考えて、「守破離」の「守」すら覚束ない人間が「破・離」のプロセスを踏めるだろうか。既存の枠組みをアレンジして新しいもの作るには、どうしたって基となる1の要素、すなわち「既にあるもののモノマネ」が必要なのだ。
最後に、なぜ自分はマニュアル人間なのか考えていた矢先に見つけた動画が超絶面白かったので皆さんに共有したい。メッチャゆるい動画だが、的確に確信を突いている。
要するに「帰納的」ではなく「演繹的」に物事を捉えるから「曖昧」や「阿吽の呼吸」に弱いのだろう。何事もこんな風に言語化して、理屈で覚えないと理解できないということ。
時に痛いくらい自分を苦しめるこのASD気質は、慣れてしまえばそんなに悪いもんじゃない。皆が何となく思っているけど言葉にできないことを的確に言葉にしたり、理屈で説明できるといった恩恵もある。
だが動画の通り、実際の現場にはグレーゾーンが多いからこそマニュアルが無い。そんな時にできるのは、書籍でも先輩でも何でも、真似できるものは何でも真似して自分だけのマニュアルを作ること。
物事を感覚でなく理屈で捉える人間が、教科書が無い世の中を生き抜くために必要なのは「自分でカスタマイズした教科書」なのかも知れない。
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