転職
音無さんという友人がいる。
彼女とは幸せについてよく語り合う。
昨晩、私は結婚のことや将来について両親に咎められ、なにも答えることができずに泣いていた。
音無さんは「ただ生きているだけでいいんだよ」と言っていた。
音無さんは『とらばいゆ』という女性向けの転職支援の会社で働いている。
私達の出会いのきっかけも、私が勤めていた会社を辞め、次の仕事を探してとらいばゆのオフィスを訪ねた時だった。
私の前職は一般事務で、パソコンにデータを入力したり書類の作成や電話対応といったごく普通の仕事で給料も悪くなかったのだが、同じ課の上司との不倫関係を他の女性職員に気付かれてしまい、私がいない所で繰り広げられる噂話と陰口に耐えられず、退職に至った。
以来その上司とは音信不通で、私のことは一切守ってくれなかった。
音無さんのカウンセリングは少し変わっている。
最初の面談の時にまず「もし目が見えなかったらどうしますか?」と聞かれ、次に「もし足が悪くて歩くことができなかったらどうしますか?」と質問された。
私が「えっ?」とあっけにとられていると、音無さんは「不自由な体でも出来る仕事を考えることより先に、普通に生活できていることの有り難さが思い浮びませんでしたか?」と言って小さく笑った。
「それでは、これからあなたに合った仕事を探していきましょう。」
私は心に勇気が湧いたような気がした。
音無さんのデスクには、小さな花が飾られていた。
私は現在、音無さんの紹介で就職した食品の宅配の仕事をしている。
事務職よりも外に出ていた方が運動になるし、隣で嫌な陰口を聞かないで済むような気がした。
今は職場の同僚の男性と隠れてお付き合いしている。
でも、先輩ドライバーの女性との会話の中でその人が既婚者であることを知ってしまい、そのことを本人に問い詰めるべきか悩んでいることを、有ろうことか両親に打ち明けてしまった。
そんなことを話したらまた怒られるに決まってるのに、そのぐらい私は気が滅入っていた。
翌日、私は採用後のカウンセリングを口実にとらばいゆを訪れ、音無さんに自分が抱えている悩みを打ち明けた。
音無さんは「ここじゃゆっくり話せないので」と相談の時間を作ってくれて、彼女の仕事終わりにビルの1階のカフェで会うことになった。
私は話をしながら、昨晩両親に言われたことや職場の彼氏に浮気相手として利用されていたこと、以前の上司との不倫のことなどが頭に浮かんで泣いていた。
こんな公共の場で泣いてはいけないと思いながらも、涙が止まらなかった。
音無さんは「幸せってなんだろうね」と言って奇妙な話を始めた。
「私が今の仕事を始める前に、お金が欲しくて銀行強盗をしたことがあったの。
お金があれば何でも好きなことができて幸せになれると思ったから。
それでおもちゃの拳銃を持って銀行を襲ったの。
命が欲しければこの鞄にありったけの金を詰めろって脅してね。」
「強盗は見事成功して、私は大金を手に入れた。
でもその日の夕方には防犯カメラの映像がニュースに流れて、私は指名手配の犯人になったの。
せっかくお金を手に入れたのに、そのお金を使うことができなくて全然幸せじゃなかった。
私は刑務所の中で、お金は幸せになるための手段であって幸せそのものではないってことに気付いたわ。
だから人が働いてお金を稼いで、幸せになるための手助けがしたいと思って今の仕事をしてるの。もちろん冗談だけど。」
そう言って舌を出して戯けてみせた。
音無さんの話はすぐに嘘と分かったけれど、全部が全部嘘ではないように思えた。
「私はね、ただ生きているだけでいいと思うんだ。
昼は普通に働いて、家に帰ったらお風呂に入って晩ごはんを食べて、夜はお布団でぐっすり眠って。
朝、目が覚めたら顔を洗って歯を磨いて、ドアを開けてまた新しい一日が始まる。
それだけで十分幸せだと思うの。
私はその手助けができたらいいなって。
動物だって植物だって、ただ生きてるだけだもの。
変なことしてるのは人間だけ。」
音無さんは遠い目をして言った。
カフェのテラスからは駅に向かって歩く人達の姿が見える。
「あなただって偉いのよ。
生きてるだけで優勝ですって女芸人さんが言ってたじゃない?」
音無さんは笑いながら言うと、私もつられて笑った。
気付いたら涙は止まっていた。
「でもその男はやめた方がいいわ。次はもっといい仕事を紹介するから。」
音無さんはそう言って私の手を握りしめた。
私のトラバーユがまた始まった。
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