【ネタバレ注意】ジョーカーのエンディングに関する3つの考察

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レビューは他の批評家に任せるとして、この記事では映画『ジョーカー』のエンディングに関する3つの考察を紹介したいと思う。海外の映画専門YouTubeチャンネル等でも、あらかたの考察が出揃っているので、気になる方は”Joker Ending Explained”などで検索すると良いだろう。

まず本作のエンディングを考察する上で欠かせない要素が、主人公のアーサー・フレックことジョーカーが「信頼できない語り手(Unreliable Narrator)」であるということだ。アーサーというキャラクターはこの中でも「精神に問題のある語り手(Madman)」に分類され、この手法を採用した有名どころの映画には『アメリカン・サイコ』『メメント』『シャッター・アイランド』などが挙げられる。もちろん本作に多大な影響を与えている『タクシー・ドライバー』と『キング・オブ・コメディ』もその例に漏れない。

真のエンディングに辿り着くには本作で語られる物語のうち、「どこまでが現実で、どこまでがアーサーの妄想なのか?」という部分を検証していく必要がある。本作にはその現実と妄想の境界線を示唆するヒントがいくつか隠されており、その解釈がキーとなってくる。それでは1つ目の考察から見ていこう。

1.『アーサーが他人から肯定されるシーンは全て妄想である』説

観客たちがアーサーを初めて信頼できなくなるのは、映画の中盤で隣人・ソフィーのリビングに忍び込むシーンだ。そこで初めて、アーサーが彼女と過ごした日々が全て妄想であったことが明かされる。また、マレー・フランクリン・ショーに出演するというアーサーの空想を映画の序盤で観客に見せることで、アーサーには妄想癖があるということも早い段階で示唆している。

ソフィーと過ごした幸せな日々が全て妄想だったとすると、アーサーが他人から肯定的な反応を示される他のシーンもまた、彼の妄想であったということが言えるかも知れない。具体的な例は以下の通りである。

・バスのシーンで子供を笑わせるシーン
・母親から愛情を受けている全てのシーン
・コメディ・クラブで大爆笑を掻っ攫うシーン
・映画のラスト付近で「犯罪界の道化王子(Clown Prince of Crime)」として復活を遂げるシーン

その他のシーン、つまりアーサーを襲う悲惨な出来事が全て現実だったとすると、物語の「現実と妄想」に上手くラインを引くことの出来る考察だと言えるだろう。

アーサーは確かにマレー・フランクリン・ショーに出演し、彼を射殺したのだろう。それは同シーンの直後に挟まれる、無数のブラウン管が並ぶショットを第三者の視点から映していることからも明らかだ。同番組で起きた出来事は、混沌の中の1つの悲劇であるということが示唆されている。

しかし、この考察には2つの疑問点が残る。

・後のバットマンとなるブルース・ウェインの両親の死は、誰の視点から語られるものなのか?
・映画のラストとなる精神病棟のカウンセリング・シーンの位置付けは?

この疑問点を補足する2つ目の考察を紹介しよう。

2.『映画で語られる物語は全てアーサーの妄想である』説

この考察は、ある意味でジョーカーというキャラクターの神秘性を保つものだ。

ジョーカーには様々なオリジン・ストーリー(キャラクターの出生)が存在する。それは劇中でジョーカーの口から語られるものであったり、『キリング・ジョーク』を代表とする物語によって創作されてきた。確固たるオリジン・ストーリーが存在しないということが、彼をその他のヴィラン(悪役)と一線を画しているのだ。

本作で語られる物語が、ラストの精神病棟でアーサーが思い浮かべた妄想だとすると、”You wouldn’t get it.(きっと君にはこのジョークは伝わらない。)”という台詞の真意が分かってくるかも知れない。

ここで言う「ジョーク」の真意とはつまり、彼の妄想のオリジン・ストーリーがドミノ倒し的にバットマンことブルース・ウェインの両親の死に繋がり、それが両者の因縁に結びつくというものだ。これが笑えるかどうかは別として、いかにもジョーカーが対バットマン用の精神攻撃として語りそうな物語であることは間違いない。

この考察はいささかDCユニバースに思い入れの強い「ファン・ボーイ」的な考察であることは否めないが、一考の価値はあるだろう。

3.『アーサーはラストの車両衝突のシーンで死んでいる』説

この考察は前段の2つとも、また少し趣向が異なる。

これは本作にも多大な影響を与えている『タクシー・ドライバー』のエンディング考察にも重なるものだ。同作の鬱屈した主人公・トラビスは、街のチンピラとの壮絶な果し合いから奇跡的に生還し、「勇気ある自警団員」として世間から称賛される。

しかし、このエピローグの部分で語られる「世間からの称賛」については懐疑的な論者が多いことでも知られている。米映画評論家の故ロジャー・イーバートの言葉を借りるとしよう。

『私達はトラビスが死の直前に思い描いたイメージを見せられているのではないだろうか?果たして、あのラストを額面通りに受け止めても良いのだろうか?この問いには答えが出せそうには無い。ラストの一連の流れはドラマを見ているというより、音楽の一節を聴かされているような感じなのだ』

つまり、これを本作に照らし合わせるならば、アーサーは最後の車両衝突のシーンで死んでいることになる。私の記憶が確かならば、救急車はアーサーの座っている座席側に衝突してくる。この衝突を生き延びるというのは、全体的に現実に即して描かれている暴力描写と矛盾しているとも取れるだろう。

アーサーがまるでキリストの如く暴徒たちに囲まれるシーンは、彼が死の直前に妄想したものだったのかも知れない。ラストの閉鎖病棟のシーンは言うならば煉獄だ。その証拠に、同病棟の真っ白で無菌室な部屋は、それまで劇中で登場した閉鎖病棟の印象とはあまりに異なっているのだから。

あのカウンセリング兼取り調べは審問であり、自身の行いに罪悪感を一切持たないアーサーは嬉々として煉獄を彷徨っているのかも知れない。

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面白い考察を見つけたら随時追加していきます。

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