自分と分離することの難しいものを、売ることは難しい
まえがき
今日は、"自分と分離することの難しいものを売ることは難しい"というお話をさせていただきたいと思います。
"物質か精神か"
というようなことって、よく語られるテーマかなぁと思うのですが、
わたしたちは、この世で自分の生命を維持していくに当たり、
ある程度、自分を"モノ"のように見立てて生きていると思います。
自分に与えられた人生の"時間"
身体。
自分が他の人に提供することのできる、なんらかの価値。技術…。
今、わたしたちは益々、自分という1人の人間をまるで"モノ"のように見立てて生きることを強いられる、
そんな時代を生きているのかもしれません。
そこにはもちろん、葛藤がある。
悲しみがある。
苦しみがある。
何故ならわたしたちは、"モノ"ではないから。
元々、日本に住むわたしたちには、人間以外のものにも何か"心"が宿っているというような考え方をしていたのではなかったかなぁ、と思います。
本題
さて、今日お話しさせていただきたい話題に入ります。
"自分と分離することの難しいものを売ることは難しい"
よく、"お金で買うことのできないものの価値"みたいなことが語られると思うのですが、
おそらく、自分と一体となっていて分離することの不可能なものを、たとえば"商品"として売る、相応の対価を見返りにその価値を提供するということって、
実はすごく難しいことではないか、と思うのです。
何故なら、そのものは自分と分離することができないくらい一体となっているものだから。
その在り方には、強いこだわりがあるかもしれないし、
自分にとって"正しい"ことは、そのサービスとして提供するものに対する思いが強ければ強いほど、
他者にとっての"正しい"ことと大きな差異があった場合に、それを"譲る"、"自分を曲げる"ということが難しくなってくる。
たとえば、ヨガのレッスン。
私にも、こだわりがあり、
たとえば、レッスンの後に、「ありがとうございました」の一言を言うことができない人には、もう教えたくないという気持ちを持ちながら、教えていたことがあります(ぶっちゃけさせていただきますが)
私が生徒としてベテランの先生のレッスンを受けさせていただく時には、最低限のそのような礼儀は払っていなかったかな?…。
前にもどこかで書いたかと思うのですが、このように例えばヨガの先生は「先生」であり、「サービス提供者」でもある。
この辺りが、ヨガを教えるということをするに当たっては、私にとってはずっと考え続けることとなったテーマでした。
今、私が自身の実際の経験をこうして振り返ってテーマとして語らせていただいているのはおそらく、
私はもうヨガを「教える」ということをしないだろうという思いがあるからかもしれません。
頸や背中などを痛めたことが一番の大きな理由ではありますが、
他にも、私の中では、いくつかの理由があります。
しかしもちろん、ヨガのレッスンを提供されている先生達はたくさんおられるわけで、
私の場合には、このように考えるということに過ぎません。
まとめ
ヨガの先生に限らず、多くの方が何かしらのご自分の持っておられる技術や能力、経験を"商品"という形にして価値を交換されていると考えれば、
私も、もう少しその在り方を追求してみるという方法もあるかとは思います。
ヨガの素晴らしさについては、今更私がここで強調することでもありません。
このように、大切にしているものであるほど、こだわりも出てきます。
自分の中で得た確信を、曲げることは難しい。
今は、"教える"というのは、なんか違うのではないかとも思っています。
ということで今日は、"自分と分離することの難しいものを売ることは難しい"というお話しでした。
本日も、お読みいただき、ありがとうございました。
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