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思いは伝わる

誰かが自分を、自分の思う通りに動かしたいと思っている、

ということを感じ取ると、

人はその人から離れたくなるのではないか、と思う。

人をコントロールしたいという欲や相手を常に監視していたいという欲も、依存の一形態だと思う。

そこには、相手に対する敬意がない。

エゴが一人歩きしている。

人だから、誰しもエゴはある。

生物としての自己保存欲求があるし、それは「他を犠牲にしてでも」という但し書きがカッコ付きでつく。

人間は、社会的な動物である。

人間の社会における規範とともに、生きる本能に突き動かされる動物でもある。

そして、もっと言えば、一人ひとりが今生でのプログラムに従って、自分に必要な学びを得るべく、様々な経験をするべく生きている。

観念論の綺麗事だけでは、人は生きていない。

善や悪といった判断は、あくまで自分の立ち位置から見た善や悪であって、

その立ち位置は、人の数だけあるとしたなら、

その価値判断はやはりあくまで個人的なものと言わざるを得ないと思う。

そうでしかあり得ない。

絶対的に正しい、ただ一つの答えなどない。

それぞれの人の中に、それぞれの人にとっての「正しさ」や「答え」がある。

その人にとっての答えは、その人の中にしかない。

だから、人と人とはぶつかる。

実際には、人間には知覚することのできない領域からの力やエネルギーの流れ、個人個人のカルマといったものがあり、

私たちはそれには従わざるを得ないのかもしれない。

自分で変えることのできることと、選ぶことのできないことがある。

私たちがこの世で味わうことのできる、「幸」や「福」は「人智を尽くして天命を待つ」というように、

自分の努力だけでは現れ得ず、きっとそこにはもっと大きな力が働いているのではないかと思う。

とはいえ、自分というものについてのなにかしらの「制限」もこれまで生きてきた過程において自ら内面化してきたのだとしたなら、

やはり努力、というか試みはやって然るべきであり、

私たちは自分の人生を簡単にあきらめるべきではない。

突然、目の前に今まで見たこともないような景色が広がることもあるだろう。

それはもちろん、過去の自分の様々なことの積み重ねによってのみ、もたらされるのだろうとは思うけれども。

あきらめることなく、

他人に期待することなく、

自分に向き合い続けたい。

心からの思いしか伝わらない、しかし伝わる人には伝わるから。

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