垢の事例(1)

 夏で、梅雨で、うんざりしてた。汗腺を塞がんとばかりに吸い付いてくる布。そこら中の雨粒の輪郭をくっきり浮かび上がらせる車のライト。水しぶき。どうせなら最初から傘なんて差さなきゃよかったとぼやく足先。きっと手提げの中身もしわくちゃだ。ひょっと商店の看板に腕をぶつけたら、こすれたところに灰色の垢の塊が出ていた。


 家についたらすぐに風呂に入った。でもその後は中々その密室から出られなかった。こすったのは右の一の腕。まだちょっと赤くなっていて、シャワーを当ててもそこだけ目立っている。じっと見つめていると、まるで目で掻いてしまったかのように、じわじわと痒くなってくる。身体を洗うついでに、満足するまで爪でこすってみた。それがちょっと後悔することになった。

 止まらずどんどん出てくる。あとからあとから、灰色の塊が、お湯でかたまって粘土みたいにして。赤くなったところの周囲に点々と掘り出されている。こんなにも溜まっていたのか。この垢はいつのときの?あの垢はいつのときの?垢とは、死んだ細胞のことらしい。掘れば掘るほど、色々な過去が発掘されていく。もっとも、その垢を見つめたところで何の記憶も蘇らないけれど。

 生物は食べ物から栄養を得てそれを自分の体に変換し、同時に、それまでの自分の体を順次排泄するらしい。そういう粒子レベルまで見てみたら、個体といっても、常に流動的に外界と入れ替わり続けているのだという。人体も、三ヶ月?だかなんだかで、全ての成分が新しくなってしまうんだと。

 それでは垢は、本当はもう私の外へ出されてしまっているはずなのに、それと気づかれずに、それと認められずに、ずっと私の体に付着して、私の体のフリをして、私の元に居座っていたものなのだ。かといってそれは、ただのゴミというのでもない。それは紛れもなく私だったのだから。というか、今の今まで、まさにこの瞬間まで、私であった――ほとんど私"である"――のだから。垢は私の、そして私の経験の痕跡なのだ。たとえ常に外へと代替わりしてしまうとしても、これらの垢は全部私だったのだ。もう随分とくすんだ色になってしまっているけれど。


 それにしてもよく出るな。もしずっとずっとこすりつづけたら、私の体重はどれくらい減るのだろう。まさか私の肉体とは、全部垢なのではあるまいか。少しゾッとした。ゾッとしながら、掻くのが気持ちいいので掻き続けた。それでも出終わる気配がないので、さすがにやめた。快楽に抗うのに少し苦労した。まぁ、どうせそのうち勝手に出てくるのだ。今ここで全部出しきってしまう必要もないだろう。垢すりエステは一回行ってみたいけど。でも垢すり一回やって帰ってきたら、本当にちょっと痩せそうだな。

 まてよ、だとしたら、垢がついていなかったら、そのぶん私の体の拡がりは小さくなって、当然腕も細くなって、そもそも私は腕を看板にぶつけなかったのではあるまいか。垢がついていたから腕をぶつけて、腕をぶつけたから垢が取れてしまって、垢って可哀そうな人生を送ってるなぁ。なんのために生きてるのか。馬鹿らしいじゃないか。

 でもまぁ、腕をぶつけた痛みもちょっとはドクドクしたし、シャワーを浴びながらこうやってしょうもないことを考えまくれたし、そのお陰で、少なくとも今日という一日は他の日々とは少し違った日になった。灰色っていうのも、案外つまらない色ではない。

 

 ほんのちょっとだけ特別な気分になったので、風呂あがりに冷凍庫からデザートのアイスと、買ったまましばらく忘れていたウィスキーを取り出した。流石にソーダで割るけど。テレビを点けようとしたけど、なんとなく今日はよしといた。橙の混じった明かりのワンルームで、コンビニクオリティの冷たい甘みが沁みる。これもまたやがて私の垢になるのだろう。

「本当の私」に乾杯。私は呟いた。

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