絶望の事例(1)

 「生きている意味は無い」「死ぬべきだ」という言葉を巡って、ある一つの問題がある。つまり、その言葉は、――〈女〉として、身体として――鬱病の症状や、たまたま嫌なことがあった日の愚痴であるのか、それとも――〈男〉として、精神として――合理的に推論された学的主張であるのか、という問題である。つまりは、Negativismusを「反抗癖」と訳すか「否定主義」と訳すかという問題である。

 ここで、絶望の構造について一つの洞察を述べておこう。――このようなことを今更述べなければならないとはなんとも滑稽であるが――結論から言えば、絶望にはその定義から言って永遠性が含まれている。故に、それは単に偶然的な日々の徴候ではなく、或る種の普遍的な妥当性を要求する学的主張である、少なくともそのように扱われなければならない、ということである。

 1. 絶望とは、望みが絶たれることである
 2. 何かが絶たれるとは、その何かが永遠に回復することがないということである
 3. よって、絶望とは望みの不在の永遠性を意味している。

 仮に、絶望が実に刹那的な「心のバランスの乱れ」であるとしてみよう。そうであるからといって、目の前の絶望している人間に対して、「薬を飲め」「精神科へ行け」と言うことは果たして適切であろうか。というのも、目の前のその人間が、私に対してこの世の無意味を滔々と解き明かし、私はそれに対してどんな反論も返せないというのに?政府に対して反抗を示す人民を全てガス室に隔離して、もはや誰も文句を垂れ流さない国にすればその政府は良き政府であることになろうか。或いはガス室でなくても、101号室をフル稼働させて全ての人を愛国心のある人民に塗り替えてしまえば、その政府は良き政府であることになろうか。仮にそのような状態が確立されたとしても、絶望する人間を治療室へ送ることを決定したあの瞬間に、既に決定的な敗北が確立しているのではなかろうか。同様にして、虚ろな目をした者に対して「何かあった?」と尋ねることほど不適切で攻撃的な声のかけ方もないのだ。

 それ故、もし仮に絶望という永遠性の主張自体が永遠でないとしても、それを永遠ではないものとして扱うことはどこまでも不当なこととして残るのであり、そうであるからこそ、我々人類は常に次の二つの選択の岐路に立たされているのだ:絶望という永遠性の主張自体もまた永遠であることに賭けて、絶望を完遂するか、それとも、絶望という永遠性の主張自体は永遠ではないことに賭けて、絶望する者にかける言葉をどうにか編み出そうとするか。

 しかし、この二つの道は対称的ではない。まず、後者の道を選んだとして、必ずしも見事な言葉を編み出せるとは限らない。それが拙ければ拙いほど、それは単なる機械的投薬に過ぎないものとして、程度の低いものとなる。そこで、このような詩歌講評を加えるのは一体誰かといえば、前者の道を選んだ者である。後者の道は、常に前者の道によって価値判断を下される地位に留まる。そして、絶望という永遠性の主張自体が永遠であることは、絶望の張本人からすれば、全く不確かなことではない。むしろ、絶望が永遠性を要請する以上、絶望の永遠性の主張の永遠性もまた自明のことである。従って、そもそも上述の岐路が見えるのは後者の道を取る者のみである。

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