盲目の事例(1)

視野の周辺に在る領域は容易に記述しがたいものだが、しかし、それが暗黒でも灰色でもないことは確かである。つまり、そこには“未決定の視像、何だかわからぬものの視像”、というものがあるのであって、極端に言えば、私の背後に在るものでも視覚的に現前していないわけではないのである。         ーーメルロ=ポンティ『知覚の現象学』

視覚を持たない者の視野ーー仮にそんなものがあるとしてだがーーは、真っ黒ではない。病室で目を覚ます者の視点から描かれた漫画のヒトコマはその上下にベタ塗りの黒い帯を伴っているが、そのような地帯は実在しない。では何色か。いや、その問題の立て方は誤っている。そもそも「色」なる概念が盲目については不適切である。そもそも視覚が無いのである。だから、両目を瞑ってみても無駄である。しかし、その試みが全く無意味だということはない。実際試しに、両目を瞑ってそこに現れる「色」を記述してみよう。それが極めて困難であることが分かるはずだ。その「色」を「◯◯色」と言葉にしようが、絵の具を混ぜ合わせてキャンバスに乗せようが、それが決して転写に成功しないことが分かる。ここへ来て我々は、「色」というものがいかに不明瞭で、不安定で、驚くほど不可解なものであるかに気付く。

両目を瞑ったときに現れるものは、即自的な色彩という意味での黒色ではない。それはただ“象徴として”黒なのである。つまり、漫画や映像や文学において視野の欠如を黒として表現してきた我々の文化的蓄積の中には、〈黒=闇=無〉という象徴が成立しており、我々はこれを共有しているのである。いわば合言葉であり、我々は「黒」という合言葉のもとに一つの事態を浮かび上がらせているに過ぎない。ということは、無という事態を「黒」と言ってのけるというのは一つの離れ業であり、単なる転写ではなくほとんど不可能を遂行する創造である。

盲目と閉眼とは同一の事態ではない。「たとえ眼に映ずるものが暗黒でしかなくとも、見ることをやめることはできなし、たとえ耳に聞えるものが沈黙でしかなくとも、聞くことをやめることはできない」(『知覚の現象学』)。ただ、〈黒〉という象徴の絆によって盲目と辛うじて結ばれている閉眼は、非盲目の徒が盲目の者に接近するほとんど唯一の手掛かりであり、ただこの意味においてのみ、閉眼は相対的な盲目である。盲目の者と非盲目の徒とは断絶されている。盲目の者に「それは何色か」と聞いてみようか。しかし、たとえその者がかつてやいつか視覚を持っていた、持つことになる、としても、そのとき言われる「黒」は、決して共時的に比較されることのなかった黒なのである。いや、通時的にさえ比較されることはない。視覚の元で見られた黒と比較されなければならない相手方は同じ土俵には居ないのだから。私は他者の視界を直接手に入れることはできない。私が手に入れることができる視界のことを「私の視界」というのだからである。いわんや、私は視界を持たない者の視界を手に入れることなどできはしない。

かくして断念し、頭をもたげ、盲目の者のことを想うとき、ふと私の視界は奇妙な分厚い何かーー決して黒色ではなく、濁々ときらめきざわめく何かーーで覆われるのである。その肉の膜の厚みの向こうにのみ、つまりは見ることを不可能にするもの、〈瞼〉を通してのみ、私を超越した他者の元への接近が告示されるのである。

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