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まじか(犬と死)

生きているものは、全ていつか死ぬ。
そんなことは当たり前だと思っているのだけれど、私たちはいつも忘れてしまう。

今日私はそのことを思い出した。
ある出来事があって、忘れていた状態が終わり、思い出したのだ。

ある出来事というのは、うちの元気の象徴、茶犬が余命宣告を受けたこと。
つい4時間前に聞いたばかりで、正直、どう受け止めようかまだ整理がついていない。



整理がつかないので、つらつらと書いてみる

うちには犬が2匹いる。13歳になる黒犬と、11歳になる茶犬だ。
2匹とも0歳の頃から家にいる。目に入れても痛くない、これが愛かと発見してしまうくらいに大好きだ。

2匹とも、約10年家にいる。とはいえ、私は途中で大学やら留学やらで留守にしていた時期も長い。
むしろ、在宅になり頻繁に実家に長期滞在している今が、一番長く時間を過ごしているかもしれない今日この頃である。



前にも犬の死を意識したことはあったが

黒犬は、約2年前から後ろ脚にマヒが出てきて、だんだん前足に向かって体が動かなくなっていく病気にかかっている。原因不明、治療方法もない病気だ。
ウェブで調べてみると、発症から全身マヒ、呼吸困難になり、死に至るまで約2年と書いてあった。

黒犬の病気を聞いて、犬の「死」を意識し始めた。
犬の寿命はなんとなく10年くらい、とイメージしていた。
実際にそうと知っていたというよりは、一般的な知識として持っていた。
しかし、寿命と呼ばれる年になっても元気な犬たちを見て、「まだまだ一緒にいられる」と思っていた。

黒犬の病気は、そんな中での発症だった。
それもあってか、「腹をくくって、出来るだけ長い時間を一緒に過ごそう」と前向きな気持ちで黒犬の病気と向き合おうと思えた。

なお、うちの黒犬は、2年たった今も、前足のマヒが進んできたものの、「ごはん」と「さんぽ」に回って踊るほど元気である。



そんななか、うちの茶犬は

一方、11歳になる茶犬は、「3歳児か??」と思えるくらいやんちゃで、元気である。
「さんぽ」といえば玄関までダッシュし、玄関を開けた瞬間飛び出していく。(リード紐をつけていなくて、自由の身の茶犬と運動不足の私が全速力で50mほどを追いかけ合うというイベントもあった)(もう心から二度としたくない)
「ごはん」といえばごはん箱までダッシュし、届きやしないごはん箱へ果敢にジャンプを繰り出す。(足が短いので届かない)
私がゆっくり休んでいるとボールを持ってきて、「遊ぼう」としつこくねだる。(なお、ボールは唾でベトベトである)

そんな様子だから、当たり前に黒犬より長生きして、茶犬はよぼよぼになっても、持ち前のやんちやさで元気な姿を見せてくれると思い込んでいた。
本当に当たり前にそんな姿を想像していた。黒犬の寿命が来た後、茶犬の心のケアをきちんとしてあげなきゃ…と考えていたまでだった。


そこできたのが、突然の余命宣言である

余命宣告。しかも、1~2カ月。
あまり猶予があるとは言えない期間である。

私はそれを、家族からの連絡の3時間後に知った。
家族からLINEが来ていることに気がつかず、勤務時間中に自分のやることをしていた。
少し外出しており、その帰りに同居人にLINEを送ろう、としたときにLINEの通知が鳴り、このことを知ったのだ。

突然の連絡に、さすがに信じられなかった。

ぴょんぴょんはねて、「お手」も「お座り」もまともにできなくて、でもたまにすごく長い時間「待て」が出来て、と思ったら口の周りがよだれでべちょべちょになっている、あの元気で元気な、あの茶犬である。

いや確かに、「体が弱い」という傾向にはあった。だけれども、軽い体調不良だけで、そんなに大きな病気、ましてや「余命」なんてものを冠にかぶってしまうなんてことは1度たりとも考えたことがなかった。



まじか、に尽きる

今の気持ちとしては、不安とおどろき。まじか、に尽きる。

この後犬がどうなっていくのか、私たちは犬に出来る限りのことをしてやれるのか、というか出来る限りのことって何なんだ、2カ月ってじゃあどのくらいですぎてしまうんだ、2カ月しか一緒にいられないってどういうことなんだ。

いろんな、答えにならない質問を考えては、涙が出る。
だけど、声をあげて泣くほど感傷的にはなれない。あまりにも現実味がなさすぎる。

きっと、犬たちと四六時中一緒にいる親だと見える景色も変わるのだろう。私よりずっとリアリティーがあって辛いはずだ。
親にも寄り添わなければならない。

親は犬に一生懸命のことをしたいだろうから、私も一生懸命のことを一緒にするつもりだ。


とはいえ今は

茶犬は今、少し元気はないものの、いつも通りの姿勢ですやすや寝ているらしい。

部分的な状況しか知らず、30分で荷物をまとめて5時間かけて実家に向かう私は、その落差と変わらなさに、少し微笑みさえこぼしてしまうのだった。


何べん見ても、かわええ。

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