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学校ごっこ ①

「ごっこ」といっても、決して遊びの気持ちだったわけではない。

ただ、10年の月日を振り返ると、「ごっこ」だったと、自責の念を込めて認めたくなるのだ。

33歳の校長は、毎日、何かと戦うみたいに懸命に働き、疲れて、眠り込んでしまっても、翌朝は誰よりも元気に教壇に立った。何と戦っていたんだろうか。へとへとになるまで、何と戦っていたんだろうか。

戦った相手は、相棒の王玲美ではない。彼女と私は相棒と呼ぶにふさわしいコンビネーションだった。1つ年上で、頭の回転が速く、数学が好きで、声が大きく、快活な彼女とは、同じ方向を見て、共に歩いた。大きな歩幅で、走るように歩いた。

「机は明日、届く。やっぱり、多めに5つ注文しておいた」

「じゃ、全部で30?」私が聞き返す。

「物を置く場所も必要だしね。あ、カセットテープレコーダーは1台でいいよね」

王玲美の中国語は聞き取りやすい。外国人に話す中国語を心得ている。わかりやすい言葉で、はっきりと話してくれる。

中国に暮らして3年、私の中国語もそれなりに上達していた。地方なまりのある標準語だ。

「エアコンも明日、設置するの?」

「午前中ね。エアコンはあなたのたっての希望だからね。高かったけど、かなり値切ったよ」

王玲美はイッヒッヒと引きつるように笑った。いたずらっ子の笑顔だ。日本語クラスの教室の準備を始めてから、彼女は毎日張りきっていた。

私は教室にエアコンのある学校を作りたかった。長江から南の都市に北京のような暖房設備はなく、その割には底冷えする冬、厚いジャケットを着込んで、カタカタと床を足踏みして授業を受けていた学生たちが不憫だった。

「教室にエアコンがある学校なんて、どこにもないよ。電気代もかかるだろうねえ」

王玲美は首を横にふりながら笑った。

わたし達は足早に翻訳協会の事務所に向かっていた。日本語学校といっても最初は2クラスに過ぎないが、学生を募集するにあたり、翻訳協会のもとで財務を管理する約束になっていた。

1994年、まだ民間の語学学校などなかったし、申請するにしても段階を踏む必要があるということだった。

翻訳協会には大学教師を退職した3人の老人がいた。打ち合わせはこれで2度目だった。本人たちは何もせずに、名前だけ貸して収入が入るようなものだから、3人は終始笑顔を見せて、王玲美の手際のいい説明を聞いていた。

中国語での基本的なコミュニケーションはとれるようになっていたが、財務の話や法律の用語は、まだはっきりとは聞き取れず、私は思考を止めて、ただ老人たちに笑顔を返すしかなかった。

財務関係の用語も法律も知らないで、よくも学校を作りたいと言えたものだ。

結婚はしたものの、中国で居住ビザを手にするには勤め口を探さなければいけない。私は日本語を教えたい。ここで、自分を活かせることは日本語教師になること以外に考えられない。しかし、大学で教えることに魅力は感じなかった。

あの頃の大学の日本語授業はただ日本語を中国語に翻訳させるだけのつまらない授業だった。そんな授業をやらされるぐらいなら、自分で学校を作ったほうがましだ。しかし、どうやって……。

経済改革が進み、人々は裕福になるためのチャンスに乗り遅れてなるものかと一斉に走り始めていた。日本に既にあるものをこの国にそのまま持ってくれば全てが大当たりするような気さえした。一発当てたいというような金銭欲はなかったが、面白い時代に巡り合わせたという感覚はあった。学校を作れば勝算はあるとみた。

「手伝ってあげるよ」

道でばったり会い、近況を話す私に、王玲美が珍しく真剣な表情で私に言った。2年間、私が青年海外協力隊として派遣されていたセンターで、彼女は教務の仕事をしていたが、当時はお互いに苦手な相手だと思っていた。

底抜けに明るい彼女は、その明るさに及ばない真面目な私をつまらない人間だと思っただろうか。言葉の壁もあった、文化の壁もあった。性格の違いも大きかった。彼女は自分で認めるほど豪快で粗野な部分があった。

彼女は、手伝える人間は自分しかいないだろうとばかりに、私に歩み寄り、私も彼女を頼もしく感じた。粗野な部分はあるが、信頼できない人ではなかった。

翻訳協会の会長が、「いよいよ来週から授業開始というわけだね」と言うと、王玲美は目上の人を敬う笑顔を作り、「実際のことは全部こちらでやりますから、安心してください」と、口出し無用の念を押した。

翻訳協会への挨拶を終えると、私たちは風を切るように歩いて町の本屋に向かった。

「昼間の入門クラスが25、夜間の中級クラスが20、それぞれプラス5で注文すればいいでしょ」

「オーケー」

机と椅子と教科書があれば、学校は始められる。

日本人が校長であり、直接教える。まだこの市には日本人が数人しか住んでいない。高い希少価値という自信があった。ネイティブというだけで、私は誰からも文句を言われない自信があった。

こうして「さくら日本語学校」は開校した。(続)



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