世界で1番嫌いな父、フェミニズムを聞くと思い出す
フェミニストとしてご活躍される笛美さんの初の著書、「ぜんぶ運命だったんかい おじさん社会と女子の一生」を読みました。
この著書を読んで、自分の頭の中に思い浮かぶモヤモヤとした経験や気持ちがじわじわとにじみ出てきました。
私にとって「フェミニズム」について考えると、一番最初に思い浮かぶのが父。父はもう亡くなりましたが、心にトゲのように刺さって今もチクチクと痛むことがあります。
笛美さんの著書では社会人になってからのたくさんの辛さや苦しい思い、そして気づきについて丁寧に素直なお心で描かれていました。
看護師という職場は女性ばかりでそこまで職員同士ではあまり意識しなかったのですが、患者との関係など深掘りすると見えるものがあるので、今後まとめてみたいなとは思っています。
男尊女卑の塊のような父
父は令和を迎える直前に大腸癌で亡くなりました。68歳でした。
亡くなってからも未だにことあるごとに私の心にたくさんの辛さや苦しみを思い出させます。
「女がやればいい、そんなこと」
「女のくせにいっちょまえのことしやがって」
「女なんて働く意味がない」
「どうせ女なんて勉強する意味がない」
たくさんの男尊女卑の発言や行動に毎日さらされて、父の思い出話をするときはいつも父の言動が家族に対してひどかったという話で終わります。
障害で足の悪い母にすべて家のことをやらせ、仕事に行くか家で寝てるかパチンコにいっているか。
ご飯を出せば「おいしくない」と言わんばかりに一口食べて首を傾げる。味付けに必ず文句をつける。もちろん片付けなんてしないし、しなければ片付けろという。パチンコで帰りが遅くなれば用意したご飯には手を付けず寝る。
夜勤明けに何の連絡もなくパチンコに行って、家で少しご飯を食べてまた夜勤へ。いつ帰ってくるかわからない父にいつもは母は振り回された。
何か母が買おうものなら生活必需品でも細かく値段を聞く。俺が食わしてやってる、誰の金だと思ってるんだ、稼ぎがないやつは生きてる意味がない…などの発言。母は自分のものをなかなか買えなかった
子どもの頃どこかに連れて行ってもらった覚えがない。出かけたとしても数十メートル車で走れば
「もう帰ろう」
なんて本当に帰ったこともある。
田舎に帰るのは必ず毎年。母の実家には帰らない。田舎に帰るために高速道路に乗れば家族が乗っているにも関わらず他の車をあおり、ものすごいスピードで走っていつもいつも怖かった。死ぬんじゃないかと思った。
私の進路になんて興味がなかった。だから全部相談しないで自分で決めた。でも田舎に帰ればまるで何もかも知っているかのように親戚中にひけらかす。何も知らないくせに。
「胸が大きくなったな」と言って小学生のころ田舎に帰ったとき胸を触られた。まるで仲のいい親子を親戚たちに見せるように、今でも気持ち悪くなって辛い。
急に意味のわからないことで怒鳴られたり…「女のくせに生意気言いやがって!」の意味だったんだと思う。
私が交通事故に会おうと、相手が信号無視したのにまるで私が悪いように言った。そのあとの対応も関係ないって顔。私の体も心配しない。すべての対応を私と母がやった。見かねたディーラーさんが相手に父親のふりして連絡をとってくれた。
成人式にだって何も言わなかった、嫌になって行かなかった。誕生日だって部活でいい成績をとったときだって、高校、大学に合格した時だっておめでとうなんてなかった。
父が癌だとわかる前、病気がわかるのが怖くていつまでも病院に行かなかった。何度も何度も説得して、最後は親子じゃなくて、患者と看護師だと思って説得した。自分のことくらい自分でやってよ、家族に迷惑がかかるって思わないの、思わないんだよね、女が世話をするからいいと思ってるんだよね
病院にいき、あっという間に大きい病院に紹介されて癌が手が付けられないほどになっていて、たった1年で亡くなった。
介護の最中は、なんでもかんでも全部母と私がやるのが当たり前という態度でいた。痛ければ怒鳴り散らし、人工肛門は最初から自分でやる気無し、全部私と母がやった。女がやるのが当たり前。
仕事に幼い子もいるのに、毎日病院に役所に駆け回って自分でやれることもすべて任せきり、死ぬまで自分のことしか考えてなかった。
家族のことなんて何一つ考えていなかったんだろうってくらい、何もかもずっと父はそんな人だった。気まぐれに優しくすることがあっても、一瞬だけ。
父親が大嫌いだった。
どうして私の父親なんだろうっていつも思っていた。
父親らしいことなんてなにもしなかったし、私に興味がないみたいだった。
女なんて、女なんて、女なんて…
いつも聞かされて。
口を開けば母の尊厳を貶めるような言葉ばかり、子どもながらに聴いていて辛かった。
だって子どもだけど、私も女だから。
専業主婦の母はずっとずっと我慢で、経済的に自由があれば離婚したかっただろう。
パチンコで毎月何十万とすったり、勝ったらこれみよがしにお金をばらまく。
母はひそかにお金を貯めて私の学費を工面し、家のローンもなんとかしてくれた。でも母はなんの楽しみもなかったんじゃないかって思う…。
女は手に職がないと働けない。
子どものころから母を見ていてそう思ってきた。
「人の役に立てる仕事につきたい」
この気持ちは嘘じゃないけど、表向きな気持ち。看護師にどうしてなりたいの、なったのってしょっちゅう聞かれるから。
「女が自分で稼げて自立できるのは看護師しかない」
心の中で思い続けて、自分で働いて稼いで自立して生きていくことを考えていた。
私が私の人生を切り開くためにはそれしかないって思っていた。
父の言葉に負けたくなかった
女には必要ないって言われた勉強を一生懸命やった。
「女なんか勉強したって仕方がない」
進学校に合格できて通った。
「どうせ女がちょっといい学校に行ったって意味がない」
って言われながら。
看護師になって一生懸命働いた。
「看護師の仕事なんて女の仕事、世話係なんだろ?」
殺意湧いたよ…。
なんて言われようと、看護師として働き続けて、父が末期がんになった時は父は看護師である私を頼りに頼った。
どんな父親でも私にとっての父だから、私は看護師だから、医師や病院のみなさんにお世話になるんだから…。
複雑な思いで介護をした。
さいごに振り返ること
父が亡くなってから、あの「女なんてどうせ」みたいな言葉を聞かなくなって、心がめちゃくちゃ楽になりました。
笛美さんの著書を読んで、フェミニズムについて思い巡らせると最初に思い浮かぶのが父。
文を振り返ってみて、男尊女卑の塊のような父からの言動に傷ついたことと、父のモラハラや父から大切にされなかった思いがめちゃくちゃに混ざっていますね…。
私は父に対していつも怒っていて、イライラして、本当に自分が意味のない存在のようで…。
男性が苦手だし、一般的な父親ってどんな存在なのかわからない。もっと若いころは男性に対してどう対応していいかもわからなかったし、すごく恥ずかしかった。学生の頃はいつも好きになるのは父親くらいの歳の先生でした。父親を求めていたんだと思います。
今でも男性が苦手、看護師のユニフォームを着れば仕事のモードになるからなんとかなっているけど、先生も、患者さんもスタッフも、できれば男性じゃないと嬉しい自分がいます。
ずっとね、お父さんに娘として大切にしてもらいたかっただけなの。
お父さんに認めてもらいたかっただけなの。
お父さんに私はただ愛されたかっただけなの。
最期まで自分が大切で、臆病で人のことになんて気が回らなくて自分でいっぱいいっぱいの人でした。
わかっていたよ、でも寂しかった、ずっと、今も傷は残っている。
私は看護師の仕事が大好きで、自分が生きてくためだけの独りよがりの理由で看護師になったなんて思いたくなかったんです。思われたくなかった。でもこれは私の正直な気持ちで、嘘のない自分、「なんの取り柄もない私が女性でも自立して働いて生きる道は看護師だけ」だと思ったのは本当の気持ちです。
そして、フェミニズムを知って父から受けてきたことは、父は間違っていたんだと思えるようになりました。私は私を尊重されていいし、認められていいんだと。
そして親子関係だけじゃなくて、未だに男尊女卑も女性の権利が守られていないことがたくさんあるって気づきました。
私も女性だからこそ自分ではどうしようもできない苦しみがあったんですね。少しずつ向き合う勇気と声を上げる勇気をもらえるようになっています。
ものすごく個人的なことだけれど、書きなぐって振り返って、自分の中から出してみて、また読み直して振り返って…
自分の中で刺さっているトゲが抜けることはないのかもしれない。
私が傷ついていること、大切にされていなかったこと、見たくないものに目を向けて、おかしかったんだと気づき、自信を取り戻す作業を繰り返しています。
少しずつ浄化して、少しずつ向き合って。そして私はまた強くなれると信じて。
笛美さんの著書が発行されるのに際して「#ぜんぶ運命だったんかい」に投稿させていただいたら、たくさんのいいねをいただきました。もちろんハッシュタグの力もあったのだと思うのですが、私にとってはとても勇気と力をいただきました。
時代は変わっても、まだまだ父のような感覚の人がいる。
少しずつでも声を上げていきます。
読んでくださってありがとうございました!
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