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頭でひねり出した美しそうな物語と、心から出てきた醜くも本当の美しい物語

「やりたいことは何ですか?」

コーチをしていると、この質問を投げかける機会が多くなる。
コーチングセッション中はもちろんのこと、気の置けない仲間との飲み会や、仕事での面談、学生さんと話させてもらう折など、多岐にわたる場面で今日も飽きることなくワタナベからはこのセリフが発射される。

金太郎飴量産マシーンのように日々同じ質問を投げかけたとて、返ってくるリアクションは様々だ。

答えに窮する人、水を得た魚のように活き活きと語り始める人、慎重に言葉を選びながら口を開く人。

僕としては質問しておいてなんだが、返ってくる「やりたいこと」は正直なんだって構わないと思っている。その人の「やりたいこと」の世界観をおすそ分けしてもらうことこそが喜びであり、当人の「やりたいこと」の世界を濁しうる僕からの介入なんて避けて然るべきこと、こちらがとやかく言う筋合いはないことだ。

ただあくまで、僕が聞きたいのは「本音の」「やりたいこと」だという前提がある。
つまり返ってくる答えが「本音」ではなさそうと見るや否や、脱兎の如く駆け寄り、大蛇の如く絡みつき、猟豹の如く掴んで離さないワタナベが現れるというお約束だ。

最近よく使う、二つ目のセリフがある。

「それ、頭で考えてる話ですよね。僕は心の叫びが聴きたいです。」

僕の周りは賢しこな人が多いこともあり、このセリフがよく急所に当たる。というかそもそもこのnoteに出会うようなみなさんの周りも、おおよそ頭で考えようとしている人が多いのではなかろうか。だって僕らは幼少期から頭使うことを教育されてきているわけだし、社会人になっても頭使うことは奨励され続けるし、noteを読む層は広い現代社会において頭を使おうとしてる寄りの集団といって差し支えなさそうだし。

「それ、頭で考えてる話ですよね。僕は心の叫びが聴きたいです。」

大事なことなので二回言いました。この大事なことの話に入る前に、二年前僕が直面した出来事を紹介させてもらいたい。

「ワタナベさんは頑張っているのですが、左脳ばかり使ってる感じですね。右脳を使えるようになるともっと良いと思いますよ。」

二年前、僕がとある方から言われた言葉だ。その方は僕の語彙では魔女とか卑弥呼とかいう喩えしか出てこない不思議な力を持った方で、こんな紹介をしたら怪しさ満点なことは承知の上ましてや右脳を使うってどうやって?という感じで当時の僕も戸惑いを隠せなかった。

「どうやってって、あまり考えすぎなければいいんじゃないですか。」

僕からの質問に対する彼女からの返答がこれ。考えすぎない。これは勇気のいることだ。
なにせ物心ついた頃から考えることを奨励され続けて大人になるのが我々現代人だ。その生き方に突如逆行するようなコンセプトを取り入れるのは覚悟が必要だ。仕事で通用せんくなるやん、周りからアホな奴と思われそうやん、と瞬時に起こる脳内拒否反応。あと言及するのも恥ずかしいが曲がりなりにも東大卒としては、自らの武器として数えてよさそうな「考える力」を放棄することは甚大な武装解除を意味するような気がしてなおのこと及び腰になった。

しかし、考える力よりも何よりも、ワタナベには「素直さ」という至高のチャームポイントがある。とりあえず従ってみた。

それから二年たち、ようやく少しずつ「考えない状態」を体現できつつある気がしている。「右脳を使う・・・考えすぎない・・・どうやって・・・右脳を使う・・・考えすぎない・・・どうやって・・・」と日々考えまくるという矛盾を抱えながらも、仕事での場面、対人コミュニケーションの場面、その他あらゆる日常で、考えずに感じるみたいなことを心がけてみた。足掛け二年ずっと。我ながら素直。

分かりやすく効果が現れたのが、人の話を聴く場面だった。人の話を聴いている時、努めて「考えない」ことを心がけると、ようやく掴めるものがあった。それが「その人の発言内容が本音かどうか」だった。

「それ、頭で考えてる話ですよね。僕は心の叫びが聴きたいです。」

頭で考えまくってた自分が、頭で考えないことを模索したからこそ、目の前の相手が「頭で考えているかどうか」が感じ取れるようになった。

「やりたいことは何ですか?」

こう問われた時、字面では極めて洗練された、どこからどう見ても論理的に整合性の取れた物語を繰り出す人がいる。自分の強みがなんであるか、社会に解決を求められているイシューがなんであるか、これまでの経験を踏まえるとどんな領域に興味があるのか、それらを総合的に考えみて割り出された「やりたいこと」。いかにも面接官が首を縦に振りそうな物語。友人知人が拍手喝采で応援してくれそうな物語。

その拍手を送る群衆の中に、頭で考える僕もいる。
その拍手を送る群衆の中に、頭で考えない僕はいない。かもしれない。

本音のやりたいことが、頭で考えた美しい物語とは別の世界に潜んでいるというケースは、数えきれないほど目の当たりにしてきた。

「それ、頭で考えてる話ですよね。僕は心の叫びが聴きたいです。」

こう詰め寄られて、はじめは驚き、狼狽え、でも少しずつ本音が漏れ出す。それはまだ言葉にすらなっていない思いも多く、また時として「友人知人が拍手喝采で応援してくれそうな物語」とはかけ離れており、字面としての美しさは期待できないことも多い。

それでも、ひとたび本音の「やりたいこと」が発せられると、肩の力が抜け、表情が和らぎ、言葉にエネルギーが込められ、物理的にも熱気が伴う。これこそがワタナベ的には「本当の美しさ」に近づく瞬間となる。

頭で考えてひねり出した美しそうに見える物語は、往往にして自分自身を納得させるためという機能も携えているからなおのこと一筋縄ではいかない。「そう言って、美しい物語で自分自身を納得させようとしているのではないですか?自分を納得させようとしてる時点で本音とは言えなさそうですね。心からの本音の前では、納得なんて概念はないに等しいですよ。」この問いかけも、刺さることは多い。

頭でひねり出した美しそうに見える物語と、心から出てきた醜くも本当に美しい物語。

どちらも大切だが、コーチワタナベは後者を追求したい。

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