見出し画像

それ、誰かに借りた言葉じゃない?


前回の投稿から8ヶ月もの月日が流れてしまったようで、
本日は「自分の内に響いてる言葉を使い、本当に自分にあった方法を実践しような」というのが本題だがその前にここ数ヶ月の僕の様子もダイジェストでお届けしようと思う。コーチング的コンテンツだけ読めればいいやという方は前半は飛ばしてもらって大丈夫です。

ここ数ヶ月のワタナベについて


半年ちょっと前に柔術を始めた。この出会いは僕にとって革命的で、その理由は2つある。

  1. 生涯スポーツとの出会い

    高校卒業と同時に運動習慣を失った僕は「とはいえ運動習慣つけたいな~」とここ10年以上の歳月をかけあれこれと手をつけてきた。ランニング、ボルダリング、復活の水泳、ポールダンス、、他にも色々手を出してきたけどどれも続いて数ヶ月だった。やるからには生涯続くスポーツと出会いたい、でも3ヶ月坊主から脱却できない。そんなホッピングを続ける中で「これは一生涯添い遂げるスポーツだ」と心から思えたのが柔術だった。なぜ柔術が刺さったのか、それは二つ目の理由に起因する。

  2. 死の淵との邂逅

    マット上のチェスとも称される柔術は、身体の構造に基底をなす合理的なプロセスを経て関節を極めたり首を絞めたりという最終地点へと至る。めっちゃ頭使う。コンタクトスポーツでありつつ力尽くではないクールな在り方が心底魅力的だ。
    しかしそんな要素以上に個人的に刺さったポイントは「三途の川を垣間見れる」経験だった。本気で首を締められると、本能が「あと3秒で死ねるよ!」と教えてくれるのだ。その動物としての危機感たるや他では味わい難い陶酔で、僕の脳はアドレナリンどばー、次の瞬間ドーパミンどばーの境地に至った。
    30年生きる中で気付くことのなかった、生命として備える根源的機能。バンジージャンプをしても、スカイダイビングをしても、夜中の山奥でイノシシと1on1しても、呼び覚ますことのなかった生存アラート。多くの人からの賛同は得られないだろうが、この稀有な機会に酔ってしまった。

そんなわけで喧嘩すらしたことなかった僕は、過去全く想像しなかった
「格闘技に没頭するいま」に辿り着いた。いいでしょ。

デビュー戦は白帯準優勝でした


本題:誰かに借りた言葉について


コロナ禍の終焉を予兆させるかのように仕事では徐々に海外とコンタクトする機会が増えた。予定通りいけば年内に複数回海外出張が入り、地理的に活動の幅がぐんと広がりそうだ。
コーチングではコーチのコーチをやらせていただく機会が増えたり、コーチ仲間のダイちゃんとコミュニティ運営を始めたりしている。

ダイちゃんと僕は同じコーチでありつつ、様々な観点で対照的だ。

中卒のダイちゃんは東大卒の僕に比べて、よっぽどビジネスマナーを弁え、豊かな文才に富み、稼ぎは何倍もある。ダイちゃんはプロフットサル選手としてずーっとボールを蹴り続け、僕はアマチュアシンガーとしてずーっと歌い続けてきた。リスペクトの気持ちに敏感なダイちゃんは自分が会う人を慎重に選び、とりあえず人と話せれば良い僕は誰彼構わず一旦喜んで時間を作る。

↑ダイちゃんの生き様が遺憾無く記された、一読の価値満載の記事


表層的に対照的に見えてても根本では想いを同じにしているので、折々で互いの生き様に触れて面白みを感じる。そのコントラストのなかで「自分の内に響く感覚を大事にしよう」と思うことがあったので記したい。

「決断」の心象風景について

未来、どうしてもたどり着きたい現状の外のゴールを見定めてしまったら、その人は今この瞬間において何らか決断を迫られることになる。現状の生活のままでは到底たどり着けない世界こそが現状の外であり、すなわち現状の生活の何かを根本的に変える(=捨てる決断をする)必要があるからだ。

この決断の心象風景はときに「お顔ニコニコ足ガクガク」と形容される。本音のwant toに根付いたゴールに向かうため、必然この上ない幸せが訪れることになる(=お顔ニコニコ)。一方で現状の生活から何かを捨てるという選択も伴うため、とんでもない恐怖もセットで生じる(=足ガクガク)。この相反するようにも見える心理状態の共存こそ僕らコーチが「決断」という言葉で表したい心象風景となる。

ダイちゃんと話していて気づいたのは、人によって「お顔ニコニコ:足ガクガク」のバランスがどうやら異なりそうだということだ。僕自身が過去下してきた決断は、お顔ニコニコの色が強い。一方でダイちゃんが追求する決断は足ガクガクに力点を置いている。どっちが正しいとかどのバランスが理想とかは人それぞれであり、その人の人生を棚卸ししてはじめて見えてくる。

僕の過去を振り返ると、人生のクオンタムジャンプを目撃した場面ではいつもお顔ニコニコが先行していた。そして結果的に、当時大切にしていた何かを捨ててきた。恐怖を感じるべき境遇でドーパミンを放出するのが、僕という個体の生存戦略のようだ。バンジージャンプもスカイダイビングも、どこかの時点まで恐怖心が見え隠れするが、最終局面スイッチが入るとニコニコするばかりになり満面の笑みで宙に足を踏み入れるのが僕だ。

ダイちゃんは過去の挑戦や危機的状況で、足ガクガクさせながらもゴール達成に向けた決断を下していたのだろう。それが彼の決断の心象風景を形作っていると思われる。

大事なことは、無限に広がる「お顔ニコニコ:足ガクガク」比スペクトラムの中で、あれこれ手探りで自分の最適値を見出すことだ。僕がお顔ニコニコ先行派だと言えるのは、過去うまくいった場面の集合から導けることであり、同時にうまくいかなかったことの裏返しから結論づけている側面もある。つまり、足ガクガクな決断もやってみた上であんましっくりこんなーという失敗の経験も踏まえており、食わず嫌いではないのだ。
僕が意識的に足ガクガクさせようとすると、決断のwant to純度が下がってしまう。本来手段である決断が目的化してしまって好ましくない。そんな成功・失敗体験を経て、ようやく「決断」の心象風景が自分の中で形作られ、「お顔ニコニコ足ガクガク」が自分の言葉になるのだ。

自身の経験を基にした最適バランスに着地することは、当人のパフォーマンスを最大化するためにこの上なく重要だ。「尊敬する誰々さんが『捨てろ』と言ってるから、捨てるんだ!オリャーーー」という妄信的行為は、実験的試みとしてアリでも継続性は望み薄だ。人の言葉を借りているうちは、まだ自分のポテンシャルを引き出し切る境地には至れない。
(反対に、自分の最適値が生き様から見出しきれない人はとりあえず片っ端から他人の言葉を、生き様を、借りれば良いと思う。その試行錯誤の中から見出せるものこそ最適値だ。借りっぱなしは不健全だけど。)

周りを見渡せばそれ誰かに借りた言葉じゃない?という事例が散見できる。

「変化の激しい時代に」「爆速で」「最高の」「成長」

油断すると僕自身が言葉の借り物競走をやってしまうので、自戒も込めて。

その言葉、誰かに借りたものじゃないですか?
自分の中で本当に響いてますか?
借りた言葉を使い続けて、シンドくないですか?
自分の可能性を自分で潰してませんか?

僕は、自分の言葉と出会い、自分らしい形で人生を謳歌し切る人が一人でも増えたらいいなーと思うし、
その未来を形にするために今日もいそいそとコーチとして生命時間を費やします。

「誰彼構わず一旦喜んで時間を作る」ので、
コーチングやコミュニティにご興味ある方、以下のLINEからお気軽にお問い合わせください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?