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【西武ライオンズ 今日の見どころ】カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#14 小野和幸編

3月16日(土)に開催される、西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」まで、約1か月半となりました。

ここでは、出場が予定されているライオンズOBたちの、一味違った現役時代のエピソードや、玄人好みする記録などを紹介していきます。

小野 和幸(おの・かずゆき) 

投手 右投げ・右打ち 1962年8月19日生まれ
ライオンズ在籍:1981~87年
通算成績:151試合 43勝39敗 防御率4.19
背番号:13(81年)、17(82~82年途中)、13(82年途中~87年)

甲子園出場はなかったものの、186㎝の長身から投げ下ろす速球で、秋田・金足農業高校時代からプロ注目の存在だった。80年ドラフト外でライオンズに入団。秋山幸二、安部理、西本和人らと同期で同学年になる。

高卒1年目から、現在もイースタンリーグ最多記録となるシーズン15勝をあげる大活躍。ちょうど同じ年にMLBロサンゼルス・ドジャースで、旋風を巻き起こしていた若手左腕フェルナンド・バレンズエラになぞらえて「和製バレンズエラ」の呼び名が付けられた。

まだクライマックス・シリーズのなかった時代。優勝チームが決まったあとは、勝敗への興味が薄れた「消化試合」となり、来季に向けた若手選手の“お試し起用”が、頻繁に行われていた。

この年ライオンズは4位に終わり、シーズン最終130試合目となる10月4日のロッテオリオンズ戦で、小野にチャンスが与えられる。1軍初登板初先発となった小野は、5回を4安打3失点と合格点のピッチング。石毛宏典の2ランをはじめ計4本塁打の援護もあって、ライオンズの高卒ルーキーでは初となる、プロ初登板初勝利となった。

23年シーズン終了時点で、プロ初登板初勝利したライオンズの高卒ルーキーは、この小野和幸と松坂大輔のふたりしかいない。

ライオンズ  プロ初登板初勝利した新人投手 ★太字は高卒新人

83年にもイースタンで最多勝、84年にはやはりイースタンで最優秀防御率に輝き、さらなる飛躍が期待されたが、1軍になると制球が甘くなるのを怖れてか。カウントが2ストライク3ボールばかりになる「フルハウス投球」で、なかなか定着できなかった。

プロ5年目の85年、阪神タイガースとの日本シリーズ第5戦では、ライオンズファンも驚きの先発に抜擢される。松沼兄弟、工藤公康をベンチから外し、6戦以降に温存しようとした廣岡達郎監督による奇策だったが、うまく運ばず。甲子園の大観衆のなか、いきなり4番の掛布雅之に3ランを浴びるなどして4失点。1回持たずにK・Oされてしまった。

87年に初めてシーズン規定投球回に到達するが、4勝11敗と大きく負けが先行する。ただ、そのなかにあって、あげた4勝すべてが完投勝利。うち完封が2度、無四球試合が2度と、ポテンシャルの高さをのぞかせる。

すると、中日ドラゴンズの平野謙との交換トレードが成立。星野仙一監督に「勝ち負け(4勝11敗)が、逆の11勝4敗になって当然のピッチャー」だと、88年シーズンの開幕2戦目の先発に起用されると、いきなり1対0での完封勝利をあげる。これを機に一気に才能が開花して18勝をマーク。最多勝と最高勝率のタイトルを獲得して、リーグ優勝の立役者となる。

迎えたライオンズとの日本シリーズでは、第1戦に先発。だが2回表、清原和博にナゴヤ球場のレフトスタンドの場外へ、そばを通る新幹線の高架橋に激突する特大のホームランを打たれてしまう。

シリーズの行方を決めたとまで言われる一発に、歯車が狂ってしまったのか。その後は、90年に5勝したのが最多。15年間のプロ生活であげた通算43勝のうち、88年の1年間に1/3以上をあげた計算になる。

93年にドラゴンズを自由契約。ライオンズ時代の投手コーチだった八木沢荘六監督にみずから売り込む形で、千葉ロッテマリーンズにテスト入団する。

94年4月26日のライオンズ戦で先発のチャンスをつかむと、7回まで垣内哲也のソロ本塁打の1点に抑える好投で、自身4年ぶりの勝利をあげる。88年の日本シリーズでは勝てなかった古巣相手に、一矢を報いてみせた。

95年に引退、そのままマリーンズのコーチを8年間担当した。 

小野和幸  年度別成績

・主なタイトル
 最多勝利(88年)
 最高勝率(88年)
 ベストナイン(88年)
 オールスター出場 2回(86、88年)

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