カウントダウン「LEGEND GAME2024」#26 鹿取義隆編
「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」(3月16日/ベルーナドーム)に出場するOBのプロフィールを紹介していきます。
鹿取 義隆(かとり・よしたか)
投手 右投げ・右打ち 1957年3月10日生まれ
ライオンズ在籍:1990~97年
通算成績:755試合 91勝46敗 131セーブ 防御率2.76
背番号:26(90~97年)
85年から続いていたパ・リーグ連覇が「4」でストップ。連覇中は先発投手たちの完投能力が高かったこともあり、シーズンごとに渡辺久信、郭泰源、山根和夫といったピッチャーが抑え役を務めていたが、優勝を逃した89年のライオンズのセーブ数は、チーム全体でわずか11。12球団最少だった。
覇権奪回にはストッパーが補強ポイントだと、獲得候補にあがったのが、ジャイアンツの鹿取義隆だった。
78年オフ、読売ジャイアンツは「江川事件」によりドラフト会議をボイコット。そのためドラフト外で大量10選手を獲得するのだが、そのなかのひとりに鹿取がいた。
上体を起こしたままのサイドハンドから投げる、鋭くナチュラルに動くボールを武器に、入団1年目からリリーフで38試合に登板。明治大仕込みのタフネスさが重宝され、とりわけ王貞治監督が就任した84年以降は、リードしている・されているに関係なく、数多くの試合で起用された。
毎試合のように鹿取、角三男、サンチェが投入される継投策は「ワン(王)パターン」と揶揄されたほどだった。
87年に自己最多となるシーズン63試合登板したのを境に、成績が下降していくと、王のあとの監督だった藤田元司はトレードを容認。多くの球団が獲得に手をあげたなか、西岡良洋を交換要員としたライオンズとのトレードが成立する。
「巨人が見切りをつけた選手」「もうピークは過ぎた」との見方のあったなか、ライオンズ移籍後の初登板から10試合連続セーブをマークする。この開幕からの登板10試合連続セーブは、現在もパ・リーグ記録になっている。
勝ち試合の最後に出番が限定されたことで「役割が明確になって、やりやすかった」と完全復活した鹿取は、辻󠄀発彦、秋山幸二、平野謙といった鉄壁の守りも味方に3勝24セーブをあげて、最優秀救援投手のタイトルを獲得する。
古巣ジャイアンツとの対戦となった、この年の日本シリーズ第2戦。9対5でライオンズがリードした9回裏に登板した鹿取は、さすがに緊張があったのか。1死一、二塁のピンチを招く。打席には3番クロマティ。
巨人ファンの反撃ムードが盛り上がるなか、二塁ランナーの上田和明を、振り向きざまの牽制でアウトに。事前に二塁方向に視線を送ることなく決めたサインプレー。たちまち東京ドームが意気消沈するなか、最後は原辰徳を三振に抑えて、試合を締め括った。
このプレーについて、鹿取は引退後に「西武の野球をやっているんだと実感した」と振り返っている。
92年には救援だけで10勝をマーク。プロ14年目での初の二桁勝利は、NPB史上最も遅い記録となっている。鹿取、潮崎哲也、杉山賢人のリリーフ3人で、毛利元就の三本の矢の故事に由来するJリーグのチーム名から「サンフレッチェ」と命名されこともあった。
肩のできあがるのが早いと言われ、94年6月8日の日本ハムファイターズ戦では、先発の村田勝喜がわずか4球、先頭から打者2人に連打されたところで、腰痛を訴え降板。ベンチ裏のマッサージ台にいた鹿取が、急遽ブルペンに走り、20球ほど投げただけで緊急登板。
さすがに1人目の打者、田中幸雄にはライト前ヒットされたものの、後続を抑えると、次の回、また次の回と無失点ピッチング。気がつけば、そのまま9回裏までひとりで投げ切り、許したヒットは最初の1本だけ。“ほぼ1安打完封”で、勝利投手になったのだ。ちなみに、この翌日の試合でもベンチ入りしたというのだから、おそれ入る。
鹿取の移籍1年目からライオンズはパ・リーグ5連覇。この事実が、その貢献度の高さを物語っている。
97年10月5日、西武ライオンズ球場での福岡ダイエーホークス戦は、郭泰源と鹿取義隆ふたりそろっての引退試合となっており、1回表、先発の郭泰源が打者ひとりをうち獲ったあとの2番手で登板。ホークスベンチで王監督が見守るなか、村松有人に右中間突破の三塁打を浴びて、19年間の現役生活最後のマウンドを降りていった。
翌年からジャイアンツの投手コーチに就任、のちにフロント入りしてGM兼編成本部長を担当したこともあった。また第1回WBC日本代表の投手コーチ、15歳以下日本代表監督など、侍ジャパンの要職にも就いている。
主なタイトルなど
最優秀救援投手賞 (90年)
オールスター出場 3回(87、91、93年)