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カウントダウン「LEGEND GAME2024」#29 石井丈裕編

「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」まで、1ヶ月を切りました。ここでは出場が予定されているライオンズOBのプロフィールを紹介していきます。

石井 丈裕(いしい・たけひろ) 

投手 右投げ・右打ち 1964年10月25日生まれ
ライオンズ在籍:1989~97年(選手)、2004~09、11、14年(コーチ) 
通算成績:253試合 68勝52敗 10セーブ 防御率3.31
背番号:11(89~97年)、77(04~09年)、88(11年)、77(14年)

早稲田実業高では荒木大輔、法政大では猪俣隆と、ドラフト1位でプロ入りするエースが同じチームにそれぞれいたため、学生時代は2番手投手だった。ただ、その時代に黙々と続けたトレーニングが礎となり、プリンスホテル入社後に、眠れる才能が開花。アマチュア球界を代表する投手のひとりになる。

野茂英雄、潮崎哲也、古田敦也、野村謙二郎らの、豪華メンバーと共に招集された88年のソウル五輪では、予選リーグ初戦でプエルトリコ相手に1失点完投勝利、続く台湾戦では5イニングのロングリリーフ。準決勝の韓国戦、決勝のアメリカ戦はいずれも先発と、エースとして大車輪の活躍で、銀メダルを獲得。この年のドラフト2位でライオンズ入りをする。

普段は「スイマセン」が口癖の腰の低い性格が、マウンドにあがると豹変。カーっと熱くなり過ぎて、自分を見失うタイプだと、バッテリーを組んだ古田や伊東勤が証言している。

プロ1年目は33試合に投げて4勝したが、ほとんどがリリーフ起用。10月12日近鉄バファローズ戦では、渡辺久信がラルフ・ブライアントに被弾したあとの2イニングを、無失点に抑えている。

翌年、投手コーチに就任した320勝投手の小山正明直伝のパームボールをマスター。両腕を真っすぐ空へ伸ばしたワインドアップから、150㎞/h近い速球とスライダー、そしてパームボールを駆使して、5月中旬から先発ローテーション入りをする。

最大の特長は、ストライクゾーンの四隅を突く正確無比なコントロール。与四球率(9イニング換算の与四球数)は90年から4年連続で1点台、無四球試合は91年から3年連続でリーグ最多だ。

現役時代、やはり抜群のコントロールで知られた豊田清(現・投手コーチ)は「左足をあげて右足1本になったとき、石井さんの真っすぐにスーッと立つ投球フォームを参考にして、真似させてもらった」と話している。

圧巻だったのは92年。8月から8戦8勝するなど、自身最多の15勝をして、防御率は1.94。チームの独走優勝に貢献して、シーズンMVPと沢村賞を受賞する。

さらに、球史に残る名勝負となったヤクルトスワローズとの日本シリーズでは、第3戦で149球を投げて1失点完投勝利。岡林洋一と投げ合った第7戦は、終盤2度の満塁のピンチを抑えて、延長10回155球の1失点完投勝利。7回表にみずから同点タイムリーを放つ活躍で、文句なしのシリーズMVPに輝いた。

翌93年も26試合に先発して12勝。リーグ最多の4完封、6試合連続を含めた14完投と、工藤公康、渡辺久信、郭泰源と並ぶ、ローテーションの柱となった。 

だが、パームボールとの引き換えに生じた右ヒジの痛み、腰痛などに悩まされ、右膝の軟骨除去手術をした96年には、プロ8年目で初めて0勝でシーズンを終えることになる。

西口文也、石井貴らの台頭もあり、97年のシーズン終了後、石井と奈良原浩を交換要員とした、日本ハムファイターズ西崎幸広との、2対1のトレードが成立する。

ファイターズで2年間プレーしたあと、現役続行にこだわり台湾球界へ。移籍先の「台北太陽」では、1年目に16勝5敗で最多勝、最優秀防御率1.74でチーム優勝の原動力となり、リーグMVPを獲得した。ひと足早く台湾でプレーしていた、渡辺久信との投げ合いも実現している。

02年に「台北太陽」の専任監督、翌年は韓国プロ野球「ロッテジャイアンツ」の投手コーチを務めて、04年に2軍投手コーチでライオンズに復帰する。このとき同じタイミングで、1軍投手コーチに荒木大輔が就任。高校時代の同級生が、違った形でコンビを組むことになった。

現在はライオンズベースボールアカデミーで、子どもたちの指導にあたっている。

石井丈裕 年度別成績

主なタイトルなど
 沢村栄治賞(92年)
 最優秀選手(92年)
 正力松太郎賞(92年)
 最高勝率(92年)
 ベストナイン(92年)
 日本シリーズ最高殊勲選手賞(92年)
 オールスター出場2回(90、92年)


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