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反転する世界に落ちているもの

日常が飽和していってしまう。

全て何かに飲み込まれて何か大きな一つの混沌になる。

そのために私はキータイプをして散漫な文章を書き発信している。モールス信号を送るようにネットの世界に発信をしているんだ。

ここはもう磁気が意識を持って支配されている。こんなことを書いている自分でさえ意識が奪われて混沌の一部になっていってしまう。

ここ というのは、自分の座っている何の変哲もない部屋の、散らかった部屋の机とパソコンの前だ。モニタの横には雑多に書類がかさばり、暖色のLED卓上ライトが月のように丸く穏やかに発光している。

このモニタの向こうに数え切れない人がいて数え切れない文献がある。私の意識はその集合体につながり、少しずつ栄養分を吸い取られているかのような感覚に襲われている。その得体の知れない虚無の空間と仮定する場所の間の距離がまるで見えない動きをする筋肉をつなぐ靭帯の働きをして、よく伸縮し情報共有を促している気がする。

回線の中は磁気の海峡だ。そこへまず火の扉をくぐっていかなければならない。そしたらあとは不可解な言語を集めた筏に乗って航海をしていくことしかないのだ。

私はここから出てみたかった。そこに自由があると思ったからだ。探している。ずっと探しているものが落ちているはずだ。そう、宝物を探すように航海に行くのだ。ピーターパンの物語を読んだことはあるだろうか。彼はとても孤独だ。たった一人で、彼にリンクするにはケンジントン公園にまで行かなければならないだろうけれど、私はここから彼が覗けるのではないかと切に思っている。この座りっぱなしの椅子の上で、突然窓が開くように世界が開ける。私にもう影は必要ではない。とっくに切り離しているのだ。昨日の、一昨日のその前の一年も10年も前のそれぞれに影が欠落していってその集合体が闇よりも深い黒の不定形な境界を作り出す。渦潮のようにそれは止まりながら辺りを巻き込んでいく。

「これはなんだと思う?」背後から声がした。

これって、君のことかなと私は冷静に対応した。

彼女は女性であり若かった。いつかの人のような声であった

「そう、これ。これはあなたの思念でしょうに、忘れてしまったの」

彼女の姿は見えはしない。しかし背後にうっすらとグレーにうごめく気体のような『影』の気配がする。

ああ、そうかと、私は思った。これが混沌の入り口だ。前方ではない。まるで真後ろのその張り付いた電気信号のかたまりの、薄暗いそれだ。

それを確認するのは容易であった。キータイプをやめて何か人間生活らしいお茶を入れるだの堕落とともに書き続けている未構想の随筆を散らかすのをやめれば良い。ただそれだけだ。しかしそれは難儀なのであった。

まず、恐ろしくはないにしろこの次元と時間に対して依存する世界から一寸先に踏み込む決意が必要だった。私は冷静に故郷の岩壁の山の深いV字型の谷で霞んだ小雨の中山桜を遠く見て幽玄とはこういうことかと感じたことを思い出した。そこにきっと思念を残してきてしまったのだと思った。

幽玄ってなんだろう幽霊なら知っている。私のようなものだ。存在感があまりない冷蔵庫の冷気に近いが確かに体という入れ物には充満している。冷たい意志の塊だ。

その山桜の風景は心の奥のあるゾーンに泉のように湧いてくるものなのだ。山桜は若い肌の頬や指先の赤みと青みを何層にも積み重ねて私の目に流れ込んできた。辺りの空気は明るい灰色になり冷たい空気を対流させていた。V字の大きな谷は視界に入りきらずに、遠近の輪郭を捉えるようになぞると、自分の肌についた花びらと足元に積もった青みを帯びた白い花びらの濡れて透明になったものがまとわりつくのを思い出した。山の息のような風はその視界のせいで山桜の樹の皮の匂いを伝えてくる。樹皮の香りこそ花の香りだと思う。私はそこに何を落としてきたのかまるで忘れてしまった。しかしそれを取りに行かなければならないのだと直感した。

さくらの影が背後にくぐもって足元に広がった。ここに 広がった。

私は止まらずにタイピングを続ける。もはやこの幻想異次元のある階層から、すべての層を行き交い無事に体を移動させる技を習得する間がない。ただここで実況中継するように真夜中の自分自身を傍観するしかないと思いここに至る。

さくらの樹の陰は軽く冷たい風を背後から送ってきた。季節は春の初めであった。空は半径2メートルに広がった灰色の影の中に鏡のように写り込んでいる何かの階段。石階段だ。それを登って行けというなら、もう暫くもう一つの影を待つ必要がある。なぜか一緒に連れて行かなければならない気がしたからだ。

いくつか、いや、いくつもの影が背後にいるのだ。姿を見せる時、そのタイミングは不意にやってくる。モニタの光を受けて影の層ができる。恐怖心が飽和した時に、一定の間その影が私を支配する。逃避ではない。完全に入れ替わっていくのだ。どの影が一番濃いか、もはや重なりすぎていてわからないけれど、私は影を操縦するように書き留めていくしかないのだった。そろそろ、また女性の影が出てくる番だ。彼女は一番ミステリアスで精神病質であり空想の夢を見ている。私の右の視界に赤い絵の具の飛沫が飛んだ。声もなくその抽象的な世界よりも生々しい抽象に引き込まれていくんだ。そう予測した。彼女の歴史はこれから聞くことにする。

続く

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