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耳鳴り

「左耳から高い音の耳鳴りが聞こえると天使がいるんだって。」

耳鳴りがするたびに根拠のないジンクスを思い出す。
確かに確かに。というように、実際見たことはない。だから一時期ずっと天使の絵を追っていた。

実際には雪の降る前は、よく耳鳴りがするもので、私はその意識が少し離脱するような感覚が嫌いではない。

旧約聖書に出てくる天使はとてもこの世のものではない霊的な姿や存在として描かれている。私クリスチャンではないのだけれど勉強のため読んだ時その天使の描写は驚愕だった。それ以来自分の中の見えない何者かを表す「霊」という概念を変えてくれたものでもあるかもしれない。世界の「霊」は、言葉も信仰も違えば地域によっても、神さまと呼ばれたり姿を変えて存在する。それぞれ何かしら 見えない形 があるのだ。もちろん信仰により神さまは違ったり姿を変えたり姿がなかったりする。その使いの形も違うけれど、それぞれが願うしあわせへと繋がっているはずなのである。その使いとして精霊的存在があり、生活の仕方や価値観が変わってくるのだろうし、科学的に見れば何か素粒子のようなものかもしれないし周波数の変化が生む何か未知のものかもしれない。けれど人は目に見えないものをずっと見ているのだ。

神様と言っても日本にはたくさんの自然の神様がいるし、仏教で神はいないけれど。日本の生活には染み込んだ時代文明や祖先の歴史の跡がある。しかし仏教の中でも天使らしい人物像というか、姿が描かれている絵もあったと思うのだ。確か、調べたことがあったのだがうろ覚えなので明確には書けないけれど。不思議だ。不思議なものは空に浮いているのだ。ただし、どこかには地下の信仰も存在するかもしれない。それは私の勉強不足であるが。


話をもどすと、天使といえばキューピッドのような子供の容姿がまず浮かんでしまう。しかしその理由を辿ればまた訳があり。疫病の世の中、人々の癒しのために変化した容姿である。人の形をしているのかしていないのかさえわからない天使、精霊とは、翼が生えていたり浮遊していたりするのだ。なので精霊や天使と聞くと、つい飛んでいる、ひとまず私は浮遊しているものを思い浮かべる。

南米や、いろいろな国の天使らしいものを調べたことがあり。それぞれ羽のようなものが付いていた。神聖なものとしてなぜ背中から羽らしきものが生えているのか、これについて私は一度も不思議に思ったことがない。なぜだろう。いつその概念に染まっていたのか。または産まれる前からなのか。そうだ天狗だって翼がある。

私は不思議に思って。天使が見たいと本気で思っていた時に天使の絵を描いてみた。見ようとした。それが上のなんだかよくわからない魚のようなお面のような羽かヒレのようなものが生えているぎりぎり人らしい容姿のものを描き出してみた。私の想像する天使像だ。ややキリスト教美術から連想していそうである。見えないものだから、それとありふれたモチーフが潜在意識に入っているのだろうから仕方ないなと思った。そしてなぜか森にいる。その全容が未だに捉えられないのに無理に描く必要もないのだけれど、それだけ癒しを求めていたのかもしれない。ただ、この地球上で羽の生えているものはたくさんいる。

そこで考えてみるとゴキブリだって羽が(翅だけど)ついてるんだけど、、と、疑問が湧いてくる。ハナカマキリなんてランにくっついて擬態している姿はまるで天使のようではないか。コロコロの丸く太ったスズメだって立派に飛翔する。丸いスズメはなんて可愛いんだろう。カモだって遠く飛んでわたってくる。カルガモの馴染み深いシルエットなんてまさに私にとっては天使そのものではないかと思ってしまうけれどやはりイメージされるものは「白」 なんだと思う。だからと言って蝶や娥は と昆虫、水生昆虫 鳥類を高速で思い出せる限り頭で再生してみるけれど、それらしいものはやはり神秘的な蝶などだろう。もう本当にわからなくなってきた。何が言いたかったのだろう。

そうだクリスマス、それは古代では太陽神の復活の日冬至にあたる。イエスが生まれた日。母マリアに妊娠を告げたのはガブリエルさんという位の高い天使である。それも重要であるし、フランダースの犬もネロも最後はちっちゃい天使が連れて行ってくれた。同じだ。飛んでいるし白いものとも限らないはずだけれど。まず美術の教科書に載っているものだから仕方ないしフラ・アンジェリコの受胎告知はとても好きな絵だ。その神秘的なすっきりとした画面が美術図鑑に小さく載っていて、その影響がとても強い。そのとても小さい紹介画像が。その他にも中世のものなど特に人々が見たいものが一生懸命描かれているように見える。立体的になってきたのは本当に進化だったと思う。アンジェリコは、そんな人が人らしいフォルムで描かれてきたルネサンス期にもかかわらず半平面的に描いた。それがすごいなと思った。それは後知恵なのだけれど、修道士の絵はその生活様式において描く儀式が違ったのかもしれない。なんだか話が唐突にとんでいるきがする。

避難するわけでも皮肉的に思われてしまうかもしれないけれど、私は本当に天使が見たいしクリスマスは全国的にそこいら近辺の暦はは自然で何かが変わる目安であることは何となく空気や自然の変化、日差しでわかるきがする。重要なのである。天使の絵はたくさんネット上でも本でも美術館でも見てきたけれど私の中では、アンドレイ・リュブリョフ氏が描いたものが有名な三位一体の図。イコン。16世紀当時のロシアの時代背景もあり、緊迫した中にも描きあげた、なにか人の意思を通り越したような菩薩像に通ずるものを感じる。もちろん本物を見たことはない。ロシアの映画監督のアンドレイ・タルコフスキーの映画にリュブリョフの生涯を描いた映画の中にそのイコンをじっくりと見た。実際その空間に行ってみないことには何も言える立場ではないとはいえ、何か、本当にそれが見えてしまったのだろうかと思う意思を感じる。

思ったことを今回はそのまま書いてしまって、いろいろな方にご気分を害する内容かもしれないし少し興味を持ったり、または、そこ違うよ、とご指摘受けるようなあまちゃんな文章で失礼でありますが許してください。ただ書きたかった。喋りたかったんだと思います。

そう、話を戻すと私は天使を追い求めてきたのだけれど、、結局それは自分の中にあるものだということにしかならない。神ではなくて、天使。信仰により一体であるかもしれないが、私は余白があるような使いのものが見たかった。そこまで絶対的ではないまだコミュニケーションが取れる可能性のある者たち、霊。幽霊ではなくて、霊。私はそんなことを思いながら自分が飛んでみたいのではないかと思い始めた。そう、たぶん人は飛んでみたいのだと思う。以前ラジオでふかわりょうさんが言っていた気がするけれどみょうに納得した覚えがある。

感極まった時、人は飛びたいんじゃあないだろうか。どうしても重力に従うしかない。重力は絶対的だ。重力から離れてみることは人類にとって憧れなのではないだろうか。

私の描く天使像は地上にいるか水の中に入っている。地について足もある。翼は貧弱であったりそんなような形をしているだけで重力に待ってと言われている者たちだ。天使の絵は好きだし、クレーの描く天使にとても影響を受けた。いったい何なんだろう。なんのために描いてきたんだろう。執念のように。左耳に高い耳鳴りを感じた時、思い描きたい像を求めていたのかもしれない。

個人的にはクレーの描く天使ような、ひょうきんな愛くるしくどこか孤独なものであって欲しいと思う。あんまりリアルでも怖いので。。ということで、現実的には左耳から耳鳴りがする時、どこか近くで雪が降るのだ。そう、つい最近もしていたと思ったら大雪が各地で降っている。 白く崇高で残酷でもあり感情もない、雪。それでいて車輪のような結晶は集合して凍てつく時には剣のようになりもする針葉樹に積もれば何か大きな人のような形になるのではないだろうか。何かに決定的に審判を加えたりシンと澄んだ空気になったりした気分になってくる。雪が降ると人々はつい天を仰ぐ。空中を漂って「飛んで」くるものをただただ見ることしかできない。

雪の日は穏やかであって欲しい。そう願ってやまない。





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