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飽きることとホモサピエンスすること

人は人科らしい。学術上で言葉で表すと人科人亜科の人族など、ネット上の文献で調べられるが、特に意識したことはない。私は自覚する中、自分や他者を 人 であると思っている。
ホモ・サピエンスと言うともう少し、知的な とか、新人類 進化したなどと読み取れる文献も出てくる。
ついでに言うと私はそう言った分野に全く詳しいわけでも勉強したわけでもないのでこんなタイトルですみません、よくわかっていなくて。といった感じだけれど、なんとなく書きたかったことに、なんとなくしっくり来る言葉を感覚で適当にはめてしまっている。
本当に書きたいこと、ずっと考えていることは生と死のことで、それを何とか大体の人々に共通するイメージを少しだけ避けて書きたいと思っていた。

最近スズメガと言う蛾の幼虫を卵から育てて、羽化までそれは続き、元いたところに放ちにいった。そいつは変態を繰り返し生きていた。人とは違うものだった。当たり前かもしれないけれどとても不思議に思えた。生命の感触があった。ドキドキした。蝶や小さい蛾を触る時はあっても、卵から育てて羽化させたのなんてなかったから。ついでにじっくり3センチくらいの蛾の成虫を手に乗せて見ることなんて初めてだった。

ブルブルと小さく震えていて温かさがあった。毛ももふもふしていて可愛い、とても昆虫らしくない容姿で愛らしい人気者のようだけれど、中には怖いと思う方もいるだろう。人の感覚は同調していないと思っている。

ただ、自分の意識がとても変わったのは、こんな世間の状況に自然を意識し始めたことで、それによって小さな虫の観察をできたことにより感覚は人間だけのものではないんだという自分の中でたくさん言葉が育った。

虫は、それぞれ違う。人も違う。昆虫やいろいろな生命の種?の感覚は人には結局わからないとも思う。それを研究している器官や勉強している人はすごいと思うけれど私はそこまで頭が回らずに申し訳ない。たくさん種類がいてこの世界で一番多いのは虫なんじゃないかと思う。菌類とか、そういうの勉強したことがないけれど、自粛が続いて、日々昆虫動画を見るようになってから意識が小さい目線に変わってきた。色んな虫の成長を記録した動画をよく見ている。

そのスズメガは小さい頃に手に乗せた弱った鳥類のスズメを思い出した。その時の感覚と、熱を失ってしまったスズメの生命のからっぽの感じをよく考えたいとずっと思っていたけれど、死生観 とかちょっと硬い言葉になって自分の中の今の雰囲気とは違うのでもう少しこの表現の仕方をこれから探求していきたいなと思っている。

強い言葉は、主語がないとすべて自分のせいだと思ってしまう私はいささか神経質だとも思うし、人だから仕方ない、自由意志がそうさせるんだなんて学もないのに賢そうに振る舞うのもやめたいと思うっているけど憧れもある。

特に生死に関する言葉というのは、もっとファンタジーに包まれていて人間はそのために弱くて軟弱な想像力というものを持ち合わせて強く振舞っているような気さえしてしまう。あの成虫の蛾を手に乗せて、微細に動く筋肉のその暖かさとホバーリングして飛ぶために誰にも教わらないでそれができることの強さよ、なんと尊いんだろうと思った。宇宙のレシピはすごいなと思った。蛹の中で何かドクドク動く感じも見れた。すごいすごい。

私は子供はいない。だけど、私が人として生きているうちにたくさんの生命と出会える機会がたくさんあるというのはすごいことだなと思う。それがどんな言葉にキノコのように育っていくのか自分の中で少し楽しみだ。

死 とダイレクトに見たり聞いたりすると どきりとしてしまう。そしてその単語を見た責任を感じてしまう。その人の問題だったりニュースだったりするんだけれど、もっと、違う表現だったら世界は違うのかなとか少し思う。それは単純にホモサピエンスすることかもしれない。と言葉が自分の中でまとまった。もう、死と暗闇が直結する想像は飽きてきてしまった。

もっともっと考えたら抜け切れるのかもしれないけれど、もう生きてる限りずっと今まで考えてきたからもう簡単に出てくる死という言葉や重たい本当の悲しみのものとの差を埋めるのも飽きてきた。そういう表現は自分もたくさんしてきたのでわかるんだけれど。どうも、表現を考えていると目に入ってきたり、アンテナが張ってしまうもので。これからはもっとファンタジーで表現したと新たに挑戦を自ら挑んでしまう。ファンタジーというのも怖いものだけれど、なんと言うと一番いいかはわからないが、表現する一人の人間として、ユーモアを持っていけたらな。と思う。そう、小さな蛾は堂々と私の手で幼虫時代にウンチをしたり、這い上ったり迷子になったりそれでも蛹になって飛んで行ってそのまま熱が消えるだろう。熱がなくなったからっぽのものを見ると有機物の不思議な香りを感じるものだ。それが少し、悲しいことで、主語を持たない死生観表現の言葉に、今生きているホモサピエンスする人々は、共にホモサピエンスしていきたいと自己満足で考えが少しまとまった。興味を持つことはとても尊いし、ただこんな文章修行をしていく中でそれに一番敏感になってしまうのはやはり、それだけの魅力があるのだろう。もっと魅力的というか、生命で体験できることの驚きをできる限り走りたいと思う。この辺りで昼夜逆転の生活を少し修正して眠りに就きたいと思う。たくさん悩んだ分、それが反転するととても、まるで羽化した気分になれたらなあと思うんだ。


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