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かたはね Ⅲ

追うもの


しっとりとした朝だった。

いつもと変わらず太陽が昇っている。奇跡的なことだというのにあまり感動はしない。枕元に自分の手の影を映して生きていることを確認する。何かが崩壊してしまった後のような空虚さがまた滲み湧いてくる。そして必ず公園に埋めた蝶のことを思い出すのだ。

あれは確かに蝶だったはずだ。育てて羽化不全として死んだ蝶だ。しかし本当に蝶だったのだろうかと時たま思う。まごう事なき、本物の蝶であったが、そこにこの出来事の輪郭を探している自分を見ている気がした。

あの日、あの後からの記憶が1日の一部にフォーカスした日記のようにパツパツと短く移行しているだけに思えて仕方ない。確かに 確かにそうだったはずだ。自ら命を纏えなかったのか私の不注意で命を持たなかったのか。そのどちらかを無性に知りたくなったりもした。しかし、埋めてしまった今となってはもう何も確認しようがないのだ。

このことをライブレコーディングとして何日も何日も同じ行動と一部思ったことを記録し続け、しまいにはなぞかけのように自分への確認を強迫性さへ帯びていくことを私は続けていくしかないのだろうか。



–  ここにある人物の手記があった。それにはこう書いてある。    「これは私の行動記録と私の影と日時計」と題された日記帳は分厚くよじれながら 毎日1ページほぼ同じことしか書かれていないようだった。たまに遠出しているがその日1日の事というより、そこに感じる好みの景色や物のことを書いており題名が記した雰囲気とは違い自信のなさなども混じり入り、何とももやがかかったような日記だった。

しかしこの手記を読んでいる私もまた手記を書いているのでまるで鏡のように同じことを繰り返しあっているような気持ちになってくる。行動もほぼ似ており行く店という店も同じであった。手記中に「強迫性」と書かれていることからその視点で彼か彼女かわからない人物をある程度目線を位置づけ、私は追うことにした。そして私もまた、読むたびに何者かによって位置付けられているのではないかと強迫的に思った。              

て1


なぜ、この人物がこんなにも「1日」にとらわれ、その末に必ず「蝶を埋めたのだろうか」と書いてあることがむず痒く足元から伝わるしびれに似た焦燥感を覚える。そしてこの手記は完結も、解決もしておらず、日記のように日に日に増えていくことも、また、自分も手記を書き足していることに気付き一瞬まばたきでもするかのように手記中の人物と入れ替わってしまうように思えた。

ライブレコーディングなる手記は続いてゆく。そしてこのことは実は自分が書いているのだと言う仮説を受け入れられないまま、他人の虚像が襲ってくる。手記は続いている。しかも自分が書いて足しているかもしれない「今」以前のことはすなわち自分のことなのであって自分の行動記録なのである。そんなことがあるということもまた不可解である。

そしてこのことが心地よくもあり新しい自分を獲得してゆく日々も悪くなく、かといって過去でもない人物の「わたし」を注意深く、または散漫に観察してゆくことが重力から解放されたかのように思う瞬間に重力に急激に引っ張られて戻るような快感さえ得ていた。回らない、時間という概念の必要ない空気のグラデーションである日時計の中心にずっと立ちつづけているような気がした。

しかし、いや、待て、「わたし」は蝶を埋めただろうか。埋めた気もするがそれは本当に蝶なのだろうか。実は何も埋めてはいないのかもしれなかった。しかしこの胸のあたりに膨張してゆく影だけは、ひつひつとただ手記を上書きしているであろう心地よさと心地悪さとは関係なく無言に広がってまた新たな輪郭をなぞろうとしている自分がいることは確かだった。その輪郭がつかめない限りこの手記は続いてゆくのだろうか。

手記は唐突に蝶を埋めたというその日から始まり、時間が存在していない感覚があり1日も過ぎていないのかもしれなかった。全く不可解なことであり、それを書いている者が自分であることを確かめられない何かがあるのだ。

そもそも、果たして、本当に、この人物は蝶を埋めたのだろうか。蝶ではなく他の何か、、、といっても、それがわからないのでただただ輪郭を求め続けている。そしてそれはいつも夜に紛れて影を丁寧に埋めてゆくのだ。私自身の生きた影も夜に溶けていく。そしてつかの間の安堵が胸に残る。日時計は進まない。光を得ては暗闇に溶けて時間はその捻れから抜け出せないよう何か、のうん とした存在に任されている。エッシャーの終わらない階段の絵のように。

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