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体の中の音は何よりも近く。命がノックする音が聞こえる。

私は音を聞くことが好きである。そして海中を思う。あまり響かないのか、響く最大の波長を聞こうと頑張るかの、ただの実験的毎日に過ぎない。海中で消えてしまうような無意味な音は泡に似ていると思う。聞くことは、書くことに変換して増殖する。泡が分裂するように。聞くというのは、その季節や1日の時間の移り変わり、バイト先での音楽やら駅のたくさんの動的なものが含まれた場所の音の収集作業だと思う。  それらが 「言葉」にできたらなら楽しいだろうなと思う。そうしてぼんやり考えていると、果たして一番自分に密着した音ってなんだろう。すぐに剥がれてしまう玉ねぎの皮のような薄い呼吸の層か、無意識に脳内で発される看板や雑誌などを読み上げる自分の言葉だろうか。

ところで好きに代わって苦手な音もある。あくまでも個人的な感じ方なのだけど、人や車、犬までもの、背後からの足音が苦手だ。私は後ろに目がついているわけではないのし、別に何か害があるとか、危険だなとかそういうのではなくて、ただ本当にドキドキして硬直するほどに苦手な時があるのだ。ボーリングの玉が無造作に敷かれたレーンを転がってくるように感じ取ってしまう。人がどうこうではなくて特に足音が尋常でなくこわい。急いで歩いてしまわざるをえない人には申し訳ない。そしてその人は悪くはないのだ。これは近年、そして最近は特に感じる。年齢により体の機能の使用が少し変わってきたのか、自分はこうなる前には威圧感たっぷりに歩いていたはずだけれど。。それとも気付かぬうちに音マニアになってしまったのだろうか、それならいいのだけれど。話が逸れそうだけれどとかく音には敏感になってきた近年である。まあ、周囲の音を聞いていると自分の足音は必然的に小さくなってしまうものだ。猫足で、よく人にびっくりされる。それに人が緊迫する病院や施設諸々、空間には環境音楽という存在で個人の範囲を気にならなくするなどの音楽、いや周波数のマジック的な効果はすごいなと思うのである。マイナスに考えるだけでは無い。

 音、すなわち周波数というのも、人間の体の一部であると私は感じたい。生活に密接した家電や文房具なども体の何かの変わりと考えると、一番身近なところでパソコンだ。脳の拡張と言えるものがPC内部のコアになる部品であれば口はキーボードやマウスやカーソルや指であるし、ペンなども脳と指の延長だと思う。依存というか、自然に使う物たちは体のどの部分と密接なのかと物体についての始まりの役割を考えたくなる時がある。拡張先が表示するものが、その人の、あるいは自身のどんな、メッセージなのかとふと考えるのも面白い。

声楽についてはその可能性を楽しむということが多いに受け入れられそうだ。声は人そのものではあるけれど、主に心に近くて感情をダイレクトに伝えられる人を表すのにとても有効な器官だとも思う。楽器はどうだろう。心なのか、または手や足や息であるのだろう見方もできて、そう考えていくと楽器というのは心と体の両方を表す力がある。その前に脳と心って、、と考えてしまうが、これはまた別の機会にお話しとして書けたらなと思う。  楽器についてだけれど、その存在が魅力的であり歴史や文化を含んでいてぐるぐる迷路を楽しんでしまい話が尽きなそうだ。私の好きな楽器はというと、これがまだ特に見つかっていない。私は音楽は好きだけれど楽器は苦手なのだ。あまり仲良くできないのだ。。けれど歌うことは好きだ。合唱部であったこともあり、あの全体でのハーモニーの陶酔感と高揚感は合唱ならではと、歌うまえと後での一致団結の緊張と安堵の共有は涙を覚えている。音楽という手段があってよかったと思うのだ。言語以外のコミュニケーションでの役割と思うと、自分の気分、感情の一部であり、心が飛び出たように自由になれるのは、思考とはまた別の感覚だと思う。



さて、話は変わるが、最近数年で変化してきたなと思うことに気になるちょっとした不安が個人的にある。スポーツ用のウェア。靴の形状やパンツウェアの素材が快適さの改良の改良を感じる。もちろん使う素材のその時々の経済的な開発の関係もあるとは思うけれど、身に着けやすいのと、普段でも使いやすい。体温を保持するものや汗から肌を守るものたち。今回の自粛で、ランニングや運動が当たり前の日常に変化して、公園は老若男女が集い散歩やウォーキングを楽しむ。健康的だ。桃源郷のように見える。そしてすれ違う人の音楽や電話のためイヤホンをしたままの姿を見る。マスクもしている。顔周辺がとても渋滞だ。顔面が蜜である。その姿や自分の装備を考えても、これを身にまとって動きやすく楽しみやすくなっている様に微妙に動物として何かの感覚が鈍くなってしまう気が自分はしてしまう。     そして私は上記で言ったように背後も前も足音が苦手なのだけれど、なぜにこんなに気になるのかというとイヤホンやスマートフォンの存在は無視できない気がする。イヤホンをしていると、自分の経験上距離感が鈍くなってぶつかりやすくなってしまうのではないか、私だけか。周囲の音が聞こえる範囲が小さくなるので物陰や危険予測のレベルが下がるのだ。そのように全員がなっていればそれはそれで距離が保てるのかもしれないけれど、自分の場合はそのギャップに耐えられないのではないかという恐ろしい感覚があるのでこれは仕方ないのだ。ただイヤホンをしていると、危ないと思われる時は外すことをお勧めしたい。電動自動車とイヤホン着on自転車をしている方などを見ていると恐怖的にこちらも音がかき消されてしまう気がして、心配になってしまう。と、まああまり自分が器用に情報を処理できないということで、それなりに歳をとったからかもしれない。

話は戻り、音についての好みもあると思う。私は自然の音はとても心地いいし雑踏の音もなんだかんだ人間味を感じてとても生きている感じがするので好きだ。そこに人がいる。PCやスピーカーから聞こえて来る音楽は楽しめるし、360日、自宅で音楽が流れていない時はほぼ無い。生活音などの和らぎになり、周囲とも混ざって独特の層を作るのも好きだ。人が人の生活様式を変えるたび、人の雰囲気を認知する 拡張部分の音の存在がそう単純ではないことに感じる。作業やリラックスするために私は、ブライアンイーノとか、バッハの無伴奏チェロなどは落ち着くのでよく聴く。ただ自分が言うとカッコつけているように思われることだろうとは、、心構えている。暴走するように書く時にかちゃかちゃタイピングするには、それ相応合った音楽を要する。ロックだしバッハだ、ロックでバッハして書く。少しくだらないし分かりづらいのでこの趣味嗜好の流れは置いておこう。



聞くことも好きだが歌うことはもっと好きだ。これは感情の表現であると思う。歌というと、ビョークやロックでいうとトムヨークとか、好きな声と音、メロディーのトーンはあると思う。あまり好き嫌いはない。     けれどグレングールドのバッハは違った。一時期に流行った歴史もあり、時は廻り聴き継がれているのだなと感じる。色々な伝説やらビジュアルに押されてというのも無きにしもあらずだけれど、作品を、録音として聞いてこれは、ある時を選んで聞きたいのだ。アルプスの冷たい山から下ってきたミネラルをたくさんに含んだ水のようでキンキンに冷えて喉を潤してくれるような演奏の収録。とにかく心地よく最高に冷たい水晶をとかして飲んでいるような気持ち良さととんでもない寂しさがある。このグールドのバッハ ゴルドベルグ変奏曲を、繰り返しどのくらい聞いただろう。鼻歌の細部まで再生されるくらいだろうか。

グールドはとても寒がりで、晩年は北のほうへ行き制作録音をしていたという。彼に関してはとてもたくさん読み物があって、奇才ぶりは何となく断片的な特徴から想像はしてみることはできる。寒がりだったのだけれど、寒いところが大好きで、セーターを何枚も何枚も着て、父親からもらった子供用の椅子を共に伏せるように演奏するその姿から奏でられる音は一粒一粒、水が喉をつたうかのように透明すぎて、涙より涙なのではないかとさえ思ってしまう。きっとグールド自体が、音と同一しているのだろうと思う。

のどごし、を感じる。そんな体験をしてからか、音に関して気づいたのは、それをどう感じるか、どんな粘度で冷たさを感じるか なんて考えてしまうkれど、それが楽しい。つい近年からの減少なので特別な何かの感覚の持ち主ということではないのだろうけれど、もしそうだったなら、こういうことで苦しい人もいるのだろうなと思うけれど憧れる部分もいだいてしまう。

私の場合はただ足音や周囲の音が気になって聞こえすぎてしまうようで、何かを聞き取れないことが多いというだけで、実生活には問題なく能天気だ。
だからか、自然の音や雑踏も、ビルの上空から海の波を見るように泡の中にいるような音の行き交いを聞くのは悪くない。蝉の倍音にもう直ぐ出会えるだろうか。雨の、エコーを小さくする風の遠くに音を飛ばす、世界は飛んでいけそうで、妄想力豊かでこんな時よかったなと思うけれどこれが大交響曲として聞けたなら、とても楽しいと思う。世界1周しなくても、寝ている間にいろんな音を思い出して心地よいことが、本当に申し訳なくなる。爆撃や爆発や警報、そのようなもので子供の中の小さな芽を破壊してしまう悲痛さを思いながら。それほどに詳しく助ける方法を知らないでこんなことを書くのは、これはこれで悲しい。悲しい音だってあるんだから、けれどだいたいは、間違ったものだから傷つけてしまうんじゃないのかな、すれ違う人だって、ちょっとユックり歩いてて抜いていくときにそんな、ぶつからなくてもいいじゃないと思う。でもこんな状態なんだな今は、無慈悲に怒られて怒鳴られて、ものを投げたり、それは悲しい音なんだ。でもよく考えてみること。その気になる音がどこからやってきているものなのかなって受け入れてそう、言葉や思考に変換していきたいと思う。

とりとめなく書いてしまったからそろそろ閉めるとする。全然書く練習になっていない気もする。

一番今好きなのは朝の鳥の声と新緑が揺れる音とか、ほんのページをめくる音にコーヒークリームやティラミスやらジンジャエールや炭酸の素敵な飲み物に変わる楽しみがある。他にも他にも、こんなことを言葉にできたらいいなと思う今日この頃、すこし街も落ち着いて、これからこの不穏な周波数というか、不安が発する波長が生むトーンが、変わっていくように願う。ではそんなことを言っているのに関わらず雑多な中で大して気にせず3階下のコンビニへ行く人の足音に深夜を思いトポトポとジャスミン茶を飲んで寝てしまおう。明日はどんな体感をするのだろうと、期待を何となくしてすこし暖かい夜空を思おう。空気の音があるなら風に吹かれる前のそれが聞いてみたい。何かが密集して散るようなそれは、波の素とでも思いたい。     就寝するために人がダメになる系のクッションに体を埋めると、体内の音が聞こえる。枕に心臓の音が歩いてくる。明日を思うといつも頼りない夜だ。眠りから覚めた時に、体の音の波は、浮遊してどこかへ行ってしまうのだろうか。聞こえない。そう、グールドは自分の体内の音を聞くように音を探して静かに聞いていたんじゃないかな。なんて思ってみるのも、たまには悪くない。習慣になってしまった何となく今を生きながら自分と世のことを書き残したいという欲求を、少しずつ飼い慣らしていきたいと思う。


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