信仰の土台
ある日、スタバで先輩から言われた痛烈な一言
数年前のある日、クリスチャンである先輩とスタバで会う機会があった。僕自身は彼を先輩として見つつも、いつもどこかマイペースで覇気がない、そんな先輩を元気づけたいと思っていた。
しかし、その日はっきりと現実に向き合わされたのは、自分自身の方だった。向かい合って席に着き、フラペチーノを片手に話していたとき、その先輩にふとこう言われた。「よく聞く話で、大学時代は信仰に熱いけど大学を卒業したら信じることをやめてしまう人がいる。○○(名前)は、どちらかというとそうならないかが心配なんだ。」
何が信仰の土台となるか
僕はその一言に、唖然とした。その先輩には、僕が「今だけクリスチャン*」に見えていたのだ。
そのとき先輩は、同時に自分が神様への信仰が与えられるに至った経緯を話してくれた。彼は親がクリスチャンというわけでもなく、神を否定する進化論の本を読んでいるときに、逆に「神はいる。」と思い、そこから信仰に導かれたそうだ。
そんな先輩の「○○(あなた)の信仰の土台は、どこにあるのか。」という質問にドキッとしたし、その場は何と答えたか覚えていない。
その答えを家までの帰りの電車に揺られながら考えているとき、はたと気づかされた。
「僕の信仰の土台はイエス様だ。」と。
*("今だけクリスチャン"は勝手に付けた呼称で、大学のサークルなどで楽しすぎるほど良い時間や、愛の溢れる仲間に出会い、神様の恵みひたひたになるのだが、土台が分かっていないためその環境がなくなってから信じることをやめる人・現象のこと)
己の何かによってではなく
紛れもなく、僕の今までの信仰生活において最も重要な質問だったと言えるだろう。当時の僕は、科学的な観点から聖書を信じれると思ったり、たくさんの偉人が信じている聖書は、それほど権威があるんだ、と言ってみたり、それをある意味"信仰の土台"にしていた。
しかしそれらは一方で事実であるが、外的要因であって、自分の内側から湧き出るものや、自分の内側を問われたときに、自分を支えているものとしては不完全だったと思う。自分の力で分かる・知っている範囲や、考えられることが広がるほど、実は本質を見失ってしまいがちで、実際僕はそうなっていたのだ。
僕/僕たちの信仰の土台。それはイエス・キリストが何をしたかである。
それは己の何か(自分がどれだけ信じているか、どれだけ奉仕(良い行い)をしているか)ではない。この土台に何かを加えることもできないし、する必要のない、完全な神の子イエスがしてくださった御業(みわざ)【十字架の死と復活】に完璧な土台がある。
この地上のどんな土台も、揺れ動いて流れ消えていくもの。変わらないのは、神の真実な愛。神様がしてくれたこの愛の御業に、心から感謝し、これからもいのちのパン【聖書】を食べていく。ここに安らぎを得る。
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