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海の見える街 (9)

 僕が潮風にやって来て、二ヶ月ほど時が経過した。

僕は毎日、朝七時に体育館にやって来て、ヘンデルの調子の良い鍛冶屋を弾く。
まるで某有名アニメーション映画の主人公(トランペットを吹く少年)のように。
すると、眠気まなこを擦りなから茜さんが起きてくる。
五分近くある曲の間に杏香さんがやって来て、弾き終えた時には体育館の隅で聴いていることもあった。

この曲はメインのフレーズをアレンジを加えながら六周繰り返す構想をしてる。
茜さんは五周目が好きらしく、よく六周目に入って体育館へやって来て、「もう一回私の好きなとこ弾いて!」と言った。

その後、二人で四人分の朝食を作って、空き家の花壇や畑に水やりを終えた友瀬さんが合流したら四人で朝食を取る。
四方に別れて、空き家などの整備、草刈りなどをして回る日もあれば、海に行って釣りをしたり、丘の上の神社の整備に行ったついでに遠足みたいにお弁当を広げて食べたり、畑で野菜を収穫したり。
僕たちはそんな風に暮らしていた。
友瀬さんは、日中、自宅で本業のウェブデザイナーの仕事に打ち込んでいる時間が長くなっていった。
茜さんは、なんだか不安そうにしている日が多くなって、昼間ふらっと居なくなり、僕が探しに行くなんてこともあった。

そんなある日のこと。

「ハルー。来週のご飯の注文どうするー?」
雨でどこにも行けない日の昼間に、茜さんが三階の僕の部屋までやって来た。
「あぁ、今週って注文の日でしたっけ。」
僕は読んでいた本を閉じて時計を見る。午後三時。
下に降りてお茶でも入れようかな。そう思って立ち上がると 茜さんがニヤッとした顔で僕を見上げていた。
「はい、敬語。罰ゲーム。」
茜さんは僕がうっかり敬語で話しかけると、罰ゲームだと言って僕を体育館へ連れ込んでピアノを弾けと言った。
「ちょうどお茶でも入れようかと思っていたから、体育館でお茶にしようか?」
茜さんは自分で言っといて「やだよ。体育館暑いもん。」と言った。
結局、各々部屋から扇風機を持って行って、日陰の風通しの良いところで僕たちはお茶を飲みながら注文用のカタログに目を通すことにした。
「先週の白身フライってもう全部使っちゃったっけ?」
「残ってるけど、全員分は無いかもしれないな。」
「頼む?」
「せっかくなら、他のフライにするとかどうかな?アジとかあったりしないの?」
ページを捲ろうとするお互いの手が不意に触れ合う。
「あっ、ごめん。」
引っ掻いたりしなかった?と問う僕に向かって、茜さんは急に腹を抱えて笑いだす。
「なに?僕、顔になんかついてる?」
自分の目で見えないところをあれこれ触っている僕を見ながら、茜さんは首を振りながらさらに笑った。
「なんなの?」
「いや、ごめんっ…あーあ。おっかしい。」
僕の目をじっと見て、また茜さんは笑いだす。
「僕なんか面白いことした?」
「いいや、ハルと手が触れ合っても、ドキドキもキュンキュンもなーんにもしないなって思って。」
なんだ。そんなことで笑ってたのか。 そりゃしないだろう、茜さんは友瀬さんのことが好きなんだから。
「友瀬さんとだったら心臓保たなそう?」
「保たない。絶対保たない。どうしたらいいかわからなくなる。」
「逃げちゃうかも?」
「あー!逃げちゃうかも!」
ケラケラ笑い中がら僕たちは向き合う。そして、さっきの茜さんの笑いが今更移って僕も腹を抱えて笑った。
「ハル、笑ってないで、そろそろ罰ゲームして!」
さっきまで笑ってたのが嘘のように、茜さんは冷静な顔つきでピアノを指差した。こういうところ、実に茜さんらしい。
笑い始めたのは茜さんじゃないか、と言いつつ、僕もピアノに向かって歩きだす。
「ハルにリクエストできるように、ちょっとクラシック聴いた!」
茜さんはピアノに向かう僕を追いかけて来て、見て!とスマホで聴いた曲の履歴を僕の目の前に突き出した。
「ありがとう。茜さん、そういうところ可愛いね。」
茜さんは目を見開いて固まっている。
「え?なに?」
「ハル、前に元カノの事、思わせぶりだったとか言ってたけど、ハルも大概だよね。」
あぁ、そんな話したなぁ。初めてここに茜さんと来た時に。
「可愛いって言ったこと?」
「そう。私が裕くんの事好きじゃなかったら、多分今、逃げてる。」
あれだけで?茜さん、意外とうぶだなぁ。
「なんていうのかな、一生懸命、物事に前向きに行動するのって魅力感じるしさ。僕が今日何弾こうか考えなくてもいいように、って思ってくれたんでしょ?そういうことしてもらったら、そりゃあ嬉しいし可愛いなって思うでしょう?」
茜さんは照れて俯いた後、ゆっくりと僕の表情を伺うように僕を見た。
そしてお互いに目を合わせて、お互いに思い出し笑いをした。
茜さんも結局、ドキドキもキュンキュンもしなかったんだろう。
「で?茜さんはこの中でどの曲が好きだったの?」
これ、と茜さんが指差したのはショパンの雨だれだった。
「へぇ…、ショパンか。今日の天気にもぴったりだね。」
僕はアップライトの蓋を開け、手際よくキーカバーを畳むと早速鍵盤に手を伸ばす。
爽やかに抜けていく緑色の風を感じる冒頭のフレーズに外で降り続ける雨音が微かに混ざる。
中盤の雨脚が強くなるところで、僕はどうしてこの曲が弾けるのだろう、と曲から心を解離させる。
一体どこで覚えたんだろう、僕はこの運指を。

曲がまたメインフレーズに戻ってくる頃、体育館には薄く光が挿した。なんだか夢の様な不思議な色に空間が染まった。
雨だれを弾き終えた後も僕は頭の中に流れて来た曲をそのまま弾き続ける。
僕が見えている景色の色に、この曲がぴったりすぎた。
ジムノペディ第一番。
この曲はヒーリング効果も高いと言われている。
この曲の作者、エリック・サティは僕の好きな作曲家、クロード・ドビュッシーと友人関係であったらしい。
茜さんに今度はドビュッシーも勧めてみよう。
そう思いながらふと目をやると、雨雲の間から薄く挿した光の中で、ジムノペディに合わせて、茜さんが舞っていた。
麻の白いスカートが光によって透けて、茜さんの細いふくらはぎのシルエットを映し出している。
バレエの様な手足の動きの合間、所々でスカートを大きく揺らして回っている。
とても優雅で、その美しく柔らかな動きの中に、揺るがない芯が通った舞いに、僕は吸いこまれ、指が止まってしまいそうになる。
しかし読めた。きっと指を止めて、僕が見ているとわかったら、茜さんは恥ずかしくなって逃げて行ってしまう。
…見なかったことにしよう。
僕は無理に目を閉じて、さっき見たあの一瞬だけを瞼の裏に焼き付けた。
この曲で、近頃少し縺れていた彼女の心が解けたならいい。

ジムノペディを引き終える頃には、茜さんは何事もなかったかの様に注文カタログに目を落としていた。
僕が見たのは幻だったのだろうか。
ピアノの蓋を閉めて、茜さんの傍に戻ると「解せんなぁ…」という言葉が飛んでくる。
「またどうせ敬語が出てしまうだろうから、先にもう一曲弾いとこうとか解せん。」
茜さんの表情を見て、すぐにわざとやっていると気づく。
「後に弾いた曲は気に入ってもらえた?」
瞼の裏に残る茜さんの姿を僕は振り払う。
「なんか、踊りたくなったから踊っちゃった。」
茜さんはあっさりと僕が封じ込めようとした秘密を開封した。
「バレエ…」 習ってた?と聞こうとして、そんなわけないと口に出す前に気づいた。
「すごい憧れだったんだよね、バレエ。バレエに見えた?」
「うん。見えたよ。気づいた時、指が止まりそうだった。」
僕は思ったことを全部伝えなかった。また思わせぶりだとか言われそうだ。
「もしかして、あの曲は踊りの曲?」
「いやぁ…」
僕は頭の中の情報を掻き回す。
「古代ギリシャのお祭りの様子を描いたものから曲想を得たらしいってことしか僕は知らないけど、お祭りだからもしかしたら踊っていたのかもしれないね。」
僕が言ってる横で、茜さんが触るスマホの画面がちらっと見えた。
動画サイトの検索フォームを開いている。
「ジムノペディ第一番。」
茜さんは驚いてこちらを見た。「今聞こうとしてたの、なんでわかったの?」の顔をしている。
「この曲を書いたエリック・サティと友人だったらしい、クロード・ドビュッシーという作曲家の曲が僕は好きなんだよね。よかったら、茜さんも聞いてみて。月の光とか、有名な曲だよ。」
茜さんは、ちょっと待って、と、メモ機能を開いて僕の言ったことを一生懸命打ち込んでいる。
「そういうとこだよ、可愛いの。」
「え?何か言った?もう一回言って?」
心の中で呟いたつもりがうっかり声に出ていたらしい。
「いいや、こんな茜さん、友瀬さんが知らないのは惜しいな、と思ってさ。」
僕が言うと、茜さんは顔を赤くして僕を両手で力一杯突き飛ばした。
そうそう、そういうところ。
茜さんがブツブツ文句を言いながら、スマホと対峙している間に僕は注文カタログへ目を戻す。
そこに、この季節にとてもいいものを見つけた。
僕は素早く注文番号を注文書へ写し、茜さんに見つからない様にそのまま注文書を片付けた。
「さぁ、窓を閉めよう。そろそろ晩御飯の準備しなくちゃ。」

来週、届いたものを見て、茜さんはどんな顔をするだろうか。
僕が杏香さんの相手を引き受けるから、友瀬さんと茜さんを二人きりにしてやろう。

翌週、港に届いた荷物の受け取りを、友瀬さんの代わりに行くと僕は買って出た。
早めに起きて朝食の準備を整えた後、ピアノを弾く前に僕は茜さんを起こしに向かう。
港に荷物を取りに行こうと言うと茜さんはなんで?という顔をした。
なぜ誘われたのか?なぜ友瀬さんじゃなくて僕が行くのか?…まぁ、疑問はたくさんあるだろう。そりゃそうか。
「今夜は花火大会だよ、茜さん。」
茜さんは更にどういうこと?という顔をした。
友瀬さんが向かう車に茜さんを押し込む案も考えたのだけれど、僕の想像の中でキラキラと目を輝かせる茜さんの顔を独占したい欲にどうしても駆られてしまったのだ。
ごめん、茜さん。日頃の演奏のお礼と勝手にさせてくれ。

茜さんは助手席で開けた窓に肘をかけて「なんで朝っぱらから私まで…」とぶつくさ言っている。
今夜は晴れて風も穏やかになる予報だ。
僕は先週の注文書に、手持ち花火のパーティーセットを記入したのだった。
船着場に車を停めると、乗組員のおじさんがこちらに手を振ってくれる。
「おぉ、今日は新入りが来たんか。」
僕はおはようございますと挨拶をして、早速荷物の入ったコンテナを受け取った。後から追いかけて来た茜さんには、冷凍ものが入った発泡スチロールをお願いした。
「今日ら夜も晴れて風が無い言いよるけん、対岸からでもよぉ見えらい。」
おじさんの言葉に僕らは目を見合わせる。
「何がです?」
僕が尋ねるとおじさんは満面の笑みで「花火」と言った。
え?頼んだものを見たのか?
「対岸?…あ!本土の花火大会、今日なの⁈」
茜さんが言う。
「そうよ。今晩十九時半から今年は一万五千発よ!」
茜さんの目がキラキラ輝いた。
僕の腕を掴んで、「花火大会ってそういうことだったんだね!」と言った。
あちゃー。そうではなかったんだけど…。
僕はそうだよと答えるしかできなかった。
「キャンプ場の方まで行ったら間の島が邪魔にならんけぇよう見えるで。裕に連れてってもらえ。」
おじさんはそう言うと船に乗り込んで行ってしまった。
まさかドンピシャで、本当の花火大会にぶち当たってしまうとは。
おじさんと船を船着場で見送って車に戻ると、冷凍の荷物の中から早速アイスクリームを開けて食べながら、 茜さんが、立っていた。
「ハル、これ、どしたの?」
手持ち花火のパーティーセットを手に持って。


「あははははっ!タイミングわっっる!」 帰りの車で茜さんはずっと機嫌良さそうに笑っていた。
「もう、そんなに言わないでくれよ、恥ずかしいから。」
だって、と言いながら茜さんは笑い続けている。
「いいじゃない!これも持って行って、花火しながら花火見るのもいいかも!」
年下の女の子に気を遣わせて、不甲斐ないなぁ、僕は。
「杏香さんは僕は引き受けるから、茜さんは友瀬さんと離れて見なよ。」
「えぇ?どうして?せっかくなのに、みんなで見ようよ。」
「こういうのは好きな人と見たいものじゃないの?」
茜さんは、みんなで見たって裕くんと見てるのと代わりないじゃない。と言う。
「いや、そうじゃなくって、なんか、その…」
僕がそう言うと、茜さんは今までの笑顔をすっと閉まった。
「そういう雰囲気にすると、裕くんが咲生を思い出すような顔するから、私、嫌なの。」
僕は息を飲む。
「そうなったら、私、またどうしたらいいかわからなくかるから…ハルにも居て欲しい。」
思わせぶりだけでなく、僕はとんでもなくお節介だな。浅はかすぎた。
茜さんがハッキリと胸の内を打ち明けてくれてよかった。
「わかった。四人で行こう。僕も茜さんの傍にいるよ。」
そう言うと茜さんは、僕の想像の中の茜さんと、同じ笑顔で笑った。


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