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真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(1/3)

今回は「赦し」とは何か、そして「赦し」がなぜ平安をもたらすのかということを古今東西の教えからその重要性をお伝えしていきたいと思います。

普段はあまり馴染みがなかったり、重要視されることもないこの赦しですが、あなたがあらゆる人間関係の中で平安や自由、そして喜びを感じて日々を過ごしたければ避けては通れないほど、この赦しは大切です。

平安を望むあなたは、完全な赦しによってのみ、それを見つけることができる。(T-1.6:1)

奇跡講座/中央アート出版社

この完全な赦しこそが苦しみを癒し、あなたに永遠なる平安と自由をもたらすのです。

逆に、あなたの中で平安でいられない時があるというならば、必ずそこには赦されずに隠されている信念があるということになります。

赦しには目の前の出来事を「直視すること」「ありのままに観ること」「看過すること」が必要とされます。

日々の生活の中で、ふとしたことをきっかけに心が不安や焦り、また苛立ちや恐れという感情に巻き込まれてしまうのは、心の奥底であなたが神(創造主)や「真の自己」(キリスト)を攻撃し続けていることが自我(エゴ)によって隠蔽されているからです。

この攻撃の想念は常に行われており「真の自己」から離れて、この肉体こそが自分であると信じているあなたは、自我と一体化しているが故にこのことを無意識下で否定し続けています。

攻撃には憎悪といったあからさまなものもあれば、巧妙に偽装され、この世界では愛と呼べるものまでもそれに含まれます。

この世界が愛と呼ぶものは常に断片的で一時的であり、何かしらの条件を必要とします。

なぜなら、個人である自己はそれが物理的な肉体であるために誰かを愛するにはどうしても制限や限界があるからです。

その対象はあなたにとって身近な人であったり、あなたが好意を寄せる人であることがほとんどであり、それ以外の人がそこに含まれることは滅多にありません。

つまり、この世界が愛と呼ぶもの、そしてその愛の対象はあなたにとって安心や喜びを与えてくれるかどうか、また守る必要があるかどうかという基準があるのです。

それに反してあなたと対立したり非難してくる人は必ずその愛の対象からは除外されてしまいます。

これが自我による分離した部分的で制限が設けられた条件付きの愛です。

神と「真の自己」による愛はそれが完全であり一体となっているため、そこに欠けたものや除外されたものは何一つありません。

自我はこうした全一なる愛を知らないため、あらゆる攻撃の想念を用いて神や「真の自己」に対抗し、それらを分断し分割することであなたを卑小で欠乏した傷つきやすい自己に仕立て上げようと必死になっています。

なぜならこれが自我自身の生き残る道であり、最大の目的だからです。

こうした分離の想念は必ず真理に対して除外や違いという手段を用いて攻撃しようとします。

そして攻撃するということは必ず自分もいつかは攻撃されるかもしれないという報復の恐れを伴います。

これが罪悪感と言われるものであなたを苦しめる原因になっています。

この自分に対する罪の意識の信念が、あらゆる出来事を通じて処罰といった体験をあなた自身に招き寄せるのです。

つまり、あなたの赦したくない思い、それは誰かを咎めたり、コントロールしたり裁きたいという様々な攻撃の想念によってあなたの自作自演によるものであるということです。

ですから、あなたが認めるかどうかは別としてまず知っておくべきことは、あなたがはじめに神から分離することを願望し決断したということです。

そして神が創造した実相(天国、ワンネス)からはかけ離れた、この二元の世界を夢の中で作り出したものがこの宇宙なのです。

当然この宇宙には永遠なるものは無いため、あらゆるものは一時的で変化してしまう運命にあります。

こうした堅固なる土台のないところに築かれたこの世界のあらゆるものは砂上の城の如くいずれは崩れ去ってしまいます。

また、神が創造した実相(天国)と神の子(キリスト)である「真の自己」は全体性によって一体となって繋がっているため、そこに具体的なものは一切なく、すべてが抽象的で普遍的なのに対して、この世界で生きるということは具体的で知覚できる分離した肉体が必要とされます。

具体的なものは必ず物理的なものにまで分離していくため、その結果として作られた肉体は最後に朽ち果てる運命にあります。

また、肉体はそれが物理的であるがために、その肉壁は他者との間に隔たりを生じさせます。

この肉体によって分断された心と心が他者との間に距離を作り出し、その距離があなたにとっての一時的な安心をもたらします。

しかし、この安心が永遠に続くことはないため、あらゆる人間関係の中でいずれ歪みが生み出されることになります。

なぜなら「見知らぬ人」「未知なること」「得体の知れないもの」はあなたにとって恐怖となるからです。

それは肉体であると信じているあなたにとっては危険な知らせであり、そのすべてが最終的には死をイメージさせるからです。

分かり合える前や、既知なるものになる前は、あなたは必ずその対象に対して一定の距離を取るという防衛心を働かせます。

この防衛によってあなたは肉体と一体となった自己の安全を守ることができると信じているのです。

その心の奥に横たわっているのは

「私は不完全で弱く傷つきやすい存在である」

という信念です。

また、様々なものに対して疑い、身構え、防衛するということも、神の意思と「真の自己」に対する背信行為であるため、それは真理を否定する攻撃の想念になります。

なぜなら、神は神の意志によってあなたを神の一部として創造したため、そこに分離されたものはなく、あなたを傷付けるものも防衛すべき対象も存在
し得ないにも関わらず、あなたは傲慢にもそれに反して「私はか弱く傷付きやすい存在だ」と主張しているからです。

結果として、この世界へと眠りに堕ちた神の子は自我に自身の力を明け渡すことで自我を自身の神に祭り上げたのです。(偶像崇拝)

そして、その自我が作り出した世界はすべてが真実ではなく偶像であるため、この宇宙の中で見つかるものによって幸せを見出すことそのものがあなたの無意識下で罪悪感を生み出すことになるのです。

この世界の中をいくら探求しても、そこで見つかるものは真実には決してなり得ず、必ずあなたは裏切られ失望する羽目になります。

そして、それを知らずにする全ての思考や行為があなたを苦しめる結果となるのです。

こうしたあなたの赦したくない思いは、裏を返せば攻撃の想念であり、攻撃したということはあなたにとっては罪の意識を生じさせるのです。

この罪の意識は罪悪感を強化し、その積み重なった罪悪感はこの世界であらゆる形を伴った恐れの事象として顕現してきます。

その現れでた事象を肉体の目で知覚し、さらにあなたの狭い見識で価値判断し、裁くという攻撃が再度行われます。

その結果、自身の罪の意識を永遠と他者に投影することで罪悪感が温存され強化され続けるのです。

ですから、自我を教師とした間違った思考体系による負のループを断ち切るために必須となるのがこの「赦し」なのです。

聖霊の目的は、私たちの思考を逆転させ、私たちが学んでしまった間違いを白紙に戻す方法を教えることによって、私たちが夢の世界から脱け出すのを助けることである。この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。

私たちは邪悪さ、破壊、悪意、羨望、絶望の世界を見ることだろう。こうしたすべてを赦すことを、私たちは学ばなければならない。それは、私たちが「善良」で「情け深い」からではなく、私たちに見えているものが真実ではないからである。私たちは歪んだ防衛により世界を歪曲してしまったので、本来はそこに存在しないものを見ている。知覚上の誤りを認識することを学ぶとき、私たちはまた、そうした誤りを超えたところを見ること、すなわち、「赦すこと」を学ぶ。同時に私たちは自分自身をも赦し、歪曲された自己概念を超えて、神が私たちの内に、私たちとして創造した自己を見る。

奇跡講座/中央アート出版社

この世界には不誠実で不公平、また理不尽なものが沢山存在しているように見えます。

それはあなたが神から離れ、自我に一体化したことによって自身で作り出した結果に過ぎませんが、それを真に認めるまではあなたの力が及ばないものによって、まるで外から何らかの影響により犠牲を被るかのように感じられます。

この世界では自身の罪悪感が自らの否認によって隠蔽されているために、世界や他者に罪の意識が投影されてしまいます。

今では世界は罪のなすりつけ合いという被害者と加害者の役を交互に演じる舞台になっています。

そうして神が創造した「永遠であり不変なる安全な天国」とは真逆の「時間と空間に支配された変化の目まぐるしい危険な世界」において、私たちは何度も様々な人生を繰り返すことになるのです。

もう一度「赦し」とは、その出来事を「ありのままに観る」ことであるということを思い出してください。

それは、あなたの苦しみは、あなたの願望によって作り出されたのであるということをありのままに観て正直に認めるということです。

ですから、目の前の出来事を見過ごして赦してください。

なぜなら、それは今でも心の奥であなたが選択している分離したいという願望、それは詰まるところこの世界で苦しみ続けたいというエゴによる狂気じみた望みが何度も目の前で叶っているに過ぎないからです。

目の前のあなたを苦しめる他者との関わりや出来事のすべては、原初の願望の影に過ぎません。

そこに原因はありません。

あなたは一生懸命に鏡に映った自身の顔の汚れの方を取ろうとしているのです。

そこには汚れはありません。

映画館のスクリーンに投影された映像のストーリーを変更しようとしてもその労力は無駄に終わるしかありません。

あなたの人生のストーリーを真に変更したければ、映写機の中にある神から離れたという罪悪感でできたフィルムを取り替えるしかないのです。

それは狂った教師である自我を人生の導き手とすることから、正しい心であなたを平安へと導く聖霊にガイドを変更することを意味しています。

盲目的で狂信的な自我を頼りにするということは、あなたの人生に失望しか与えてくれず、時間は永遠と無駄にされ続けるのです。

肉体とは自我が作り出した罪の象徴です。

その罪の象徴が提供できるのは、五感を通じて知覚され、あなたの肉体へと差し出された様々な苦痛と快楽という、この世界にあなたを縛り付けておく罰でしかないこと、そしてその罰は、自我の価値判断による意味付けという酷く制限され歪曲された裁きの思考によって引き起こされることを何度も肝に銘じておくべきです。

この裁きによってあなたが受ける処罰は、世界で巻き起こるあらゆる出来事や人間関係を通した間接的な心理的被害として、また肉体の老いや怪我、病気という直接的な肉体への被害といった形で自分自身にその処罰を請求し、その代償は自我に一体化したあなたにとっては当然ながら「肉体の死」イコール「自分の死」として完成するのです。

赦すことは見過ごすことである。それならば、誤りを超えたところを見なさい。そしてあなたの知覚を誤りの上にとどめてはならない。あなたは自分の知覚が捉えているものを信じるからである。(T-9.4:1)

奇跡講座/中央アート出版社

赦すとは、まさしく見過ごすことです。

目の前の出来事を看過し、その出来事が何によって作り出されたのかという真の原因に目を向けることです。

その原因は、神から離れることで自分こそが神となってこの世界を作りたいという原初の誤った願望と決断によって実在化されたということです。

このことに対して否定し目を背け続けるなら、あなたは自分が信じている分離した概念をこの世界に永遠と映し続け苦しむのです。

では次にこの赦しの大切さをウイングメーカーによる物語からも一つ紹介したいと思います。

以下、ドールマンプロフェシーより

「マイア、神がぬし(お前)を赦す必要があったことはこれまで一度もない。常に赦す必要があるのは、自分自身なのだ」

「それが本当なら、どうやって自分自身を赦せばいいの?」

「これは複雑なテーマだ。まず理解しなくてはならないのは、ファーストソース、つまり私たちの創造主は、私たち自身でもあるということだ。

中略

「本当の自分は誰なのかという背景では、自分がファーストソースから遥か遠く離れて漂ってきたのだということを感じることができる。そしてこの人間として漂流している間、すべてが分離した世界に住んでいる。自分の神としての性質のほんのわずかな部分だけしか明らかにされてない自我に縛り付けられ、それ故に恐怖にまとわりつかれている。分離という振動する世界に棲んでいるのが、この恐怖なのだ。この恐怖のために、私たちは毎朝、監獄の衣服を身に着ける。そして分離の中に存在し、分離を現し、分離を表現し、分離を生きる」

「どうすれば、その世界を変えることができるのですか?」

シモンは溜息をついた。

ぬしは分離の中に存在しているが、ワンネスを現している。本当の自分を理解することによってそれを行うのだ。そしてその理解を他のすべての者に対して用いるのだ。そして、ハート・インテリジェンスをどのようにして表現するのかという観点において、ワンネスという根本的な実相を圧倒するような形で分離の像を描くことを許してはならない」

中略

「でも、私はどうすればいいの?」マイアは訊ねた。
「どうやってファーストソースへの扉を私が開けるの? そんなの意味ないわ。あなたの方が、私なんかよりずっと適格じゃないかしら」

「それは知識や経験には関係ない」シモンは言った。

「知識や経験が問われたことはこれまで一度もなかった。それはハートの問題なのだ。ハートの知性の扉がノックされ、それからぬしの次元性をいかに表現するかにかかっているのだ─それは肉体だけの話ではない。 言葉や身振りや行動だ。確かに、それはその一部だが、それの小さな部分に過ぎない。それはぬしの目には見えない部分に関係がある。振動するぬしの高次の様相だ。その様相は主の目には見えず、マインドではぼんやりとしか感じることができないものだ。しかし、それこそが真の潜在能力が眠っているところなのだ」

「どうすれば、単に機械的なステップを踏んでいるのではなく、自分がそのパワーを使っているのだと確信することができるのでしょうか?」

シモンは彼女の質問を受け、勇気づけるように頷いた。

「人生とは、知的で、目的があって、活力に溢れ、自由で、創造的で、不確定で、そしてファーストソースに永遠に支えられているのだという思考にぬしの信念を傾けることでそれが確信できる。現実的に、ぬしの信念を失望させないように、人生が再構築されるのだ。しかし真の問題とは、ぬしの信念を深く知ることにある。その瞳を覗き込み、自分が何を信じ、何故それを信じているのか真に理解するために」

「自分が本当は誰かなんて誰も知りたくはないんじゃないかしら?」

マイアは繊細な生き物を抱きしめているかのよう折り畳まれたカミルのシャツを胸に抱いた。

「本当の自分を知りたくないということではない」シモンは答えた。

中略

風が少し吹き荒れた。乾いた雷の軌跡が空を満たし、彼らがいる緑に覆われた空間を一瞬、銀色の光が照らしだした。 シモンの鼻孔がヒクヒクと動いた。

「雨が近づいているようなので、手短に話そう。分離の中の自分を語っているだけだ。ファーストソースだけではなく、自分自身からの分離だ」

「自分自身?」

「そうだ。ぬしは、自分のひとつの表現について語った─その表現は、マイアと呼ばれる者だ。しかし、ぬしはまた集合的な生命、表現、振動するリアリティでもあるのだ。それらのものがすべて、ぬしの創造のシンフォニーの中で共鳴している。今、この瞬間もそれは起こっている。マイアという存在は、ひとつの窓で、その窓はもっと大きな存在が住んでいる部屋の中にある窓のひとつだ。その部屋はとても大きく、数百もの窓があり、それぞれの窓はその部屋の中にいる存在に向かって新しい光や新しい情報を運んでいる。その部屋の中にいる存在は、次元存在とは異なるものだ。何故なら、その存在がぬしのファーストソースだからだ」

中略

マイアの瞳に光が瞬いた。

「なら、仮に私がカミルを殺した者たちと教会を赦したなら、その存在が活性化されて、私の次元世界にそれをもっと引き寄せることができる、シモンが言っているのはそういうことなの?」

シモンは頷いた。

「そうだ。しかし、それはぬしが心からそれを行う時でなければならない。決して急いではいけないが、無視してもいけない。それはバランスの問題だ。ぬしのハートが準備ができたとき、ハートが準備ができたことを告げるだろう。そしてそれが起こった時、ぬしは知るだろう。私たちがジョセフを埋葬した時に、ぬしが父親を赦した時とまったく同じように」

ウイングメーカー ドールマンプロフェシーより 

赦しの必要性など想像することもできない天国にあっては、赦しは知られざるものですが、この世界においては、赦しは私たちの犯したすべての間違いに必要な訂正となります。

赦しを差し出すことが、私たちが赦されるための唯一の方法であり、私たちが「真の自己」を思い出すための手段となります。

赦しによってこの世界の思考は逆転します。

そして赦された世界は天国へと帰還するための門となります。

なぜならその慈悲により、あなたはついに自らを赦すことができるようになるからです。

誰のことも咎めず罪悪感の虜にせずにおけば、あなた自身が自由になれるのです。

しかし、自我にもまたあなたをこの世界に幽閉させておくための赦しの計画があります。

それは「偽りの赦し」であり、「破壊するための赦し」です。

その自我による偽りの赦しは、あなたにこう囁きます。

「目の前の人はあなたに何らかの被害を与えたが、あなたはそれを見逃してあげなさい」

というものです。

一見、優しさを持って赦しを差し出しているようではありますが、その意味するところはあなたを苦しめることになります。

なぜなら、エゴはあなたが何らかの形でまずはじめに傷つけられたことを前提として語っているからです。

「あなたは被害を実際に被ったけれど、あなたのその精神性の高さと寛大さで赦してあげなさい」

と言っているのです。

こうした赦し方が、「赦し」であると一般的には認知されていますが、この「偽りの赦し」はお互いにとっては悲劇となります。

なぜなら、あなたは相手からの何らかの攻撃によって「私は確かに被害を受け傷つけられた」と信じ、その態度や反応が相手にとってみれば、「私は人を傷付けることができる」と信じさせることになるからです。

こうしてお互いは神の意思である神の子としての完璧な存在をまたしても退け、人の子として、また罪深き弱い存在として双方が罪悪感を投影し合うことでそれを強化させ、この肉体に互いを投獄し幽閉することに自我は密かに成功し続けるのです。

自我にもまた赦しの計画がある。なぜなら、あなたがそれを求めているからである。とはいえ、正しい教師に求めてはいない。もちろん、自我の計画は意味をなさず、うまくいかない。自我の計画に従えば、あなたはあり得ない状況に自分自身を置くことになるだけである。自我は常にそのような状況にあなたを導く。自我の計画は、まずあなたに誤りをはっきりと見せてから、その誤りを見過ごさせるというものである。だが、自分で実在すると思い込んだものをどうやって見過ごすことができるだろうか。それをはっきりと見ることによって、あなたがそれを実在のものとしたので、それを見過ごすことはあなたにはできない。ここにおいて、自我は「神秘」に訴えざるを得なくなり、自分を救うためにあなたは無意味なものを受け入れなければならないと主張する。多くの者たちが、私の名においてこれを行おうとした。そして、私の言葉は神からきているがゆえに完璧に意味をなしているということを忘れた。私の言葉はこれまでもそうであったように今も意味あるものである。なぜなら、それらは永遠なる想念について語るからである。(T-9.4:4)

奇跡講座/中央アート出版社

私から学ぶ赦しは、恐れを取り消すために恐れを用いることはしない。また、実在しないものを実在のものとした上で、それを破壊することもしない。聖霊を通しての赦しは、単に、最初から誤りを超えたところを見ることにより、誤りをあなたにとって実在しないままにしておくことにある。それが実在するという信念を、心の中に入り込ませてはならない。そのようなことをすれば、あなたは自分が赦されるためには、自分が作り出したものを自分で取り消さなければならないということも、信じることになる。結果をもたらさないものは存在しない。そして聖霊にとっては、誤りの結果は存在していない。あらゆる場所とあらゆる側面において、その結果を着実に、首尾一貫して取り消すことにより、聖霊は自我は存在しないと教え、それを証明する。それならば、聖霊の赦しの教えに従いなさい。なぜなら、赦しが聖霊の機能であり、聖霊はそれを完璧に果たす方法を知っているからである。(T-9.4:5)

奇跡講座/中央アート出版社

自我にとっての赦しとは弱さの象徴でもあります。

なぜなら自我は攻撃こそが強さであると信じているからです。

世界や他者の過ちを咎めたり、非難しコントロールするという攻撃こそが私が生き残れる道であって、それを見過ごすことはこの世界での競争から脱落することを意味し、その敗北による劣等感や無価値観はいずれ自身に対して危険が及ぶことになると考えるからです。

こうして、神が創造したものに対する「疑い」と聖霊による救済に対しての「防衛」といった自我の求める罪の世界、そして恐れの世界へとまたあなたは眠り堕ちていくのです。


真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(2/3)に続く


あなたはもう一人ではありません。

なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。

神の子にはどんな苦しみもあり得ません。

そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。


〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜 
リンプ


参考書籍

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