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真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(2/3)

真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(1/3)はこちらから

さて、聖霊が教えるこの完全な「赦し」を、仏教でも同じように重要視しています。

なぜなら、それが法華経ほけきょうに収録されていること、さらに最後の最後にそれが説かれていることがこの赦しの重要性を表しています。

法華経は最も有名な経典の一つであり、諸経の王と言われ、日本に仏教が伝わってまもなく聖徳太子が法華経の解説書(法華義疏ほっけぎしょ)を書かれています。

また大乗仏教の代表的な経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想が説かれています。

ちなみに聖徳太子が残したとされる言葉には「世間虚仮せけんこけ 唯仏是真ゆいぶつぜしん」というものがあります。

これは

「世の中のことはすべて嘘偽りで幻想である。唯一仏のみが真実である」

という意味になります。

聖徳太子は十七条憲法を公布(正確には推古天皇)したとされ、その中には彼が信奉していた仏教が色濃く出ています。

この十七条憲法の二条には

「あつく三宝を敬え。 三宝とは仏と法と僧なり」

といわれています。

現在で言うと日本国憲法に「仏教を信奉しなさい。」と書かれているのと同じであるため、これは相当な衝撃があったことは容易に想像がつくと思います。

話を戻して、仏教の中でも最重要な教えの法華経にも赦しが登場するわけですが、とりわけそこに重要性が置かれている訳は釈迦が霊鷲山りょうじゅせんで法華経をすべて説き終えられたのちに説かれたものであることをもう一度ここで言っておきます。

それを「仏説観普賢菩薩行法経 ぶっせつかんふげんぼさつぎょうぼうきょう」と言います。

この経典の中で説かれるものを要約すると、普賢菩薩ふげんぼさつの教えに従えば、何ごとをも正しい心で正しく考えるようになり、また肉体の知覚も洗い清められて次第に心眼をもって仏の美しいお姿を拝することができるようになるというものになります。

そして、この中では赦しと言う言葉が「懺悔さんげ」という言葉として出てきます。

仏教では懺悔を「さんげ」と言います。

懺悔がなぜ赦しと同一なのかといえば、経典の中に

懺悔の法を行えば、常に仏さまと共にいるのだという確信の力のゆえに、また心身を荘厳する普賢菩薩の教えのゆえに、次第に六根の障りが除かれて、すべてのものごとを、ありのままにとらえられるようになるでしょう。

と説かれているからです。

赦しとは、まさにありのままに観ること、それは出来事に対して価値判断を加えずに直視することであり、それを看過していくことによって次第に知覚が清められた結果、実相をありのままにとらえられるようになることだからです。

つまり、価値判断というあなたの意味付けが実相の上に厚いベールを掛けて神や真実、そして「真の自己」であるキリストを観えなくさせているのです。

仏教はもともと釈迦の方便(真理へと近づける釈迦の智慧)によって導かれるようになっていますから、この経の中でも懺悔はそれぞれの人々の機根(仏の教えを理解する度量・器)によって肉体レベルの仮の懺悔から、根本的に心を清める真なる懺悔までが説かれています。

学びが浅いレベルでは「自身の身の過ちを告白し赦しを乞うことでこの世界をより良く生きられる」というところから、最も深いレベルでは「自分の命の本質は仏性であり、永遠の命である本仏と一体である」という実相をありのままに観て念じること、そして「この肉体が自分である」という妄想から離れて「個人としての肉体の死」という生物としても最も本能的な恐怖からの解放と、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感官能力)という肉体の知覚から得られる快楽を求めることによって逆に苦しむことから自由になることを目指すものへと変化していきます。

ではこれらを踏まえて法華経の「仏説観普賢菩薩行法経 ぶっせつかんふげんぼさつぎょうぼうきょう」を見ていきたいと思いますが、それなりに長い経典ですので抜粋しながら紹介していきたいと思います。

わたしは、次のようなことを、確かに聞いております。 仏さまが毘舎離国びしゃりこく大林精舎だいりんしょうじゃにおとどまりになっておられた時、重閣講堂じゅうかくこうどうにおいて、多くの比丘びくたちに対し、「わたしは、あと三か月たった後、この世を去るであろう」とおおせられました。

即座に座から立ち上がった阿難尊者あなんそんじゃは、居ずまいをきちんと正すと、手を合わせながら仏さまの周りを三たび回って礼拝し、そのおん前にひざまずき、合掌し、じっと如来のお顔を仰ぎ見て、まじろぎもせずにおりました。長老の摩訶迦葉まかかしょうも、弥勒菩薩みろくぼさつも、やはり座から立ち、合掌して礼拝し、じっと尊顔を仰ぎ見ているのでありました。 やがて、三人の大仏弟子は、口を揃えて申し上げるのでした。

「世尊。世尊がおかくれになりました後、衆生はどんな道によって菩薩の心を起こし、すべてのものが平等に救われる正しい大乗の教えを修行し、仏さまと一体となれる境界をしっかりと考えていくことができましょうか。どういたしましたら、無上の仏の智慧を得たいという心を持ち続けることができましょうか。

どういたしましたら、煩悩をすっかり払い去ることなく、五欲を追う現実世界から離れることなく、しかも心身を清め、多くの罪を除き滅することができましょうか。どういたしましたら、親が生んでくれたそのままの目で、五欲はそのまま持ちながら、しかも煩悩に迷わされずにものごとの真実を見ることができるものでございましょうか」

仏さまは、阿難に向かっておおせになりました。

「では、そのことについて説き聞かせますから、しっかりと聞くのですよ。しっかりと聞いて、よくよく考えるのですよ。わたしはずっと以前から、霊鷲山およびその他の至る所で、ただ一つの真実の道をさまざまな説き方で説いてきましたが、今ここであらためて、最高の大乗の教えを修行したいと願う未来世の多くの衆生たちのために、また普賢菩薩の行を学び、普賢菩薩と同じような行を行いたいと願う人たちのために、心をどう持ち、どう清めるかという方法を説いて聞かせましょう。

普賢菩薩のことをよく知っている人も、知らない人も、これだけのことを実践すれば必ず数々の罪業を清めることができるという道を、みんなのために、今からいろいろに説き分けて聞かせることにしましょう。

阿難よ。普賢菩薩は、はるか東のほうにある浄妙国じょうみょうこくという所に生まれた人です。その国土のありさまについては、華厳経けごんきょうの中で詳しく説明しましたから、ここではその要点だけを述べることにしましょう。

中略(ここで普賢菩薩の行をすることで何が得られるか、そしてそれぞれの人々の機根によってどれくらいの時間がかかるかの説明がなされます)

普賢菩薩はからだの大きさも無限であり、声の大きさも無限であり、そのすがた形も無限であります。しかし、この娑婆世界に来て人間を救おうとする目的のために、身を縮め、人間と比較できるぐらいの形となって現れるのです。

娑婆世界の人はとん(貪り)・じん(怒り)・(愚痴)の迷いが深いのですから、普賢菩薩は、その智慧力をもって人間の姿となり、白象に乗って出現されるのです。

中略(ここで普賢菩薩の様々な美しい姿を描写します)

このように、普賢菩薩の徳のはたらきが目に見えてきたら、さらに懺悔し、一心を込めて、ものごとを明らかに見つめ、大乗の教えに深く思いを凝らし、休んだり廃めたりすることなくそれを続けていけば、その花はついに開いてきて、金色の光を放つようになるのです。

中略(さらに普賢菩薩の美しい姿を描写し褒め称えます)

そういう尊い光景を見た修行者は、大いなる喜びを覚え、普賢菩薩を心から礼拝するでしょう。そして、さらに奥深い大乗の経典を読誦し、普く十方の諸仏を拝み、多宝仏塔および釈迦牟尼仏を礼拝し、普賢菩薩をはじめもろもろの大菩薩をも拝んで、次のような誓願を立てるでしょう。

『もし、わたくしが前世に多くの善業を積んでいるのでしたら、まさしく普賢菩薩を見たてまつることができるはずです。どうぞ普賢菩薩さま、わたくしにおすがたをまざまざとお見せくださいませ』と。

この誓願を立てたら、昼夜六回にわたって十方の仏を礼拝し、懺悔の法を行じ、大乗経を読み、誦し、その意義を思いめぐらし、その事を念じ、その教えを持つ者を敬って感謝のまごころをささげ、一切の人を見る時は仏の心となって見、すべての衆生に対しては父母のような慈悲をもって当たらなければなりません。

このような念がしっかり深まってきますと、普賢菩薩は、仏の偉大な人相と同じように、眉間の白い渦毛から光明を放ちはじめるでありましょう。

中略(さらに普賢菩薩を褒め称え、その徳の働きを説明します)

このようにして真の人生指導者たる菩薩たちを見ることのできた修行者は、身にも心にも大いなる喜びを覚え、その菩薩たちに礼を尽くして、『大慈大悲のお方。どうぞ、わたくしを憐れとおぼしめして、教え導きくださいませ』とお願いするのです。

そうしますと、菩薩たちは、必ずただ一つの純粋な大乗の法を説き聞かせ、しかも、さまざまな言葉をもって修行者を賞めたたえることでありましょう。このような境地を、普賢菩薩を観ずる第一段階の境地と名づけるのです。

このような境界に達した人が、なおも昼となく夜となく大乗の教えを念じておれば、眠りの中においても、普賢菩薩が自分のために法を説いてくださるのを見ることができましょう。

それは、現実と少しも変わりはなく、普賢菩薩が心を安んずる慰めの言葉をかけ、また、教えのここの所を忘れてはいないか、ここの所を考え違いをしてはいないかというような注意まで、与えてくださるでしょう。 修行者は、このようにして、普賢菩薩が深い教えを説かれるのを昼夜に聞き、その意味を理解し、しっかり記憶して忘れぬようになりましょう。

そして、日々にそれを繰り返していけば、心は次第に利くなり、真実がすっかり分かってくるようになるでしょう。 さらに普賢菩薩の徳は、その修行者を、十方の諸仏の境地に思い至らせるよう導くでありましょう。

そして、普賢菩薩の教えに従って、何ごとをも正しい心で、正しく考えるようになり、次第次第に心眼をもって東方の仏の、黄金の色に輝く、清らかで、えも言われず美しいおすがたを拝することができるようになるでしょう。

中略(普賢菩薩の行の説明がなされます)

その懺悔によって心がますます洗い清められれば、ふたたび普賢菩薩が現実に現れてきて、もはや行住坐臥ぎょうじゅうざがにその人の側を離れないようになりましょう。

夢の中でさえその教えを聞くことができ、目がさめてからも、法を聞きえた喜びを感じ続けるようになりましょう。 このようにして三七日を過ぎますと、善を固く持って失わず、悪を抑えて起こさせない力を得、さらに進んで、その力を他へ及ぼす感化力が身についてきます。そのために、諸仏や諸菩薩の説かれるこの上ない教えをしっかりと心にとどめて、忘れるようなことがなくなるでしょう。

そうなれば、夢の中にも過去の世の七仏のおすがたを見たてまつるようになりますが、その中で釈迦牟尼仏のみが、その人のために法を説かれるでありましょう。その他の六仏は、釈迦牟尼仏の説かれた大乗の教えを口々に賞めたたえられるでありましょう。

夢の中に諸仏を見たてまつることができた修行者は、さらに深い喜びを覚え、さらに普く十方の諸仏をふし拝まずにはおられなくなるでしょう。そうしますと、普賢菩薩はその人の前にとどまって、今まで仏を見たてまつることができなかったのは宿世の業縁によるものであることを説いて、一切の心身の汚れや罪悪を明るみに出すように勧めるでしょう。

中略(普賢菩薩の行と諸々の功徳の説明がなされます)

すると、次のような声が内心からひびいてくるはずです。──自分は長い長い過去世から現在に至るまで、不完全なものの見方をしてきた。そのために、現象として現れるものばかりにとらわれていた。したがって、五官を喜ばせるさまざまなつまらぬものを貪り、それに執着していた。その結果、女人の身として生まれ、そしてまた、目の前の現象に迷ったり執着したりすることを繰り返してきた。現象にまどわされて、真実を見る眼がくらまされていたのだ。そのために、ただもう表面の恩愛にとらわれてしまっていた。

いつも目の前に起こる現象にふり回され、三界をぐるぐるさまよっていたのだ。こうして煩悩に追い回されて心が疲れきっているために、ものごとの実相がまるっきり見えないようになってしまっていた。今、方正な中道の教えを説き、すべての衆生が仏に成ることができることを明らかにされた大乗経典を読むことができた。この経の中に、十方の諸仏は永遠の生命を持つお方であると説いてある。今や、その新しいものの見方が開けてきたのだ。

しかし、お前のその新しい見方は、本当に真実に徹しているのか。長い間ものの見方を誤っていたその傷はずいぶん深いのだから、まだまだ心もとないのではないのか。だから、わが言葉に従って、釈迦牟尼仏をはじめとする諸仏に一心に帰依し、今までのものの見方のいたらなさや誤りを、言葉に出して懺悔しなければならない──と。

中略(六根をそれぞれ一つずつ清めていく懺悔の詳しい行の説明がなされます)

以上の教えを大事に思うことが、心ある在家の人びとの懺悔の第一の道であります。

次に、父母に孝行を尽くし、先生や目上の人を尊敬すること。これが第二の懺悔の法です。

次に、正法にもとづいて国を治め、まちがった考えによって人民を邪道へ曲がらせないこと。これが第三の懺悔の法です。

次に、月に六度の精進日には、自分の治めている土地に布告を出し、支配力の及ぶ限りの所で殺生が行われないよう努力すること。これが第四の懺悔の法です。

次に、因果の道理を深く信じ、仏に至る菩薩道を信じ、久遠の仏は常に自分と共におられて滅したまわぬと知ること。これが第五の懺悔の法です。

そして仏さまは阿難に向かって、最後のしめくくりのお言葉をお述べになりました。

「将来の世において、もしこのような懺悔の法を習い修める者があったならば、その人は自らを反省するという美しい徳を身につけ、諸仏に守られ助けられて、長い年月を経ることなく仏の悟りを成就することができましょう」

仏さまがこう説き終えられますと、多くの天子たちは、あらゆるものの本当の相や性質を見ることのできる澄みきった心をもつようになり、弥勒菩薩をはじめとする諸大菩薩、及び阿難をはじめとする声聞・縁覚の人びとも、仏さまのみ教えを得て心の底から喜びを覚え、必ずそれを実践しようとする決心を固めたのでありました。

現代語の法華経訳より

この経典の中で

「われらも、長い前世に大乗の法を実践したればこそ、現在のようにすべてのものごとの実相を見極める透徹した智慧を得ることができたのです。
そなたも、まさに修行に励んで、怠ってはなりません。」

また、

「わたしも、またかつて、この世に出られた諸仏・諸菩薩も、大乗の真実の意義を深く思うことによってこそ、無限の過去世に生き死にを繰り返した間に積んできた罪を、すべて消滅させることができました。この最もすぐれた懺悔の法によってこそ、今、十方の国でそれぞれ仏となることができたのです。」

と述べている箇所がありますが、ア・コース・イン・ミラクルズ/奇跡講座(以降コースと略称)の中でもイエスは同じことを述べています。

聖霊の声は、あなたがもといた場所でありいずれ再び戻ることになる場所に戻るようにと、あなたに呼びかける声である。この世界にいても、その声だけを聞き、他の声は聞かないということは可能である。それには、努力と、学ぼうとする強い意欲とが必要である。それが、私が学んだ最後のレッスンであった。(T-5.2:3-8)

奇跡講座/中央アート出版社

そして、

「普賢菩薩はからだの大きさも無限であり、声の大きさも無限であり、そのすがた形も無限であります。しかし、この娑婆世界に来て人間を救おうとする目的のために、身を縮め、人間と比較できるぐらいの形となって現れるのです。」

とありますが、このことを仏教では三身さんじんのうちの一つで「応身おうじん」と言います。

三身は大乗仏教における、仏の三種類の身のあり方で、その他に「報身ほうじん」と「法身ほっしん」とがあります。

応身は「応現した身体」という意味で、サンスクリット語の「ニルマーナ」の「化成」という意味から、化身と同じ意味になります。

仏が衆生(人々)を済度(救済)するため、様々な形態で出現する際の姿をいいます。

この応身に対応するのは釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ、つまりこの世において悟った釈迦を表しており、コースの中においてはイエスがそれに当たります。

次に、報身は仏陀となるための因としての行を積み、その報いとしての完全な功徳を備えた仏身のことです。

また仏性のもつ属性であり、そのはたらきを意味します。

この報身に対応するのは阿弥陀仏あみだぶつであり、コースの中においては聖霊がそれに当たります。

最後に、法身は大乗仏教では絶待的な宇宙の真如そのものとしての仏陀の本体であり仏性のことです。

それは色も形もなく真実そのものの体をいいます。

真理(法)を身体としているという意味で、「法仏ほうぶつ」「法身仏ほっしんぶつ」「自性身じしょうしん」「法性身ほっしょうしん」などともいいます。

この法身に対応するのは毘盧遮那仏びるしゃなぶつであり、コースの中においては神や天の父また創造主がそれに当たります。

喜んで聖霊に耳を傾けなさい。そして、あなたに特別な関係はまったく必要ないことを、聖霊から学びなさい。あなたはそれらの中に、自分で捨て去ったものを探し求めているにすぎない。そしてあなたは、それらの関係からは、自分が投げ捨てはしたが今でも切に願っているものの価値を、決して学ぶことはない。(T-15.8:2)

奇跡講座/中央アート出版社

聖霊は、赦しが解放だと知っているのと同じくはっきりと、あなたが赦すことを恐れていることも知覚しています。

赦しを恐れるあなたを前にして、赦しは損失ではなく救済だと思い出すようにとも教えます。

そしてまた、赦すべきものは何もないと認識する完全な赦しの中で、あなたは完全に赦免されるということも教えるのです。

実相世界は、あなたが赦さずに見ている古い世界を、ただ完全に赦すだけで達成される。大いなる知覚の転換者が、この世界を作り出した心の中をあなたと一緒に丹念に探索し、あなたが世界を作り出した理由や理性のように思えていたものを、あなたの前に露呈させるだろう。あなたが聖霊に従うとき、聖霊が携えてくる真の理性の光の中で、ここにはまったく理性など無いということが示されるだろう。聖霊の理性が触れた場所はどこもみな美しく活気を帯び、理性に欠けたあなたの闇の中で醜く見えていたものが、突如として解き放たれ、麗しきものとなる。 神の子が狂気の中で作り出したものでさえ、その中に美しい閃光が隠されていないわけではなく、優しさに触れればそれは解き放たれる。(T-17.2:5)

奇跡講座/中央アート出版社

あなたが赦しのまなざしで世界を見るとき、こうした美しさのすべてが現れてあなたの視覚を祝福するようになります。

というのも、赦しは文字通り心眼ヴィジョンを変容させ、実相世界をあなたに見せるからです。

静かに優しく混沌を越えてやってくる実相世界が、それまで知覚を捻じ曲げて過去に固定していた幻想のすべてを取り除く様をあなたは心眼ヴィジョンで観るようになります。

また、赦された世界から、神の子は楽々とわが家へと引き上げられます。

そこに戻れば、あなたは自分がずっとそこで平安の内に安らいでいたことを知ります。

救済すらも夢となり、あなたの心から消えてしまうのです。

救済は夢の終わりであり、夢が終われば、救済に意味はなくなります。

天国で目覚めている者が、もはや救済の必要があるという夢を見たりはしないからです。

あなたはどれほど救済を望むのだろう。救済があなたに与えることになる実相世界は、すっかり準備を整えて、すぐにでもあなたに与えられたいと勇み立っている。聖霊はこれを一刻も早くあなたに与えたくて待ちきれない思いでいるが、それでも忍耐強く待っている。聖霊との出会いが遅れることをもはや我慢しないことによって、聖霊の我慢強さに応えなさい。あなたの救い主に喜んで会いにいきなさい。聖霊を信頼して共に歩み、この世界から抜け出て、美しさと赦しに満ちた実相世界へと入っていきなさい。(T-17.2:8)

奇跡講座/中央アート出版社

赦しというのは、特定の何かに対する無意識の反応、つまりこれまであなたを苦しめる原因となってきた古い思考体系から新たな聖霊の正しい思考体系へと書き換えられるようなものです。

ですから「赦しが完了する」にあたって、正しい教師を選び直すということが起こったなら、その特定の何かに対する自分の反応は消えてしまいます。

しかし、赦しが完了する前提として、自分の心を裁かずに観るということが大切になります。

それは、いつでも聖霊と共に自分の反応を裁きなしに観るということです。

自分をこの世界にいる個人だと思っている限り、誰もが自我からくる思いを抱きます。

そのことを直接どうこうしようとすることは、その思いに実在性を与え自分を裁くだけになります。

そこで、そのことを「ただ観ていく」という方向へ向かいます。

それは一人ではできません。

自我を教師にすれば、あなたは観るのではなくただ裁きます。

聖霊を教師にすれば、裁くのではなくただありのままに観ます。

「攻撃的な思いを抱いた」ことに気付き、「その思いを悪いものだと自分で評価している」ことに気付き、「悪い思いを抱く自分を駄目な奴だと裁いている」ことに気付く。

例えばそのように、ただ心を観ていこうとしていると、攻撃的な思いが欠落した領域・裁きの欠落した領域から心を観ていることに気付きます。

そうすると次第に聖霊と共に観ることがどのようなことか、はっきり自覚できるようになります。

自我からくる思いが心にあるなら、「その思いを抱く自分を裁く思い」も必ずそこにあります。

心を観ていくということは、攻撃的な思いを抱いた自分を裁こうとするのではなく、ただ観るという方向へ向かうこと、裁くこととは反対方向へ向かうことです。

自分で自分を裁こうとするのに逆らって、ただ観ようとすることです。

自分を裁こうとしている自分に気付いて、裁きを使わないことです。

また、赦しの実践というのは、過去のあの時の一つの出来事毎に一話完結したものでもありませんし、どういったものが心の前面に浮上してくるかはあなたにコントロールできるものでもありません。

自分の攻撃的な思いがひしひしと感じられるような時もあるし、恐れの感覚が前面に出てくる時もあるし、自分が踏み躙られたような感覚が前面に出てくる時もあるし、時空を超えた感覚が前面に感じられる時もあるし、裁きに取り憑かれているような感覚の時もあるし、裁きを超えた視線の中にいるような感覚の時もあります。

それでも、とにかく自分で自分を評価するのではなく、つまり、自分で自分を裁こうとするのではなく「ただ観ようとする」「ただ気付こうとする」という方向があることが分かっているなら、聖霊の呼びかけをあなたが聞いている何よりの証です。

聖霊は意識的に呼び出すようなものではなく、どんな状況であっても常にあなたと共にあります。

それは選択の問題です。

自分が裁きを使おうとするに応じて、その自覚がなくなるだけであり、その時あなたが手を取っているのは間違いなく狂信的で盲目的な自我という教師です。

そしてあなたがこの時、心の中でしていることは、「聖霊の判断よりも私の判断の方が正しい」という宣言です。

この傲慢で排他的な思いがあなたを苦しめるのです。


真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(3/3)に続く


あなたはもう一人ではありません。

なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。

神の子にはどんな苦しみもあり得ません。

そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。


〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜 
リンプ


参考書籍

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