真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(3/3)
真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(1/3)
真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(2/3)
赦しはただ真実でないもののみを取り除きます。
それは世界から影を取り去り、赦しの優しさに包まれた世界を、新しく清浄な知覚からなる明るい世界へと、安全に確実に運んでいくようになります。
あなたは兄弟を恐れているからこそ、神を恐れているのです。
あなたは自分が赦していない者たちを必ず恐れます。
そして、誰も恐れを傍らにして愛に到達することはできません。
罪を信じてきて、自分にはまだ多くの赦されるべきことがあると、今も信じていなければ、赦すということはしません。
したがって赦しは、自分は赦されるべきことは何もしていないと学ぶための手段となります。
赦しは、兄弟とあなた自身との間に立ちはだかるものをそっと取り除きます。
それは、兄弟と離れているのではなく繋がり合いたいというあなたの願望なのです。
それを「願望」と呼ぶのは、それは依然として他の選択を思い描いていて、まだ選択の世界を完全に超えたところまでは達していないためです。
ですが、この願望は天国の状態と軌を一にしており、神の意志と対立していません。
それはあなたが受け継いでいるもの全部をあなたに与えるには遥かに及びませんが、自分が誰でありどこに居るかという認識と、自らの存在している場である天国との間に、あなた自身が挿入した障害を取り除くことはします。
罪を証言しながらそれを赦すというのは、理性が理解することのできない矛盾です。
それは、自分に対して為されたことは赦しに値しないと主張します。
そして赦しを与えることによって兄弟に慈悲を施すが、あなたは本当は無垢なる者ではないという証拠をもち続けることになります。
病んでいる者は告発者であり被害者で居続けようとします。
そんな彼らは兄弟も自分自身も赦すことができません。
真の赦しを内に宿している者が、苦しむことはあり得ないからです。
赦した彼らは罪の証拠を兄弟の眼前に掲げることはもうしません。
したがって、彼らはそれをすでに看過し、自分の目からも取り去っているはずです。
赦しが片方だけのもので、他方には与えられないということはあり得ないからです。
赦す者は必ず癒されます。
相手が癒されることで本当に赦したことが示され、もはや彼らやすべての生けるものに対して振りかざしたくなるような咎めの気持ちを、微塵も保持してはいないとここで立証されるようになります。
傷付いている肉体は、心が癒されていないことを示しています。
癒しの奇跡は、分離は何の結果ももたらさないことを立証します。
また、あなたは自分が彼らに対して証明しようとするものを信じます。
なぜなら、証しの力はあなたの信念から生じるからです。
そして、あなたが言うこと、行うこと、考えることのすべては、あなたが何を彼らに教えているかを証言します。
あなたの肉体は、彼らのせいで苦痛を被ったことは一度もないと教えるための手段となり得ます。
そしてそれが癒されることで、彼らの無垢性についての無言の証明を彼らに差し出すことができるのです。
こうして彼らが赦されたことが彼ら自身に向かって立証されるようになります。
あなたにはどれくらい兄弟を赦したいという気持ちがあるでしょうか。
際限のない闘争と惨めさと苦痛の代わりに、あなたはどれほど平安を欲しているでしょうか。
これらの質問は、形は違いますがどちらも同じ質問なのです。
赦しと平安はイコールで結ばれています。
なぜなら、ここに分離の終焉があり、危険や破壊、罪や死、狂気や殺害、悲嘆や喪失といった諸々の夢の終焉があるからです。
これが救済が求める「犠牲」であり、救済はこれの代わりに喜んで「平安」を差し出すのです。
危険や破壊、罪や死という信念を手放すことを犠牲に思い悲しむ人などいるでしょうか。
これらが去ることで平安が得られるなら誰しも赦しをしたいと思うのではないでしょうか。
この世界に執着し、この世界の中にあるものによって自身の幸せが決まると信じている者にとっては赦しはまさに犠牲のように感じられます。
赦しは、夢を見る者を邪悪な夢から引き離し、そうすることによって兄弟を解放します。
覚えておくべきは、もし邪悪な夢を共有するなら、あなたは自分が自分の共有しているその夢だと信じることになるということです。
そして、それを恐れて、あなたは真の身元である自分自身のアイデンティティを知りたいとは思わなくなります。
なぜなら、あなたはそれが恐ろしいものだと考えるからです。
そうして、あなたは自分の「真の自己」を否定し、あなたの創造主が作り出していない異国で、あなたがあなたではない何かに見える場所を彷徨い歩くことになるのです。
あなたは、自分の敵のように見える自らの自己に戦いをしかけ、自分が憎んでいるものの一部であるとして自分の兄弟を攻撃しています。
あなたはあなたの自己か、一個の幻想か、どちらか一方でしかありません。
幻想と真理との中間に何があり得るでしょうか。
あなたがあなたではない何かであり得る中間の場とは、夢に違いなくそれが真実であるはずがありません。
怒りは決して正当化されません。
また、攻撃には何の根拠もありません。
恐れからの脱出はここにおいて始まり、いずれ完結します。
ここで、恐怖の夢と交換に、実相世界が授けられのです。
というのも、赦しはこのことの上に成立するので、ごく自然なものだからです。
あなたは、攻撃が当然で正当化される状況で赦しを差し出すよう求められているのではありません。
なぜなら、そうすることは、実際にそこにあるものを大目に見ることによって罪を赦すという意味になるからです。
これが赦しではなく、「偽りの赦し」であり「破壊するための赦し」であることをあなたは既に学びました。
というのは、それが想定していることは、
「あなたによる赦しは正当化できない形で応答することになり、それにより、それは実際に為された攻撃に対する答えとなる」
ということだからです。
このようにして赦しは、それに値しないところに授けられることによって、不適切なものだということになってしまいます。
このように理解することが、実相世界を生起させて恐怖の夢と入れ替わらせることになる唯一の変化になります。
攻撃が正当とされない限り、あなたに恐れが生じることはあり得ず、またもし恐れに実在する根拠があるとしたら、赦しには何の根拠もないことになってしまいます。
赦しの土台は非常に実在性があり充分に正当と認められるものだとあなたが知覚したとき、実相世界が達成されます。
あなたがそれを不当な贈り物と見なしている間は、それは、あなたが「赦そう」としている罪悪を支持するものとならざるを得ません。
正当でない赦しは常に攻撃なのです。
そして、これがこの世界が与えることのできるすべてです。
この世界は時には「罪人たち」を赦しますが、彼らが罪を犯したことはいつまでも覚えています。
したがって、彼らは世界が与える赦しに値しないことになってしまいます。
何度も言いますが、これは、罪の感覚を生かし続けるために世界が用いる「偽りの赦し」であり「破壊するための赦し」です。
このようにして、赦しを不相応なものと見ることは確実に神に対する恐れという結果をもたらします。
自分自身を有罪と見なす者はみな神を恐れずにはいられません。
しかし、もしあなたが赦すことができればこのジレンマから解放されます。
心は自らを見ている通りに、自らの創造主のことを思わざるを得ないからです。
兄弟が赦しに値するということが理解できれば、あなたは赦しは彼らの権利であるのと同じくあなたの権利でもあることを学んだことになります。
また、あなたは兄弟にふさわしくない恐ろしい裁きを神があなたに下そうと意図していると考えることもありません。
なぜなら、あなたにふさわしいことは彼らにふさわしいこと以上でも以下でもないということが、真実だからです。
当然のものとして認識された赦しは、癒しをもたらす。
それは、幻想を看過する強さを奇跡に与えます。
このようにして、あなたは自分も赦されているはずだということを学ぶのです。
ですから、看過することのできない外観や形態というものはあり得ません。
もしそのようなものがあったとしたら、まず最初に、赦しが及ばない何らかの罪が存在していなければならないことになるからです。
これでは間違い以上の誤り、すなわち不変かつ永遠であり、訂正も脱出も不可能な特別な形をした誤りというものが存在することになってしまいます。
それは、被造物を取り消し、それに取って代わる世界を作り出し、神の意志を破壊する力をもった一つの間違いがあるということを意味します。
このようなことが可能であった場合にのみ、奇跡に逆らって存続し、奇跡によって癒されることのない外観や形態というものがあり得ることになります。
ですが、こういった偶像が作り出す外観や形態が、その土台が偶像、つまり幻想であるが故にそれが真実になることは絶対にあり得ません。
自分の狂気について自分を赦し、すべての無意味な旅やゴールのない目標を忘れることが大切です。
そうしたものには何の意味もありません。
あなたは自分の本性である「真の自己」から逃げ出すことはできません。
なぜなら、神は慈悲深く、放蕩息子の物語のように、わが子にご自身を見捨てさせはしなかったからです。
神が神であることに、あなたは感謝すべきです。
その事実の中にこそ、狂気と死からあなたが逃れる道があるからです。
神が居る場所でしか、あなたが見出されることはありません。
また、神へと至らない道は存在しません。
あなたは赦しを選択しますか。
そうであれば、この世界も赦すものとなります。
あなたが世界の罪を赦したので、世界はあなたと同じ眼差しであなたを見るようになります。
ひとりの兄弟が完全に赦しに値するものとしてあなたの視覚に映るなら、そのとき自分自身についてのあなたの概念は完全に変化します。
あなたの邪悪な想念は彼ら兄弟の想念と共に赦されたのです。
なぜなら、あなたは自分にそれらの想念からの影響をまったく受けさせなかったからです。
あなたはもはや、自分を彼らの中の邪悪さと罪悪のしるしにすることを選択することはありません。
そうしてあなたが、自分の信頼を彼らの中の善なるものに与えるとき、あなたはそれを自らの中の善なるものにも与えることになります。
赦しの夢は、自分の外側にある世界を夢見ることから一歩離れるための手段です。
そしてまた、最後にはすべての夢を超えて永遠の生命の平安へと至るための手段でもあります。
赦しとはもとより何も起こってはいないことを知覚しないことにより、実在しないものに対して適切に応答するようにと、あなたに求めます。
もし赦しが正当でないとしたら、攻撃に赦しで応じるとき、あなたは自分の権利を犠牲にするよう求められていることになります。
しかし、あなたに求められているのは、誤りに基づいている苦悩への、すなわち助けを求めている苦悩への自然な反応として、赦しを観ることだけなのです。
赦しだけがこの世界で唯一の正気の応答なのです。
実在するものは脅かされません。
そして実在しないものは存在しません。
ここに神の平安があります。
真理は不変であり、永遠にして明瞭なものです。
真理が認識されないということはあり得ますが、変更されることはあり得ません。
真理は神が創造したものすべてにあてはまり、神が創造したもののみが実在するのです。
知覚でとらえるこの世界は、相対立するものごとや複数に分離した意志を信じる信念によって作られており、そうした意志はお互いの間および神との間で絶え間なく葛藤しています。
知覚が見聞きするものはあたかも実在するかに見えますが、その理由は、知覚する主体である本人の願望に一致するもののみが自覚されるからです。
これが、幻想の世界を作り上げます。
その世界は、それが実在しないというまさにその理由故に、絶え間ない防衛を必要としています。
知覚の世界に捕らえられているとき、あなたは夢の中に閉じ込められています。
助けがなければ、あなたがそこから逃れることはできません。
なぜなら、自我によって捏造された肉体による五感があなたに見せるものはすべて、その夢の実在性を証言するだけだからです。
神は、そこから抜け出す唯一の道にして真の助力者である答えを与えました。
二つの世界を媒介することが、神の声すなわち聖霊のはたらきです。
聖霊にこれができる理由は、聖霊が一方では真理を知っており、他方では、私たちの幻想を信じ込むことなくそれを幻想と認識するからです。
神は一度も咎めたことはないので、赦すことはしません。
ですが、私たちにとっては赦しは必要不可欠なものです。
なぜなら、私たちは自身の罪悪感を常に誰かに投影し咎めているからです。
赦しはこの世界が大いに必要としているものですが、それはここが幻想の世界だからです。
ですから、赦す者たちは、自らを幻想から解放しているのであり、赦しを与えずにおく者たちは、自分自身を幻想に縛りつけているのです。
そしてあなたが咎める相手はあなた自身だけであり、あなたが赦す相手もあなた自身だけなのです。
また、神は赦すことはしないとはいえ、赦しの土台は常に神の愛によってできています。
恐れは咎め、愛は赦す。
そうして赦しは、恐れが生み出したものを取り消し、心が再び神を自覚できるようにします。
だからこそ、赦しは真に救済だと言えるのです。
それは、法華経に真の懺悔のみが幻想を一掃できると説いているのと全く同じように、「赦し」のみがこの罪の世界を消し去るための唯一の手段なのです。
それが「悟り」であり、「救済」なのです。
赦しを通して、いつでもこの世界の喧騒から、内なる静寂へと向かって下さい。
そうすれば「永遠なる自由」と「永続的な安らぎ」があなたを常に支えていたこと、そしてその「無条件なる愛」そのものとあなたが一体であったことが自覚されることでしょう。
あなたが聖霊の手を取り、自身の平安と、そして兄弟の救済のために赦しを選択することができるよう祈っています。
そして、あなたと兄弟がともに聖霊による祝福を受け取ることができますように・・・
聖霊とともに行う赦しの具体例と聖人による赦しの実例(1/3)に続く
あなたはもう一人ではありません。
なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。
神の子にはどんな苦しみもあり得ません。
そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。
〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜
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参考書籍
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