見出し画像

真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(3/3)

真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(1/3)
真の自由と永遠なる平安は「赦し」を通してやってくる(2/3)


赦しはただ真実でないもののみを取り除きます。

それは世界から影を取り去り、赦しの優しさに包まれた世界を、新しく清浄な知覚からなる明るい世界へと、安全に確実に運んでいくようになります。

あなたは兄弟を恐れているからこそ、神を恐れているのです。

あなたは自分が赦していない者たちを必ず恐れます。

そして、誰も恐れを傍らにして愛に到達することはできません。

いかなる誤りも例外とせず、何も隠されたままにしない完全な赦しのまなざしで、あなたが兄弟を見つめたとき、あなたに看過できないような間違いが、いったいどこにあるだろう。どのような形の苦しみがあなたの視覚を遮り、あなたがそれを通り越して見るのを妨げることができるだろう。そして、あなたが間違いであると認識しないような幻想があり得るだろうか。あなたはそれを一つの影と認識し、まったくうろたえることなく歩いて通り抜けるだろう。(T-22.6:7)

奇跡講座/中央アート出版社

罪を信じてきて、自分にはまだ多くの赦されるべきことがあると、今も信じていなければ、赦すということはしません。

したがって赦しは、自分は赦されるべきことは何もしていないと学ぶための手段となります。

赦しは罪の世界を、見るも素晴らしい栄光の世界へと変容させる。花という花はみな光の中で輝き、鳥はみな天国の喜びの歌をさえずる。すべての者が完全に赦されているので、ここには悲しみもなく、別れもない。そして、赦された者たちの間には互いを引き離し隔離するものがないので、彼らは必ずつながり合うことになる。罪のない者たちの間には互いを押しのけるものが存在しないので、彼らは必ず自分たちがひとつのものだと知覚することになる。そして罪が何も残さずに去った後の空間において、彼らは、自分たちの一部であるものが別々に分離されてはいなかったことを認識し、喜びの中でひとつにつながる。(T-26.4:2)

奇跡講座/中央アート出版社

赦しは、兄弟とあなた自身との間に立ちはだかるものをそっと取り除きます。

それは、兄弟と離れているのではなく繋がり合いたいというあなたの願望なのです。

それを「願望」と呼ぶのは、それは依然として他の選択を思い描いていて、まだ選択の世界を完全に超えたところまでは達していないためです。

ですが、この願望は天国の状態と軌を一にしており、神の意志と対立していません。

それはあなたが受け継いでいるもの全部をあなたに与えるには遥かに及びませんが、自分が誰でありどこに居るかという認識と、自らの存在している場である天国との間に、あなた自身が挿入した障害を取り除くことはします。

癒されていない者たちは、赦すことができない。なぜなら、彼ら自身が、赦しは不公平だということの証人だからである。彼らは罪悪は看過しても、それが引き起こした結果はもち続ける。しかし、実在すると自分で信じている罪を赦すことができる者はいない。そして、結果をもたらしたものは実在しているに違いない。なぜなら、それが為したものはそこにあり、目に見えているからである。赦しは憐憫とは違い、本人にとって真理と思えるものを看過して赦そうとするのではない。そもそも悪に対し善で報いること自体が不可能なことである。赦しは最初に罪を確立して、その後にそれを赦すことはしない。「兄弟よ、あなたは私を傷つけた。しかし、二人の中では私のほうが善人なので、私が受けた傷についてあなたを赦すことにする」などと、誰が本気で言えるだろう。彼の赦しとあなたの傷は共存できない。一方が他方を否定し、偽りとせざるを得ない。(T-27.2:2)

奇跡講座/中央アート出版社

罪を証言しながらそれを赦すというのは、理性が理解することのできない矛盾です。

それは、自分に対して為されたことは赦しに値しないと主張します。

そして赦しを与えることによって兄弟に慈悲を施すが、あなたは本当は無垢なる者ではないという証拠をもち続けることになります。

病んでいる者は告発者であり被害者で居続けようとします。

そんな彼らは兄弟も自分自身も赦すことができません。

真の赦しを内に宿している者が、苦しむことはあり得ないからです。

赦した彼らは罪の証拠を兄弟の眼前に掲げることはもうしません。

したがって、彼らはそれをすでに看過し、自分の目からも取り去っているはずです。

赦しが片方だけのもので、他方には与えられないということはあり得ないからです。

赦す者は必ず癒されます。

相手が癒されることで本当に赦したことが示され、もはや彼らやすべての生けるものに対して振りかざしたくなるような咎めの気持ちを、微塵も保持してはいないとここで立証されるようになります。

赦しは、それがあなたの兄弟とあなた自身に癒しをもたらさない限り、本当のものではない。彼の罪が実在しないことを実証するためには、あなたはそれが自分にいかなる結果ももたらしていないことを証言しなければならない。それ以外に、どうして彼が無罪となり得るだろう。また、彼が、罪悪感を抱くことを当然とするようないかなる結果も引き起こしていないというのでない限り、どうして彼の無垢性が正当なものとされるだろう。罪とは、完全に取り消して看過することのできない結果を引き起こすはずのものだというだけの理由で、赦しの及ばないものである。結果が取り消されるとき、罪は単なる誤りであることが証明される。あなたが赦す者となり、兄弟と自分自身に救いを差し出せるようになるために、自分に癒しを受け入れなさい。(T-27.2:4)

奇跡講座/中央アート出版社

傷付いている肉体は、心が癒されていないことを示しています。

癒しの奇跡は、分離は何の結果ももたらさないことを立証します。

また、あなたは自分が彼らに対して証明しようとするものを信じます。

なぜなら、証しの力はあなたの信念から生じるからです。

そして、あなたが言うこと、行うこと、考えることのすべては、あなたが何を彼らに教えているかを証言します。

あなたの肉体は、彼らのせいで苦痛を被ったことは一度もないと教えるための手段となり得ます。

そしてそれが癒されることで、彼らの無垢性についての無言の証明を彼らに差し出すことができるのです。

こうして彼らが赦されたことが彼ら自身に向かって立証されるようになります。

赦しの夢は、自分の外側にある世界を夢見ることから一歩離れるための手段である。そしてまた、最後にはすべての夢を超えて永遠の生命の平安へと至るための手段である。(T-29.5:8-5)

奇跡講座/中央アート出版社

あなたにはどれくらい兄弟を赦したいという気持ちがあるでしょうか。

際限のない闘争と惨めさと苦痛の代わりに、あなたはどれほど平安を欲しているでしょうか。

これらの質問は、形は違いますがどちらも同じ質問なのです。

赦しと平安はイコールで結ばれています。

なぜなら、ここに分離の終焉があり、危険や破壊、罪や死、狂気や殺害、悲嘆や喪失といった諸々の夢の終焉があるからです。

これが救済が求める「犠牲」であり、救済はこれの代わりに喜んで「平安」を差し出すのです。

危険や破壊、罪や死という信念を手放すことを犠牲に思い悲しむ人などいるでしょうか。

これらが去ることで平安が得られるなら誰しも赦しをしたいと思うのではないでしょうか。

この世界に執着し、この世界の中にあるものによって自身の幸せが決まると信じている者にとっては赦しはまさに犠牲のように感じられます。

赦しは、夢を見る者を邪悪な夢から引き離し、そうすることによって兄弟を解放します。

覚えておくべきは、もし邪悪な夢を共有するなら、あなたは自分が自分の共有しているその夢だと信じることになるということです。

そして、それを恐れて、あなたは真の身元である自分自身のアイデンティティを知りたいとは思わなくなります。

なぜなら、あなたはそれが恐ろしいものだと考えるからです。

そうして、あなたは自分の「真の自己」を否定し、あなたの創造主が作り出していない異国で、あなたがあなたではない何かに見える場所を彷徨い歩くことになるのです。

あなたは、自分の敵のように見える自らの自己に戦いをしかけ、自分が憎んでいるものの一部であるとして自分の兄弟を攻撃しています。

あなたはあなたの自己か、一個の幻想か、どちらか一方でしかありません。

幻想と真理との中間に何があり得るでしょうか。

あなたがあなたではない何かであり得る中間の場とは、夢に違いなくそれが真実であるはずがありません。

赦しの夢は、永続する必要はほとんどない。それらは、心が思考することから心を分離させるために作り出されてはいない。赦しの夢は、その夢が誰か別な者によって見られていることを証明しようとはしない。そして、赦しの夢の中では、時間のはじまり以来聞かれたことはなかったが、誰もが今も覚えている旋律が聞こえる。赦しは、いったん完璧なものとなれば、すぐ近くまで超時性を運んでくるので、天国の歌が聞こえるようになる。それは耳で聞くのではなく、神の子の内側深くに永遠にあり続ける祭壇から一度も去ったことのない聖性をもって聞く歌である。この歌を再び聞くとき、彼は、自分がそれを聞いていなかったことは一度もなかったということを知る。そして、裁きの夢が片づけられたとき、どこに時間が存在するというのだろう。(T-29.9:8)

奇跡講座/中央アート出版社

赦しという目的がまだ残っているので、まだ天国は完全には想起されてはいない。しかし、すべての者が、いずれ自分が赦しを超えていくということは確信している。彼は、自分の中で赦しが完璧になるまでそこにとどまるだけである。彼はこれ以外に何も望まない。そして、目的において彼は自分自身と一つになっているので、恐れはなくなっている。彼の中には幸福の希望が非常に確かに、恒常的に存在するので、足はかろうじて地についているだけで、もはやこれ以上待ちきれないほどである。しかし、彼は、すべての手がつながって、あらゆるこころが自分と共に昇っていく準備ができるまでは、喜んで待つ。なぜなら、そうすることによって、彼にもまたすべての赦しを後にすることになるあの一歩のための準備が整うからである。(T-30.5:3)

奇跡講座/中央アート出版社

怒りは決して正当化されません。

また、攻撃には何の根拠もありません。

恐れからの脱出はここにおいて始まり、いずれ完結します。

ここで、恐怖の夢と交換に、実相世界が授けられのです。

というのも、赦しはこのことの上に成立するので、ごく自然なものだからです。

あなたは、攻撃が当然で正当化される状況で赦しを差し出すよう求められているのではありません。

なぜなら、そうすることは、実際にそこにあるものを大目に見ることによって罪を赦すという意味になるからです。

これが赦しではなく、「偽りの赦し」であり「破壊するための赦し」であることをあなたは既に学びました。

というのは、それが想定していることは、

「あなたによる赦しは正当化できない形で応答することになり、それにより、それは実際に為された攻撃に対する答えとなる」

ということだからです。

このようにして赦しは、それに値しないところに授けられることによって、不適切なものだということになってしまいます。

赦しは常に正当である。それには確かな根拠がある。あなたは赦すべきでないものを赦すのではなく、罰を必要とする真の攻撃を大目に見るのでもない。救済は、実在するものに対して不適切であるような、不自然な応答をするよう求められることの中にはない。そうではなく、もとより起こってはいないことを知覚しないことにより、実在しないものに対して適切に応答するようにと、あなたに求めるだけである。もし赦しが正当でないとしたら、攻撃に赦しで応じるとき、あなたは自分の権利を犠牲にするよう求められていることになる。しかし、あなたに求められているのは、誤りに基づいている苦悩への、すなわち助けを求めている苦悩への自然な反応として、赦しを見ることだけである。赦しだけが唯一の正気の応答である。それはあなたの権利が犠牲にされないように守っている。(T-30.6:2)

奇跡講座/中央アート出版社

このように理解することが、実相世界を生起させて恐怖の夢と入れ替わらせることになる唯一の変化になります。

攻撃が正当とされない限り、あなたに恐れが生じることはあり得ず、またもし恐れに実在する根拠があるとしたら、赦しには何の根拠もないことになってしまいます。

赦しの土台は非常に実在性があり充分に正当と認められるものだとあなたが知覚したとき、実相世界が達成されます。

あなたがそれを不当な贈り物と見なしている間は、それは、あなたが「赦そう」としている罪悪を支持するものとならざるを得ません。

正当でない赦しは常に攻撃なのです。

そして、これがこの世界が与えることのできるすべてです。

この世界は時には「罪人たち」を赦しますが、彼らが罪を犯したことはいつまでも覚えています。

したがって、彼らは世界が与える赦しに値しないことになってしまいます。

何度も言いますが、これは、罪の感覚を生かし続けるために世界が用いる「偽りの赦し」であり「破壊するための赦し」です。

このようにして、赦しを不相応なものと見ることは確実に神に対する恐れという結果をもたらします。

自分自身を有罪と見なす者はみな神を恐れずにはいられません。

しかし、もしあなたが赦すことができればこのジレンマから解放されます。

心は自らを見ている通りに、自らの創造主のことを思わざるを得ないからです。

兄弟が赦しに値するということが理解できれば、あなたは赦しは彼らの権利であるのと同じくあなたの権利でもあることを学んだことになります。

また、あなたは兄弟にふさわしくない恐ろしい裁きを神があなたに下そうと意図していると考えることもありません。

なぜなら、あなたにふさわしいことは彼らにふさわしいこと以上でも以下でもないということが、真実だからです。

当然のものとして認識された赦しは、癒しをもたらす。

それは、幻想を看過する強さを奇跡に与えます。

このようにして、あなたは自分も赦されているはずだということを学ぶのです。

ですから、看過することのできない外観や形態というものはあり得ません。

もしそのようなものがあったとしたら、まず最初に、赦しが及ばない何らかの罪が存在していなければならないことになるからです。

これでは間違い以上の誤り、すなわち不変かつ永遠であり、訂正も脱出も不可能な特別な形をした誤りというものが存在することになってしまいます。

それは、被造物を取り消し、それに取って代わる世界を作り出し、神の意志を破壊する力をもった一つの間違いがあるということを意味します。

このようなことが可能であった場合にのみ、奇跡に逆らって存続し、奇跡によって癒されることのない外観や形態というものがあり得ることになります。

ですが、こういった偶像が作り出す外観や形態が、その土台が偶像、つまり幻想であるが故にそれが真実になることは絶対にあり得ません。

偶像崇拝があなたの望んでいるものだということの確かな証拠としては、「赦しが癒せない何らかの形の病気や侘しさといったものが存在する」という信念以上のものはない。これは、あなたがいくつかの偶像はもち続けたいと思っており、まだすべての偶像を手放す準備ができていないことを意味している。そのようにして、あなたはいくつかの外観は実在しており、それらはただの外観などではないと考える。外観の中には他のものに比べて看過しにくいものがある、という固定観念が意味していることについて騙されてはならない。それが意味しているのは常に、あなたが赦しは限定されなければならないと考えているということである。そして、あなたは偏った赦しと罪悪感からの限定的な脱出というゴールを自分に設定したのである。これが、あなた自身と、あなたから分離しているように見えるすべての者に対する偽りの赦しでなくて何だろう。(T-30.6:6)

奇跡講座/中央アート出版社

自分の狂気について自分を赦し、すべての無意味な旅やゴールのない目標を忘れることが大切です。

そうしたものには何の意味もありません。

あなたは自分の本性である「真の自己」から逃げ出すことはできません。

なぜなら、神は慈悲深く、放蕩息子ほうとうむすこの物語のように、わが子にご自身を見捨てさせはしなかったからです。

放蕩息子の喩え話に耳を傾け、神の宝とあなたの宝とは何であるかを学びなさい。愛情深い父親をもつ息子は家出をして、何の価値もないもののためにすべてを浪費してしまったと考えた。しかし、そのときは、それが無価値なものであることが、彼にはわかっていなかった。彼は父のもとに帰ることを恥ずかしく思ったが、それは自分が父を傷つけたと考えたからである。だが、彼が家に戻ったとき、父は喜んで彼を迎えた。なぜなら、まさにこの息子こそが父の宝だったからである。父親はそれ以外に何も望んではいなかった。(T-8.6:4)

奇跡講座/中央アート出版社

神が神であることに、あなたは感謝すべきです。

その事実の中にこそ、狂気と死からあなたが逃れる道があるからです。

神が居る場所でしか、あなたが見出されることはありません。

また、神へと至らない道は存在しません。

あなたは赦しを選択しますか。

そうであれば、この世界も赦すものとなります。

あなたが世界の罪を赦したので、世界はあなたと同じ眼差しであなたを見るようになります。

ひとりの兄弟が完全に赦しに値するものとしてあなたの視覚に映るなら、そのとき自分自身についてのあなたの概念は完全に変化します。

あなたの邪悪な想念は彼ら兄弟の想念と共に赦されたのです。

なぜなら、あなたは自分にそれらの想念からの影響をまったく受けさせなかったからです。

あなたはもはや、自分を彼らの中の邪悪さと罪悪のしるしにすることを選択することはありません。

そうしてあなたが、自分の信頼を彼らの中の善なるものに与えるとき、あなたはそれを自らの中の善なるものにも与えることになります。

あなたに与えられている世界の光を、世界から隠されたままにしてはならない。世界は光を必要としている。ここはまことに暗く、人々は救済者の心眼を与えられずに、死だけを見ているので絶望している。彼らの救済者は、知ることも知られることもなくたたずみ、閉じられた目で彼らを見ている。彼が、見ることのできる目で彼らを見て、彼自身を赦すことで彼らに赦しを差し出すまでは、彼らは見ることができない。神から「わが子を解放せよ!」と言われているあなたが、神が解放を求めているのはあなたのためだと学んだときに、それに耳を傾けたくないという誘惑に負けたりするだろうか。そして、このコースが教えようとしていることは、これ以外に何があるというのだろう。そして、あなたが学ぶべきことは、これ以外に何があるというのだろう。(T-30.7:15)

奇跡講座/中央アート出版社

世界の救済者たちのひとりとして自分の持ち場につくのか、それとも、地獄にとどまり、兄弟たちもそこにつなぎとめておくのか、自分がどちらにしたいのかを、もう一度、選び直しなさい。(T-31.8:1-5)

奇跡講座/中央アート出版社

赦しの夢は、自分の外側にある世界を夢見ることから一歩離れるための手段です。

そしてまた、最後にはすべての夢を超えて永遠の生命の平安へと至るための手段でもあります。

赦しとはもとより何も起こってはいないことを知覚しないことにより、実在しないものに対して適切に応答するようにと、あなたに求めます。

もし赦しが正当でないとしたら、攻撃に赦しで応じるとき、あなたは自分の権利を犠牲にするよう求められていることになります。

しかし、あなたに求められているのは、誤りに基づいている苦悩への、すなわち助けを求めている苦悩への自然な反応として、赦しを観ることだけなのです。

赦しだけがこの世界で唯一の正気の応答なのです。

神の子は完全無欠である。さもなければ、彼は神の子ではあり得ない。また、もしあなたが、彼は罪悪感のあらゆる結果や形態から脱出するに値しないと考えるなら、あなたが彼を知ることはないだろう。あなたが自分自身についての真実を知りたいと思うなら、彼については次のように考える以外にない。父よ、あなたの完全無欠な子について感謝します。そして私は、彼の栄光の中に、私自身の栄光を見るでしょう。 ここに、神の意志に打ち勝つことができるようないかなる形の悪も存在しないという、喜ばしい声明がある。すなわち、あなたの願望をもってしても、罪悪は幻想を実在のものにすることに成功しなかったということの喜ばしい確認である。そしてこれは、真理についての簡潔な声明でなくて何だろう。(T-30.6:9)

奇跡講座/中央アート出版社

実在するものは脅かされません。

そして実在しないものは存在しません。

ここに神の平安があります。

真理は不変であり、永遠にして明瞭なものです。

真理が認識されないということはあり得ますが、変更されることはあり得ません。

真理は神が創造したものすべてにあてはまり、神が創造したもののみが実在するのです。

知覚でとらえるこの世界は、相対立するものごとや複数に分離した意志を信じる信念によって作られており、そうした意志はお互いの間および神との間で絶え間なく葛藤しています。

知覚が見聞きするものはあたかも実在するかに見えますが、その理由は、知覚する主体である本人の願望に一致するもののみが自覚されるからです。

これが、幻想の世界を作り上げます。

その世界は、それが実在しないというまさにその理由故に、絶え間ない防衛を必要としています。

知覚の世界に捕らえられているとき、あなたは夢の中に閉じ込められています。

助けがなければ、あなたがそこから逃れることはできません。

なぜなら、自我によって捏造された肉体による五感があなたに見せるものはすべて、その夢の実在性を証言するだけだからです。

神は、そこから抜け出す唯一の道にして真の助力者である答えを与えました。

二つの世界を媒介することが、神の声すなわち聖霊のはたらきです。

聖霊にこれができる理由は、聖霊が一方では真理を知っており、他方では、私たちの幻想を信じ込むことなくそれを幻想と認識するからです。

聖霊とは、父なる神と分離した神の子らとの間の親交の絆だと思い出しなさい。聖霊の声に耳を傾けるなら、あなたには、自分が傷つけることも傷つけられることもあり得ないとわかり、また、多くの者がこのことを自分で聞くことができるようになるための助けとして、あなたからの祝福を必要としていることがわかるだろう。(T-6.1:19)

奇跡講座/中央アート出版社

神は一度も咎めたことはないので、赦すことはしません。

ですが、私たちにとっては赦しは必要不可欠なものです。

なぜなら、私たちは自身の罪悪感を常に誰かに投影し咎めているからです。

赦しはこの世界が大いに必要としているものですが、それはここが幻想の世界だからです。

ですから、赦す者たちは、自らを幻想から解放しているのであり、赦しを与えずにおく者たちは、自分自身を幻想に縛りつけているのです。

そしてあなたが咎める相手はあなた自身だけであり、あなたが赦す相手もあなた自身だけなのです。

また、神は赦すことはしないとはいえ、赦しの土台は常に神の愛によってできています。

恐れは咎め、愛は赦す。

そうして赦しは、恐れが生み出したものを取り消し、心が再び神を自覚できるようにします。

だからこそ、赦しは真に救済だと言えるのです。

それは、法華経ほけきょうに真の懺悔さんげのみが幻想を一掃できると説いているのと全く同じように、「赦し」のみがこの罪の世界を消し去るための唯一の手段なのです。

それが「悟り」であり、「救済」なのです。

赦しを通して、いつでもこの世界の喧騒から、内なる静寂へと向かって下さい。

そうすれば「永遠なる自由」と「永続的な安らぎ」があなたを常に支えていたこと、そしてその「無条件なる愛」そのものとあなたが一体であったことが自覚されることでしょう。


あなたが聖霊の手を取り、自身の平安と、そして兄弟の救済のために赦しを選択することができるよう祈っています。

そして、あなたと兄弟がともに聖霊による祝福を受け取ることができますように・・・


聖霊とともに行う赦しの具体例と聖人による赦しの実例(1/3)に続く


あなたはもう一人ではありません。

なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。

神の子にはどんな苦しみもあり得ません。

そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。


〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜 
リンプ


参考書籍

記事内容を気に入っていただけましたら、サポートしていただけると嬉しいです!