時間とは何か? 時間の目的とは?(3/4)
時間とは何か? 時間の目的とは?(1/4)
時間とは何か? 時間の目的とは?(2/4)
前回の記事で、「奇跡の原理13」より
”奇跡は始まりでもあり終わりでもあり、それゆえに、時間系を変更する”
という概念について述べました。
これは、奇跡が問題をピックアップするように隔離して「今あなたが集中すべき問題はここにあります」というのと同じ意味である、と理解することができます。
そして、それを通過して行くことが、時間系を変更することであると分かります。
あなたの問題のすべてが過去に根ざしていますから、あなたがすべきことは「問題は過去に存在しない」と宣言することなのです。
問題は本当に今現在の中にあります。
今この瞬間にここで、あなた自身が選択しているのです。
そして、今、あなたは別の選択ができるのです。
そしてそれが「再生の肯定」となり、「後退するように見えるが実際には前進する」のです。
これがこの、コースが「再生する」と言うときに意味していることです。
これは、根本主義のキリスト教信者たちがこの言葉を使うときのような意味ではありません。
それは、自我ではなく聖霊に従いながら生きることを選択するという意味においての「再び生まれる」という意味なのです。
自我に従うことは、あなたを死に追いやることであり、聖霊に従うことは、あなたを永遠の命へと復活させます。
奇跡とは実際、その永遠の命の肯定なのです。
そしてそれが、あなたが違った考え方をするようになるという意味において、再生することになるのです。
それが後退するかに見えるというのは、それが過去を癒すからです。
もしあなたが、今この瞬間に誰かに対して怒っているなら、あなたは今この瞬間には兄弟と共に生きていません。
あなたは赦さない思いを過去から持ってきているのです。
過去とは、誰かがあなたや他の人々に行ったことにまつわる過去であるかもしれないし、あるいは、あなた自身の過去において、自分に必要だと信じていた何らかのものごとに基づいているものかもしれません。
ですから、赦しという奇跡は現在において過去を取り消します。
そしてそれが、未来を解き放ちます。
解き放つとは、その対象の必要性がすでになくなったため完全に手放すことを意味します。
罪悪感を隠し持ち続けること、つまり赦したくないというあなたの思いが真に意味していることは、この世界に罰を永遠と見続けたいという願望なのです。
そして、そうするためには、あなたは生まれることと、死ぬことを繰り返すしかありません。
この幻想の世界で、時間という永遠に長いレールを自ら引きながら、あなたはその上を肉体という脆弱な列車で、他の列車と競争しながらただひたすら走っているに過ぎないのです。
今この瞬間にはたらく奇跡のみが、時間のレールを取り消すことが可能なのです。
あなたが自身の(一なる自己の)罪悪感を赦しはじめると、時間のレールを生み出していた力が弱まります。
あなたは、罪悪感を出来事や対人関係の中で完全に赦すまでは、幻想でしかない時間と肉体であっても、それを必要とします。
自我は、それらを分離を強化するために使用しますが、聖霊はそれを赦しの手段とするために使用することは前にも述べました。
ですから、もはや世界に罰を見るために時間と肉体がただ浪費されるのではなく、赦しを完成させるただ一つの目的のためだけに、時間と肉体があるだけだ、とあなたは知ります。
そして、その目的が達成されれば時間はその意味を失い、肉体はその役目を終えてただそっと横たえられ、あなたはこの世界を去るだけとなります。
ということは、あなたは肉体の死によってこの世を離れるか、真理によって肉体から離れるかのどちらかしかないということになります。
一方は苦しみを伴い、この世界こそが己の住処と信じて、またここへと舞い戻ってくることを選択しますが、もう一方は完全なる安らかさによって安息の地という真の住処を思い出すことでこの世界から離れ去ります。
これを、「解脱」や「悟り」、また「出離」などと言います。
あなたは自分が作り出した悪夢からただ「目醒めた」だけなのであり、神からは一度も離れたことはなかったのです。
したがって、奇跡は自我による時間についての考え方を取り上げて、あなたをそこから自由にするのです。
自我の時間についての考え方は直線的ですから、過去の罪悪感を取り上げて、未来に投影します。
私の罪ある過去の故に、今、私は未来がもたらすことになるであろうものを恐れるようになります。
老後に充分な貯えが持てるかどうかと不安になったり、社会の仕組みや他人の言動に腹を立てたり、自分に何か恐ろしいことが起こるのではないかと恐れを感じたり、聖霊の声が聞こえないと愚痴ったり、学びが目に見えて現れないことを焦ったり、このカリキュラムが間違っているのではないかと疑ったりします。
これらの恐れのすべては、過去にある罪悪に根ざしており、その罪悪というのは究極的には「私は神に対して罪を犯した」という信念に根ざしています。
そして、それは当然の帰結として「神は私を罰しに来るだろう」という恐れを抱かせます。
この神による報復があまりにも恐ろし過ぎるあまり、神の子は神の懲罰をどうにか免れるための手段として、自分で自分自身を罰する決断を取ったのです。
しかし、その罪悪感をたった一人で抱えたくないと思った神の子は自身の心をバラバラにすることを選択します。
こうして、はじめの分離で生じた自我の間違った心は、さらに分断と細分化を続け、その粉々になった一つひとつの心に罪悪感を背負わせることでなんとか巨大な恐れを一度に受けることから免れようとしたのです。
神を恐れた神の子の決断はこのようなのもです。
「神を裏切った罪深さによって、私はその罰を他者と切り離された孤独で脆弱な物理的肉体として、この時間と空間に拘束された世界で生まれて死ぬことを繰り返すことで、その罪を償いますからどうか許してください」
そして、その決断を叶える夢の世界を自ら作り出して神の子はその中へと眠り堕ちて行ったのです。
その結果、分離の階梯の最下底で神の記憶と神の子の決断は失われ、自我と一体となった神の子は真理に暗くなってしまったがために「神が私を天国から追い出した!」と思うようになります。
これが、いわゆる楽園追放として伝わっている物語の背景となっているものです。
つまり、楽園追放とは神から分離した後の眠りに堕ちた神の子の側の視点であるということです。
こうして、自我が時間の使用において行うことは、過去の罪を使って未来に恐れを投影し、それにより現在を完全に排除することです。
自我にとってみれば、神の不変なる永遠性をこの世界に唯一反映した「今というこの瞬間」を無きものにしてしまえば、神を代弁した声である聖霊を完全に妨害することができます。
このように、自我と一体となった神の子は分離によって真理(神/天国)から離れたためにすべてが顛倒し、神の救済も、聖霊の声も、イエスの助けも、今ではすべて自身への攻撃へと見なし、あらゆる防衛の手を尽くします。
そして、自我はその対象をこの世界の兄弟姉妹である他者の中に見ます。
あなたが、他人の言動の間違いや性格の短所や欠点を咎めたり、不満や怒りを覚えているとき、その時あなたがしていることは神や聖霊、そして正しい心の象徴であるイエスを攻撃しているのです。
換言すれば、あなたは真理、そして愛を攻撃することで神の救済に抵抗しているのです。
自我の言い分はこうです。
「そっち(神)が先に攻撃(楽園追放)したのだから、私には防衛も含め、攻撃し返す権利がある。私は正当防衛をしているに過ぎない。」
それは、自分の過去の言動に対して咎めている時でもまったく同じです。
それが意味しているのは、あなたの真のアイデンティティである「神の子・キリスト」をも傷付け裏切っているということです。
なぜなら、本当はすべてが一つだからです。
元々一つだった心を分離させ、バラバラの個人として今では生きていると思っているあなたが、他者や世界の出来事に対して怒りを持ったり、自分とは関係のない態度で見たりしているとき、それが例え愛情のような感情であろうとも、それを自分とは別の出来事や物理的肉体の個人として兄弟を見ているなら、あなたは神も自分も傷付けているのです。
あなたは、自我の罪の象徴である欠乏感と剥奪感によって命じられるままに、自分の持つ必要をいかなる代価を払ってでも、何とかして満たそうとします。
ただし、その代価を支払うのは、できれば自分以外の誰かであることを望んでいます。
そうして、自我の渇望する充足感を見出すために、あなたは相手の幸福を犠牲にしようとするのです。
狂気の自我は、その盲信さで完全に疑心暗鬼になっており、見えないナイフで誰彼構わず、出会う人や頭の記憶の中に登場する人物を攻撃し続けます。
そのすべてが罪悪感によって突き動かされており、実在しない過去や未来にあなた自身と兄弟を時間という牢獄に閉じ込めているのです。
そうすれば、あなたは聖霊の声を遮断することに成功し、神による救済(エゴから見れば報復)からも逃れられると信じているのです。
しかし、あなたが過去を掘り起こしたり、未来を自分で計画したりするなら、神による罰は回避できたとしても、自分自身で己に罰を与え続けることに変わりはなく、しかもそれに終わりはありません。
なぜなら、あなたがその願望を持っているのであり、あなたの隠し持っているその罪悪感をありのままに直視し、それを赦さない限り、あなたの罪という原因が、この世界に罰という結果を永遠に召喚し続けるからです。
そして、その懲罰の役割を担ってくれているのが兄弟である他者や世界の出来事であり、そしてそれを一番身近に感じさせてくれるのが、あなたが今でもこれが自分だと信じている自身の体の負傷や老化、そして病の数々です。
それら、すべてが究極的には死を連想させます。
ですが、死のイメージさえもあなたの過去の経験によって生じたものですし、未来に投影された怖れに過ぎません。
なぜなら、そのどれもが実在しない時間を土台にしているからです。
これらに対して無自覚で無責任なあなたが、どうして相手に耳を傾けることなどできるでしょうか?
苦痛からの解放を求める悲痛な呼びかけを聞くことなどできるでしょうか?
相手の中に自分自身の呼びかけが映し出されていることを、どうして見出せるでしょうか?
聖霊やイエスは、あなたが彼の答えを聴けるようになるために、あなたがこれらの問いを自分に問いかけてみることを望んでいます。
相手の呼びかけに答えることは、自分自身の呼びかけに答えることなのです。
ですからまずは、あなたが聞こうとしているものとは何なのかを理解する必要があります。
その理解とは「真の始まり」の後に続いて起こったように見えた「始まり」のことです。
あなたが自らの源である創造主から分離したと信じたあの存在論的な瞬間において、あなたは「創造の歌」からも分離してしまいました。
けれども、実際のところ、時間は存在するように見えますし、天国の歌から神の子の声は抜け落ちてしまったかのように見えます。
さらに、あなたは、あの分離の瞬間という神聖ならざる一瞬において、天国の歌に対してだけでなく、聖霊がもつその歌の記憶に対しても、耳を塞いでしまったのです。
そのようにして、その歌は忘れられてしまいましたが、それを思い出させまいとする自我による非常に巧みな策略にもかかわらず、そのメロディーはあなたの中に在り続けています。
コースの中に希望と約束に満ちた感動的な一節があります。
しかし、「往古の歌(聖霊の声)を思い出す」ということは、すなわち、「あなたが新たに作り出した分離の歌(自我の声)を忘れる」ということを意味しています。
それは、あなたが受け入れる準備ができていない「犠牲」でした。
それ故、親交(コミュニケーション)は粉々に砕かれ、ハーモニーが不協和音に入れ替わってしまったのです。
あなたが別の声を作り出したので、直接の親交(コミュニケーション)が断たれてしまったのです。
分離とは完全無欠性の喪失ではなく、親交の破綻を意味します。
そして自我の声という不快で耳ざわりな形のコミュニケーションが生じたのです。
したがって、分離が、あなたの源との間の親交を断ち切り、その完璧な流れを中断させ、その代わりに自我による耳障りな叫び声をもたらしました。
狂気のうちに、あなたはこの分離の歌の方を好み、それゆえに、聖霊のメロディーを聴かないことを選択しました。
それが「忘れられた歌」です。
そうして、それは自我による時間と空間の広大無辺なる幻想の中で、ずっと忘れられたままであり続けています。
けれども、イエスが私たちに繰り返し述べているように、「想念はその源を離れない」というのであれば、あの聖霊の声に耳を傾けず、平安のメロディーを聞かないという最初の決断は、あなたのもとに留まり続けているということになります。
それは、コースが時間について、以下のように述べている通りです。
換言すれば「毎日、毎時間、毎瞬」 あなたは聖霊の声に対して「聴かない」という自分の原初の決断(神からの分離)を何度も選択し生きているということです。
ですから、すべての人々が、コミュニケーションにおいて大変な困難を経験するということは、驚くにあたりません。
自分自身の隠れた意図を持たずに他の人に耳を傾けることがひどく難しいので、相手が真に伝えようとしていることを聴くことのできる能力が損なわれているのです。
また、聖霊は「時間には二つの用途」があると述べています。
それは、自我による時間の使い方と聖霊による時間の使い方についての非常に的確な声明となっています。
聖霊が行うことは、過去は存在しないと私たちに教えることです。
なぜなら、それは実在しない罪悪に依拠しているからです。
ですから、未来においてあなたが恐れなければならないものは何もありません。
そして、聖霊は存在する唯一の時間は今であると、私たちに教えます。
現在だけが存在する唯一の時間です。
それにより、聖霊があなたを通して延長されることが可能になり、したがって未来が現在の延長となり、今、あなたが感じている平安、愛、一致が、あなたを通して延長されるようになるということです。
それが、その他すべてのことを決定するものとなります。
あなたはもう一人ではありません。
なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。
神の子にはどんな苦しみもあり得ません。
そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。
〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜
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