時間とは何か? 時間の目的とは?(4/4)
時間とは何か? 時間の目的とは?(1/4)
時間とは何か? 時間の目的とは?(2/4)
時間とは何か? 時間の目的とは?(3/4)
時間についての解説を続けます。
この原理は、コースの根本的なゴールについて語っています。
そのゴールとは、あなたが自分の人生のすべての日々のすべての時間を、聖霊やイエスがあなたに見せようとしている通りにものごとを見続けながら過ごせるように助けることです。
これが意味しているのは、あなたの人生で起こるすべてのことを、聖霊があなたに学ばせるレッスンとして捉え続けるということです。
あなたがその学びのために自分を差し出すなら、生じるすべての出来事が、学びの機会となるということです。
ですから、あなたが直面するすべてのことを、自我による不満か、聖霊による奇跡かのどちらか一方を選択する機会とみなすべきだということになります。
”時間の目的は、あなたが時間を建設的に使う方法を学べるようにすることである”
このフレーズは、先ほど述べたことと同じことを言っています。
時間の目的は、時間が存在しないということを教えることです。
したがって、それは教具であり、目的のための手段です。
それが、コースがこの世界のすべてのものごとを観る見方です。
世界の中にあるいかなるものも、それ自体が目的であるものはなく、それ自体で実在するものもなく、単なる教具に過ぎません。
けれども、世界や肉体を否定することはしないでください。
そうすることは、このコースが教えていることではありません。
そのかわり、あなたはそれらをこれまでとは違った見方で観なければなりません。
起こる出来事のすべてが、 それがあなたの神経を逆なでしたり、いかなる形ででもあなたを動揺させたりするその度合いに応じて、あなたが自分のレッスンを学ぶ機会となります。
これには、あなたの個人的な世界のみならず、より大きな意味での世界、例えば不況やコロナの問題、飢饉、紛争、自然災害、また磔刑などといったものも含まれます。
あなたは、幻想の世界の中で、それら自体を否定することや、それらが起こったということを否定することはしませんが、自分がそれらを観る見方を変えるのです。
被害者と加害者という構図で見ることから、自分自身も含むすべての人々が、自分では受けるに値しないと信じている愛を求めて叫んでいる者たちであると観ることへと、見方を変えるのです。
この世界全体が教室です。
あなたの個人としての人生は、世界というこの「大学」の中で受講する一つひとつの授業です。
そうすると、この学びの道の全体が、あなたが学ばなければならないカリキュラムのようなものとなります。
あなたの個人としての経験は、あなたが具体的な形にした罪悪感を取り消すために受講する具体的な授業となります。
それが、この世界の目的であり、時間の目的でもあります。
”したがって、それは教えるための仕組みの一つであり、目的達成の手段である。もはや学習の促進に役立たなくなったとき、時間はなくなる”
このフレーズが述べているのは、あなたが時間の目的を成就したときのことです。
それは、分離した神の子たちの最後の一人までが正しい心に戻ったときでもあり、それが、コースが言うところの「再臨」です。
つまり、神の子が悪夢から目醒めることです。
これが「最後の審判」への道を開きます。
それは、幻想と真理を選り分ける最後の段階です。
それが、全世界が消え去るときです。
コースの中の言葉を使えば、
ということになります。
時間の目的はただ一つ、この審判を達成するために「あなたに猶予を与えること」だけです。
それは、あなた自身による完全無欠な被造物たちについての完全無欠な審判なのです。
世界は、赦されたなら存続できません。
それは肉体たちの住居でしかありません。
しかし、赦しは肉体たちを通り越して観ます。
これが赦しの聖性であり、このようにしてそれは癒されるのです。
肉体の世界は罪の世界です。
肉体があってこそ罪も可能となるからです。
罪からは確実に罪悪感が生じ、それと同じく確実に、赦しはすべての罪悪感を取り去ります。
そしてすべての罪悪感がなくなったなら、分離した世界をそのままそこに保つ何が残っているというのでしょうか。
そのときには場所も時間と一緒に消え去ってしまうのです。
まず、すでに述べたことをもう一度繰り返してから、それを、この原理に当てはめていきたいと思います。
あなたと兄弟のすべてが共有している必要とは、「時間は存在しない」ということを認識する助けとなるように時間を使うという必要、そして、時間と空間のメジャーから降りられるようになるために時間を使うという必要です。
たとえば、あなたが、特定の事柄に関連する特定の人々に対して、ものすごく大きな自我の問題を抱えているとします。
そこから始めてこの時間と空間のメジャーから降りるには、途方もなく長い時間がかかります。
でも奇跡は、時間の世界を超越したところまであなたを引き上げます。
あなたが罪悪感のこの巨大な一塊を赦すことを選ぶことにより、奇跡はあなたを少し先の時間の上まで運んでから、再び時間の中に戻します。
それにより確立されるのが、「通常の時間の法則からはみ出した特異な時間枠」です。
たとえば、この時間枠を、この世界の法則の中では千年だったということにしてみるなら、あなたを時間の世界を超えたところまで引き上げて前方に運ぶことによって、奇跡は千年分を短縮できたことになります。
ですから、その時間枠全部が消されたことになります。
これが、何度も述べている「時間を省く」という概念です。
先ほど述べたことを、もう一度繰り返します。
途方もなく大きな怒りや傷や憤りや罪悪感や不安などを引き起こすような人間関係は、もしあなたがそれをその機会として受け入れるなら、罪悪感の巨大な一塊を取り消すための非常に強力な手段となるのです。
というのも、その難しい関係を通して表面化したものこそが、まさに、この深く抑圧されていた罪悪感だったからです。
このコースを書き取ったヘレンはある時、
「どうして私の人生はこんなに困難ばかりなのですか?」
とイエスに不平を言いました。
外面的には、彼女はそれほど困難な人生を送ってはいませんでしたが、内面的には、彼女にとっては非常に辛い人生だったのです。
彼女はそれについてイエスに不平を言って、それに対してイエスは彼女に山のイメージで答えました。
「あなたは山を突き抜けて歩いていこうとしている。山を登ってから向こう側で下山する方が、必要な努力が少なくてすむという意味では、ずっと楽である。けれども、それにはもっと多くの時間がかかる。山を突き抜けて行くことは、それよりも難しいことだが、あなたはそれによって、多くの時間を省くことになるだろう。 山を突き抜けて行くということは、非常に難しく非常に辛い状況を通過して行くということである。それは、普通の出来事の流れの中であれば、多くの人生が必要だったような道のりである。 そして、その多くの人生というのが、山を登ってから向こう側に降りていくという道なのである」と。
コースは時間を省くことを目指しています。
それは、より多くの人々の心がより速く癒されるようになることによって、贖罪の計画が促進され、人々が平安を速やかに見つけられるようになるという意味で、時間を省くということなのです。
ですから、多くの人々にとって、このコースを学び始めるとものごとが悪化するように見えることがあるのは、この理由によるものです。
神が彼らを処罰しているというわけではありません。
それは、聖霊が彼らのリクエストを真に受けたからなのです。
これらの人々は、聖霊に「私はこれをもっと速く学びたい」と言っているのと同じなのです。
奇跡は時間を取り消すものなので、時間を超越しているのです。
それは依然として時間の次元の中で起こりますが、特定の時間枠を廃する、つまり崩壊させるのです。
重要な点は、奇跡が何を行うのかを理解することです。
その概念とは、
「奇跡とは、私たちは世界の被害者ではないということを私たちに教えるために聖霊が用いる手段である」
ということです。
あなたの問題は、他人や世界があなたに対して行うことではなく、あなたが自分自身に対して行ったと信じていることなのです。
あなたは自分自身によってしか、不当に扱われることはありません。
そして、それについては、あなた自身はすでに赦されています。
これが、コースの中で述べられている聖霊による赦しのカリキュラムの真髄なのです。
啓示はあなたを神と直接結び付けます。
奇跡は、心の中の分離を信じる信念を取り消すことによって、あなたをすべての兄弟姉妹に繋がらせます。
ですから、啓示は訂正ではなく、奇跡が訂正なのです。
けれども啓示は、この世界は実相世界ではないということを私たちが思い出せるよう助けます。
啓示体験は、真実なるものを強化します。
それにより、あなたが虚偽なるものの実在性を信じたくなる誘惑にかられているとき、真実なるものを思い出すための強力な助けとして役立ちます。
コースは啓示は短く、束の間で、一時的なものだと述べています。
人々は、神の現存の直接的な感覚を感じるという経験をしますし、その瞬間には全世界がただ消え去っています。
コースは、それは可能だと言っていますが、それはこのコースのゴールではなく、明らかにその理論の一部でさえありません。
なぜなら、テキスト第一章以降は、それについてはまったく語られることはないからです。
あなたには、まだ見ぬ未来があるように思えるにもかかわらず、コースの観点からは、そのすべての時間が一度にすでに生じたものと述べられています。
あなたが、自分は自分自身の創造主、また自己を創造した者になれるという信念を、肉体が存在するようになる以前に心の中に受け入れたとき、あなたは一連の原因と結果の関係を起動させました。
これを理解する最も簡単な方法は、以下のように考えてみることです。
あなたが「自分で天国の対極を作り出せる」という考えを抱くようになったとき、この想念の一つの結果として、時間と空間からなる夢の世界が始まった。
それと共に、あなたがその想念の結果を表していく方法のすべても始まった。
それが、たとえば、あなたの様々な人生というものの数多くの台本の始まりであると。
換言すれば、あの狂った想念の結果が憎悪の夢のホログラムを生み出し、そこには、時間と空間がその鋳型として含まれていたということです。
ここで認識すべき重要なことは、一なる子の心は、いったん眠りに堕ちたかに見える状態となったら、真に存在しているものとは対極をなす想念を抱くようになったという点です。
ですから、分離の想念が生み出したすべての結果は、すでに起こったことであり、すべての誤った想念についての聖霊による訂正もすでに起こったことなのです。
コースによれば、この世界はとうの昔に終わっているのです。
そして、あなたは単に旅の終わった時点から振り返って、その旅を見ているだけです。
これらの台本は、「憎悪のホログラム」と「訂正のホログラム」という二つのホログラムになぞらえることができます。
この憎悪のホログラムを理解するのに役立つのがテレビゲームです。
ここではそのテレビゲームを、フランスのゲーム会社クアンティック・ドリームが製作した「デトロイト ビカム ヒューマン」(Detroit: Become Human)や、スクエア・エニックスが手掛けた「ライフ イス ストレンジ」(Life is Strange)シリーズのようなストーリー重視で選択肢を追いながらプレイしていくアドベンチャーゲームと仮定して見てみてください。
まず、すべてのゲームには必ず製作者が存在します。
ゲームの製作者はプレイヤーのそれぞれが自身の選択によって変わるストーリーを用意します。
要するに、マルチエンディングのゲームということです。
ここで大切なのは、ゲームというのはスタートからエンディングまですでに完成されているからこそ発売できるということです。
未完のまま販売することは許されません。
それでは欠陥品になってしまいます。
ですから、このゲームの中にストーリーのすべて、つまり時間のすべてが含まれていることになります。
さて、プレイヤーはこのゲームの世界に入っていきますが、そこではこの世界はすでに昔から存在していてかなりの歴史があります。
あなたは、このゲームの概要となるストーリーをまず受け入れて、その歴史の中のある地点からプレイを開始していきます。
これで時間(歴史)というものが、あなたがプレイする(生まれる)前から本当に実在していたかのように感じます。
あなたはこの世界の途中から参加したプレイヤーとなってゲームに夢中になることでこのことを完全に信じ込みます。
あたかも、そのゲームの主人公が自分であるかのように錯覚します。
そうして、あなたはゲームの中で幾多の選択肢という困難を乗り越えて、あなた独自の物語を紡いでいくのです。
このようにゲームは没入できればできるほど、楽しくスリリングで面白いものになります。
昨今ではVRゲームがその役割を担いつつ、メタバースといった仮想空間の中でも自分好みのアバターを使用して生きる(遊ぶ)ことに時間(人生)を費やすことも当たり前になってきています。
プレイヤーは次第に、新たに手に入れた自己に自身のすべてを投影します。
ここで、思い出して欲しいことは、ゲームの中の登場人物から見れば時間は後方にも前方にも永遠にあるように感じます。
しかし、ゲームの製作者や俯瞰して遊ぶプレイヤーの視点に立ち戻れば、すでにゲームの台本はこの中にすべて用意されていることは一目瞭然です。
例えば、夜中に見る夢であっても、その中にいる間は、その世界はまるで実在しているかのように見えますが、夢から覚めてしまえばその世界は幻想であったことに気付けます。
また、ゲームは面白ければ面白いほど、その魅力に取り憑かれ、この世界にいずれ終わりがくることを察し、また悲しく思います。
なぜなら、そのゲームが例えばRPGのようなものであるとするなら、あなたはその世界で沢山の仲間に出会いましたし、沢山のモンスターを倒してきましたし、また沢山のアイテムを発見し獲得してきたからです。
しかし、あなたにはまだ達成していないクエストが残っていたり、見つけていないレアアイテムが取り残されたままであったり、隠されたダンジョンも発見してなければ、まだ見ぬ強敵たちも倒していません。
あなたには、まだまだ未解除の実績が残っているのです。
やることがあればあるほど、また獲得してきたものがあればあるほど、あなたはその世界に執着し終えることを恐れます。
その理由はあなたが、この世界に時間を投資したことで価値を置いてしまったからです。
昔のゲームは、その容量の限界故にプレイ時間もそれほど長くなく明確なエンディングもありました。
しかし、昨今のゲームはネットと繋がることで新しいダウンロードコンテンツ(DLC)が次々と登場し、新たなストーリー、新たな世界がどんどんと追加されていきます。
これは、プレイヤーにとっては非常に有難いことですが、目醒めへとシフトし始めた者にとっては大きな足枷となります。
まだまだやり残したものがあるにもかかわらず、この世界を去ることほど辛いものはありません。
しかも、オンラインによって他のプレイヤーとスコアやランキングを争っていたにもかかわらず、それから手を引くなんて負けを認めたも同然です。
人は成功よりも敗者になることの方が恐れを感じます。
さらに、ソシャゲと言われるようなモバイルゲームであれば、尚更ゲームの終わりは見えません。
多くが無料でプレイできるのはいいことですが、実際、本気でやろうとするなら、あなたは他のプレイヤーに負けたくないために毎日ログインしなければならないし、より強くなるためには多額の課金をしてガチャを回さなければなりません。
こうして、あなたはゴールのないゲームの世界で疲れ果てるか、新たなゲーム(来世)に乗り換えるしかありません。
今はゲームが人の手で作られているからまだいいですが、そう遠くないうちにゲームもAIが作り出すようになります。
すでに今、AIは写真や絵画から周りにある風景を予測することで、それらの世界を拡張して描き出すことに成功しています。
これは、当然ゲームの世界にもやってきて今度はAIが人が作ったゲームの世界を拡張して新しいストーリーと世界を構築することができるようになります。
世界は、ホログラムでフラクタルですからこのことから、そもそも宇宙全体も同じように作られていると気付く人が出てきてもおかしくはありません。
ちなみに、ホログラムはギリシア語の「完全/全て」という意味の「Holos」と「情報」という意味の「Gram」を合成して作られた言葉です。
部分の中に全体の情報が含まれているのがホログラムの特徴です。
生命体をつくり出すために必要不可欠な情報は、もっとも小さい細胞(DNA)の中にあるように。
また、フラクタルというのは「自己相似性」という特殊な性質を有する幾何学的構造のことをいい、より具体的には図形の全体をいくつかの部分に分解していった時に全体と同じ形が再現されていく構造のことをいい、フランス人の数学者ブノワ・マンデルブロが考案した概念です。
自然は一見すると無秩序なカオス状態のように見えますが、よく観察すると同じ構造が繰り返されている「フラクタル構造」になっているものが多く観察されます。
カリフラワーの一種のロマネスコや雪の結晶、海岸線や宇宙の分布、特にマンダラなんかは綺麗なフラクタル構造を持っているのです。
仏教だけでなく、世界中の様々な美術や建築に、フラクタル構造が見られます。
全体と部分は同じであり、それが繰り返され世界が作られている。
全体と部分は調和し、全体の中に部分があり、部分の中にまた全体があるのです。
しかし、コースが述べているようにこの世界は神が作ったのではなく、神から分離した後に神を恐れた神の子が自我と一体となって作り出した幻想の世界であるということを忘れてはなりません。
この世界とは、神から逃れるための避難所として、また自身を神と同一視し、私が世界の創造者として君臨するために作り出されたものです。
神の子が神から継承した創造する力を自我は横領し、また歪曲することで神の子を自我の支配下に置き、人の子となってしまった神の子は自我を神に祭り上げ、今では偶像崇拝しています。
未来のAIが作り出すゲームはすでに、自我が作り出したこの全宇宙を含んだ世界となんら変わらなくなってきています。
無限の時間と空間が刻まれたこの宇宙、その中では苦しみの世界が永遠と自動生成され続けるプログラムが、神の創造する力を横領した自我によってすでに書かれました。
それは、どんなプログラマーでも及ばないほどの力です。
そのゲームの台本はすでに完成済みで、その数多あるシナリオの1つが自分の人生だとそれぞれの人々は信じて生きています。
ここでは、ゲームを例えにしていますが、実際にあなたが今ここにいると思っているその場所が自我によって作り出された「憎悪のホログラム」上であることを忘れてはなりません。
そして、これは子供の頃誰しもが経験したことだと思いますが、それがゲームであれ、テレビドラマであれ、何かに夢中になっているとき、また段々と面白くなってきたときに限って親から「もうやめなさい!」と叱られ不満や怒り、また悲しさを覚えたものです。
自我にとってみれば、この親からの言葉はあなたへの攻撃とみなされます。
せっかく楽しんでいたのに、あなたは気分を害します。
親の視点から見れば、子供がゲームに夢中になってその世界から戻ってこなくなる状態だけは、何がなんでも避けたいはずです。
そして、親は人間である以上、ときには感情を爆発させて強引にでも子供からゲームを引き離すことで強制的に終了させようと試みます。
これは、お互いが自身の罪悪感を投影しているがために起こる悲劇ですが、神は親が子供にとったような罪悪感をさらに強化させるような手段は使いません。
神は神の声を代弁する聖霊を子供が夢中になっているゲームの中に遣わせます。
そして、今では自我のやかましい声しか聞くことのできない子供に対して、ゲームの登場人物の体を通して優しく語りかけます。
子供は、もはや内なる声からのメッセージを聞くことができないために、こうして神による慈悲と智慧によって親交(コミュニケーション)を取れるようにするのです。
聖霊は子供が夢の中で悪夢を見ているときに、決して叩き起こしたりはしません。
もし、そんなことをしてしまえば、子供は精神的外傷によって聖霊を恐れてもっと夢の奥深くへと逃げ込んでしまうことを知っているからです。
法華経にこのような言葉があります。
「三界は安きことなし。猶し、火宅の如し」
意訳するとこんな感じです。
「この世は安心できる場所ではない。ちょうど、火のついた家のようだ。」
三界とは、この世のことで、三界を詳解すると以下の三つになります。
欲界(欲を求める世界)
無意識のうちに富や名声、また異性や所有物を求めることで幸せになろうとすること。
色界(芸術の世界)
無意識のうちに芸術の中に自分の幸せや真理を見出そうとすること。
無色界(哲学・思想の世界)
無意識のうちに思想の中に自分の幸せや真理を見出そうとすること。
どの世界も所詮、幻想の世界でしかないためにその中で幸せになりたいと思っても決して幸せになることはできません。
だから「この世は安心できる場所ではないのだ」と、釈迦は言っているのです。
そして、釈迦はこのことを巧みな方便によって「三車火宅の喩え」として説きました。
火のついた危険な世界で遊び続ける子供たちをうまく誘導して外の世界に脱出させたお話です。
簡単に紹介します。
ある時、長者の邸宅が火事になりました。
中にいた子供たちは遊びに夢中で火事に気づかず、長者が説得するも外に出ようとしない。
そればかりか長者が中に入ると遊んでもらえるとばかりに逃げていきます。
そこで長者は子供たちが欲しがっていた「羊車と鹿車と牛車の三車が門の外にあるぞ」といって、子供たちを導き出します。
その後にさらに立派な大白牛車を与えました。
この物語の長者は仏で、火宅は苦しみの多い三界、子供たちは三界にいる一切の衆生、羊車・鹿車・牛車の三車とは声聞・縁覚・菩薩(三乗)のために説いた方便の教えで、それらの人々の機根(仏の教えを理解する素養や能力)を三乗の方便教で調整し、その後に大白牛車である一乗の教えを与えることを表しています。
火のついた家はあっという間に燃え上がりすべてを飲み込みます。
ちょうどそれと同じように、欲や芸術・思想を追い求めているまさにその時は気付けないが、時間が経過するとあっという間に何も残っていないことに気付きます。
その火のついた家とは、欲や芸術・思想を追い求めたことによって構築された富や名声、愛するパートナーや子供たち、芸術作品や自分の思想、そして年老いた自分の肉体などです。
火によっていずれはなくなってしまう家の中にいて安心できるはずがないと釈迦は言っているのです。
ですから、あなたは自我の作り出した過去と未来という幻想の時間(外側)である「憎悪のホログラム」から、聖霊によって与えられた赦しという、現在(内側)のみに焦点を合わせること、つまり「訂正のホログラム」を受け入れることを学び、罪悪感を癒さなければならないのです。
この「同一の幻想」とは、神からの分離を信じる信念のことです。
そしてそれが、この何十億年もの時を経て、ほとんど無限に広がるかに見える物理的宇宙全体の根底にある想念なのです。
それでも、
ので、 一見すると広大な宇宙も、依然として、この単純なひとつの想念が、すなわち、狂気の中でそれを考えた分裂した心の内側に常に存続する想念が顕現されたものなのです。
この分離の想念を、すなわち、真実には一度も起こらなかった「小さな狂った考え」を、心の外へと投影することにより守り続けることが、自我の戦略に不可欠の部分です。
それを心の外のものとすることにより、神の子は聖霊という同じく彼の心の中に現存する存在に頼り、その考えを取り消すということができなくなるからです。
もし神の子が、自分に心があるということを忘れ、自分の心が下した分離するという決断との接触を失ってしまえば、彼には自分の心を変える方法はまったくなくなります。
これが、自分の存在を維持するための自我の策略が究極のゴールとしていることです。
したがって、分離の想念が神の子の心から遠く離れたところに投影されるとき、それは時間という次元に表現されます。
すなわち、過去、現在のように見えるもの、そして未来といったものは、心が下した神および聖霊から分離するという決断と、自分自身を肉体として経験している神の子の経験との間に、自我が持ち込みたいと願っている何十億年という巨大な隔たりを確かに反映しているように見えます。
分離の想念が、一個人ともう一人の人との間で経験されるとき、つまりその人自身についての経験にもっと近いところで経験されるとき、それは空間として理解されます。
その空間とは、あなたが自分の中で、自分と他者との間に経験する物理的な隔たりのことです。
別な言い方をすれば、時間と空間は、原因(心および心が考える諸々の想念)と、結果(あなたの痛みや苦しみ)とを分離したままにしておくことを目的として、自我により捏造されたということです。
こうして、あなたの経験においては、心が下した分離するという決断と、様々な夢についての数多くの台本との間には、今では巨大な隔たりが存在しています。
そしてあなたは、これらの夢の中の登場人物となって、痛みや苦しみを経験しています。
原因と結果がひとつ所に運ばれて、それにより取り消されたときにのみ、すなわち、あなたが自分と呼んでいる人物が、分離の夢から醒めて、贖罪を受け入れるときにのみ、真の癒しがあり得るのです。
ですから、結論を言えば、時間と空間の世界とは、時間と空間という防衛の背後に巧妙に隠されて、神の子の心の内側に秘められたまま存続している分離の想念が、神の子の心の外側に投影され、形として表現されたものに過ぎないと理解することができます。
あなたの道はそれらとは違います。
目的においては同じでも、手段においては違っています。
神聖な関係は、時間を省く一つの手段です。
兄弟と共に過ごす一瞬が、あなた方両方に全宇宙を取り戻させるのです。
あなたの準備は整っています。
今あなたに必要なことは、自分は何もする必要がないと思い出すことだけです。
今は、このことに意識を集中させることのほうが、自分が何をすべきか考えることよりもはるかに有益です。
誘惑と格闘し、罪に屈服すまいと戦う者たちにようやく平安が訪れるとき、また、観想に捧げられてきた心についに光が訪れるとき、あるいはゴールが誰かによって達成されるとき、それは常に一つの幸せな認識、すなわち、「私は何をする必要もない」という認識と共に訪れるのです。
何かをするには必ず肉体が必要になります。
ですから、自分は何もする必要がないと認識するなら、あなたは自分の心から肉体の価値を退けたのです。
ここに、数世紀分の努力をすり抜けて、あなたが時間から速やかに脱出できる開かれた扉があります。
これが、今すぐに罪がすっかり魅力を失う道です。
なぜなら、ここでは時間が否定され、過去と未来はなくなっているからです。
何もする必要がない者に、時間は必要ありません。
何もしないとは休息することであり、肉体の活動が注意を要求しなくなる場所をあなたの中に作ることです。
この場所に聖霊が訪れ、そこにとどまります。
あなたが忘れるときも、また、肉体の活動が再びあなたの意識を満たすようになるときも、聖霊はそこにとどまり続けます。
ですから、この実践レベルにおける真のゴールは、問題から解放されることではなく、問題とは何であるかを認識し、その後自分自身の中で、それを取り消す手段を認識することです。
繰り返しますが、聖霊の目的は非常に明確で、自我の思考体系と聖霊の思考体系すなわち、私たちの「間違った状態にある心」と、「正しい状態にある心」を提示し、それによってあなたが間違った心の状態を退け、赦しと聖霊を選ぶ選択ができるようにすることなのです。
罪悪感から一晩で逃れられるような人は誰一人としていません。
これは長い時間のかかるプロセスですから、あなたには「忍耐」が必要なのです。
特別性と罪悪感の関係(1/5) 〜特別であることの魅力とその危険性〜に続く
あなたはもう一人ではありません。
なぜならあなたは神に創造されたままの完璧な存在として
今でも愛されているからです。
神の子にはどんな苦しみもあり得ません。
そして、あなたはまさしくその神の子であり、
それがあなたの「真の自己」なのです。
〜あなたの最奥の自己から愛を込めて〜
リンプ
参考書籍
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