「健全な劣等感」という言葉との出会い
タイトルに書いた「健全な劣等感」という言葉。私にストンと落ちた言葉でした。
この言葉に出会ったのは2015年1月。京都会議。
柴田会頭の所信で用いられているものでした。この時が、会頭の所信をはじめてじっくり聞いたときでした。私は茅ヶ崎青年会議所の初委員長として参加していました。
それ以来、事あるごとに私を支えてきた言葉の一つとして今日は少し触れたいと思います。
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みなさんは、悔しさとか恥ずかしさとか、どんな時に感じますか?失敗したとき?叱られた時?
私の場合は、自分の人生を振り返ってパフォーマンスが悪かった時代は、人の目を異常に気にしていたように思います。嫌われたらどうしようか、怒られたらどうしようか、、とか。特に、中学生くらいまでは結構神経質な少年だったため、対人関係の悩みというのは結構大きかったと思います。
けど、高校生くらいから吹っ切れ始めて、大学に進学してみるとそういうのは随分後退して、自分のペースというか、自分なりの考えにフォーカスできるようになり、気持ちがかなりラクになりました。
で、今度は自分の世界でしかものを見れていないのだなと、自分よりも物事をみえている人たちとの出会いで次第に自身がなくなっていき(笑)、自己成長の必要性にぶち当たりました。成長したい!というより、成長しないとやばいかも、という状況です。
それで大学院に進学し、そこで出会った最強に頭の良い方々と一緒に勉学に励んだり、大量の学術本、そしてソクラテスメソッドという議論を徹底してく3年間で、ファクト(事実)とその評価だったり、要件事実と効果といったことを俯瞰するようになって、現在の自分の思考が作られました。
そうやって、俯瞰して自分の社会的な立ち位置を考えるようになってから、今度は自分で独立して行政書士をスタートし、青年会議所に入って本当の意味で社会を見るようになって、そこで出会った人たちと自分との「差」をたくさん感じて、その「差」が常に自己成長(自分の殻を破る)というところでしか埋まらないことを知り、それが習慣となって今に至ります。
冒頭でご紹介をした「健全な劣等感」というのは成長の源泉です。健全ではない劣等感というのは他責の発想で、〜ができていないのは●●のせいだ、という思考です。逆に、〜ができていないのは自分に原因がある、という思考が健全な劣等感です。
今の自分を出発点として自分を磨くのか、
今の環境を嘆いて、自分磨きを放棄するのか、
間違いなく、常に前者の思考でいたいと思いますし、まさにそれが青年会議所で培うマインドの一つではないかなぁって思います。
今回の記事の写真は、先日私が仕事でモデレーターを務めたイベントの会場写真。国の事業で自分が登場させていただいたことの要因は青年会議所での経験が生きているからです。別に国の事業に出たいと思ったことはないですが、必要とされる人材、事業を作っていきたいというのは青年会議所の活動の中で欲が出てきたものですし、そのための経験値をたくさんつませて頂いているのが間違いなく青年会議所です。
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