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観るんじゃなかった

この記事を書く決心がつくまで約5日かかった。なぜなら屈辱感と失望を言葉にして記録するエネルギーが足りなかったからだ。

先日、六本木の森美術館で「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」を観てきた。Twitterなどで情報収集をした段階ではかなり魅力的で、なかでもDVをテーマに扱った飯山由貴氏の作品がどのようなものかとても気になっていた。結論、気になったまま観ずに終わっておけばよかった。

「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」@森美術館

展示室入口にて

2020年以降、目に見えないウイルスによって日常が奪われ、私たちの生活や心境は大きく変化しました。こうした状況下、現代アートを含むさまざまな芸術表現が、かつてない切実さで心に響きます。本展では、パンデミック以降の新しい時代をいかに生きるのか、心身ともに健康である「ウェルビーイング」とは何か、を現代アートに込められた多様な視点を通して考えます。自然と人間、個人と社会、家族、繰り返される日常、精神世界、生と死など、生や実存に結びつく主題の作品が「よく生きる」ことへの考察を促します。
また、本展では、美術館ならではのリアルな空間での体験を重視し、インスタレーション、彫刻、映像、写真、絵画など、国内外のアーティスト16名による約140点の作品を紹介します。五感を研ぎ澄ませ、作品の素材やスケールを体感しながらアートと向き合うことは、他者や社会から与えられるのではない、自分自身にとってのウェルビーイング、すなわち「よく生きる」ことについて考えるきっかけになることでしょう。(後略)

森美術館ウェブサイトより

現代アートを通してウェルビーイングを考えてみようという展示。前述のとおり一部の作品は到底受け入れられるものではなかったが、まずはひととおりご紹介する。

オノ・ヨーコ

「鼓動の曲」

展示タイトルにも引用されている「地球がまわる音を聴く」を含む作品群の一部。作品説明には “一見するとまったく不可能で非現実的” と記されていたが、いわゆる「ていねいな暮らし」的な意味合いでサラッと解釈できたので良かった。また、展示スペース全体を通して要所要所にこの作品が配置されていて、五感を研ぎ澄まして作品に向きあうことを促しているように感じられた。

ヴォルフガング・ライプ

「花粉のフィールド」
「ミルクストーン」
「べつのどこかでー確かさの部屋」(外からの撮影のみ可)

1枚目は、展示ポスターなどに使用されているあの作品だ。作品説明には “マイクロメートル単位の細胞には、それぞれ繁殖のための遺伝子情報が凝縮されています。” とあり、希少で凝縮された生命の重さを考えさせる作品のようだったが、なぜそれが地元ドイツの村のタンポポやヘーゼルナッツの花粉なのか、またなぜそれを四角く薄く広く蒔いたのかが汲み取れず、しっくり来なかった。

2枚目は、浅く削られた白い大理石板の表面に毎朝牛乳を流し入れる作品。まじまじと目を凝らして見てももはや牛乳が張られているなんて分からなかった。
作品説明には “表面張力の緊張感とともに一日のエネルギーや生命について考えさせます。“ “毎日の繰り返しと長大な森羅万象の歴史を投影する深遠さがある” とあった。しかし筆者としてはそれよりも、一見何の変哲もない白い石が実は表面に牛乳が張られた大理石であるということから「自分が見えているものだけが事実ではない」というメッセージを強く感じた。

3枚目は、木の建築物の内壁に巨大な蜜蝋のブロックを隙間なく並べた作品。こちらは今回の展示のなかでもかなり印象が強く、素敵だと思った作品のひとつだ。建築物の入り口から一歩くらいしか入れないのだが、その一歩を進んだ瞬間、甘苦い香りと心地よい暖かさに包まれる。少し遮音性があり、さながら異空間だった。思わず目を閉じて深呼吸をした。文字どおり「地球がまわる音を聴く」瞬間だった。

エレン・アルトフェスト

「流木(窓台)」
「丸太」

作品説明には “制作には写真をつかわず、実物を詳細に観察して描きます。緻密な作業には膨大な時間が費やされ、出品作〈木々〉(2022)はA4用紙程度のサイズですが、パンデミックの間に13か月間かけて制作されました。” とあった。
本当に緻密で隅々までピントが合った作品は、見れば見るほど目眩がしてきて、それと同時にある違和感を覚えた。
例えば1枚目の窓枠に置かれた流木の絵だが、実際に流木を見つめた場合に奥に見える建物や街並みはボヤけて見えるはずだ。逆に、遠くへ目をやれば手前の流木はうっすらシルエットが分かる程度になるはずだ。
要するに、人が何かを見るとき見えているのはほんの一部であり、もし全てが見えるようになると処理が追いつかず、見えていないのと同じになってしまうということだ。これは日常生活にも当てはまることで、前述の内容にも似ているが「目に見えているものだけが全てではない」し、それと同時に「自分なりの視点で見てもいい」ということではないかと感じた。

金沢寿美

「新聞紙のドローイング」
同作品接写

作品説明によると “新聞紙を10Bの鉛筆で隅々まで黒く塗りつぶしながら、金沢の目に留まった単語だけを塗り残したもので、それが何枚も並べられることで、星が浮かぶ夜空のように見えてきます。” とのことだ。
作品に近づいてみると塗り残されているのは凄惨な事件や国際問題についての単語が多く、遠くから見た星空のような見え方とは真逆の印象を受ける。
こちらもやはり「目に見えているものだけが全てではない」し「見えるのは一部だけかもしれないが、自分なりの視点を持つことが重要」と解釈できた。

飯山由貴

氏の作品は撮影不可のため、内容については以下の記事をご参照願いたい。

展示の目玉は新作「家父長制を食べる」(2022)という映像作品。かつてパートナーからDVを受けたと思われる作者自身を被写体として、男性の形をした等身大のパンを捏ね、焼き上げ、テーブルに横たえ、自身も傍らに並び、咽び泣く。パンを引きちぎり、食らいつき、咀嚼する。他にもDVに悩む人々のインタビュー映像やDV被害者に向けた資料が展示されていた。

正直な感想としては、屈辱感と失望である。映像作品からは「ねぇ、私ってかわいそうでしょ?こんなに辛いんです!傷ついたんです!保護されるべきなんです!」感がひしひしと伝わってきた。
その主張自体が悪いとか間違っていると言いたいいわけではない。ただ、展示資料のなかには “DV被害者への支援が福祉の観点ではなく保護目的に留まるのが問題” といった主張もあり、加害者を模したパンを雑に引きちぎって嚥下している割には、被害者という立場から抜け出せていないように感じた。
加害者や自分の過去に真っ向から対抗するのであれば、自らを「かわいそうな存在」として描くより「過去を乗り越え、過去に囚われない、強く自立した存在」として描いほしかった。
描いてほしかった、と表現しているとおりこれは私の勝手な願望であり個人的な感想にとどまる。しかし、過去に実害を伴ういじめやハラスメントを受けて、それを自力で乗り越えてきた筆者としては、作品から漂う「女はかわいそうで保護されるべき存在」というメッセージには屈辱感を覚えると同時に、我々の気持ちを代弁して昇華してくれるはずのアーティストに対して失望した。

また、なんと言っても咀嚼シーンが不快そのものだった。パンを齧る口元のアップ、唾液と混じってぐちゃぐちゃになったパンのアップ、展示室に響き渡る咀嚼音。DVに関する描写について、鑑賞者のメンタルに配慮して配布資料を用意したり、体調不良者の誘導についても事前に美術館側と調整していたということだが、それよりも前にやることがあったのではないか。
この描写を目を逸らしたくなるような状況を比喩したアートだと言い張るなら、私はそのアートを拒絶するしかない。

終わりに

ここまで記述したとおり、作品は納得感があるものもあれば、受け入れ難いものもあった。また、記述していない作品を含めて「同じ作業を繰り返す」や「毎日続ける」といった日常を意識させるものが多いように感じた。なお、展示の後半では催眠術や即身仏、パラレルワールドなどをテーマとしたスピリチュアルな作品も多かった。

ウェルビーイングについて考えたいという方や、女は守られるべきと考えている方におすすめの展示である。

会期:2022年6月29日〜11月6日
会場:森美術館
住所:東京都港区六本木 6-10-1 六本木ヒルズ森タワー53階
電話番号:050-5541-8600(ハローダイヤル)
開館時間:10:00〜22:00(火〜17:00) ※入館は閉館時間の30分前まで
休館日:会期中無休
料金:一般 1800円(オンライン1600円)/ 高校・大学生 1200円(オンライン1100円)/ 中学生以下 600円(オンライン500円)/ 65歳以上 1500円(オンライン1300円) ※平日料金

美術手帖ウェブサイトより


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