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農業事件簿〜ガルトネル事件 2

ガルトネル動く

ヒトヤマ当てたいプロイセン人リヒャルト・ガルトネル。
現在、箱館で生糸ビジネス。
実はアフリカで農場経営の経験あり。
だから農業ビジネスをやりたい。

優秀な弟コンラート・ガルトネル。
現在クニフラー商会箱館支店長&プロイセン箱館領事館の副領事。
副領事という立場で、バリバリの帝国主義マインドをインストールされていた?
同じく日本進出競争している欧米各国を出し抜きたい。
スキあらば、日本での権益拡大(租借地拡大→果ては植民地)を狙っている。

ガルトネル兄弟と、さらにもうひとりの登場人物。
困っている箱館奉行杉浦梅潭(杉浦誠)
蝦夷地(北海道)農耕開発…ぜんぜん上手くいかない。
本州的な農業技術が蝦夷地(北海道)で通用しないことは承知。
新たな知見を求めている。

1867(慶応3)年、三者の思惑が一致する。
ガルトネル兄弟は箱館奉行・杉浦梅潭にターゲットを絞る。
弟コンラートがアポ取りをして、兄リヒャルトが杉浦さんと面談。
寒冷地での農業技術農業器具営農技術を提案。
果樹栽培果樹の加工技術も提案(葡萄をワイン/ホップをビールに加工など)。箱館奉行・杉浦梅潭は、これぞ求めていた技術!となってテンション上がる。
箱館奉行は、ガルトネル兄弟に箱館近郊・七重村(現在の七飯町)で1,500坪の開墾許可を与える。

ところが、この時代はまさに幕末動乱期。
ざわざわと落ち着かない時期。

1867(慶応3)年10月 大政奉還
1867(慶応3)年12月 王政復古の大号令
江戸幕府の終焉 。
箱館奉行所は閉鎖され、明治新政府が設けた箱館府がその業務を引き継ぐ。

ガルトネルの野心がここで炸裂。
箱館府初代判事・井上石見(井上長秋)と面会。
言葉巧みなガルトネル。
自分の計画は、箱館府・明治新政府の蝦夷地開拓に多大な貢献を約束できる。

井上石見は、ガルトネルの計画継続を承認。
リヒャルト・ガルトネルは井上石見との交渉で、開墾面積を70,000坪に増やすことに成功。

このタイミングで、箱館戦争勃発 1868(慶応4/明治元)年〜1869(
明治2)年。
榎本武揚率いる旧幕府艦隊が箱館を占領。
蝦夷共和国を樹立。
箱館府・明治新政府は青森に退却。

ガルトネル兄弟にしてみれば、動乱期とは言っても、またしても交渉相手が変わる事態。

さて、どうするか。

榎本武揚・蝦夷共和国のミス

リヒャルト・ガルトネル
開墾契約の確認のため蝦夷共和国政府とのアポ取り。
榎本武揚率いる蝦夷共和国。
ガルトネルに対して開墾契約の有効性と、その継続を認める。
更に七重村とその周辺300万坪を開墾用地として99年間租借地とする契約を、ガルトネルと結ぶ。
これを蝦夷地七重村開墾条約 1869年3月31日(明治2年2月19日)。

リヒャルト・ガルトネル
混乱に乗じて開墾用地を1,500→70,000→300万坪と拡大。
99年租借の契約までゲットする強かさ。これは、ほぼ植民地契約と同義。

リヒャルト・ガルトネルは、トラブル耐性が強い?
混乱すればする程、実力を発揮するタイプなのかも。
そもそも帝国主義マインドを持ち、権益の拡大、植民地化を狙っていた。

一方で蝦夷共和国政府。
幕末〜維新の混乱期とは言っても…
箱館奉行/江戸幕府〜箱館府/明治新政府から引き継がれた契約とは言っても…
なぜ開墾用地面積を300万坪まで拡大させたのか。
なぜ99年租借という、ほぼ植民地契約を結んだのか。

蝦夷共和国のトップ榎本武揚・幕臣永井玄蕃
アヘン戦争(1840年)など欧米帝国主義に蹂躙されるアジアの植民地化の実態を知っていたはずなのに…。
これは蝦夷共和国の大いなる失策と言える。

一応、榎本武揚をフォローすると…。
蝦夷地(北海道)の開発を第一に考えて…。
リヒャルト・ガルトネルの知見(西洋式近代農業)導入を最優先とした判断。
ガルトネルを通して、交換留学生システムを設けて、近代農業技術導入を推進する意向。
農民は農業するだけでなく、農学を学ばせて農業スペシャリストを育成、経済的に自立させる。
幕臣時代に留学経験のある榎本武揚の先進的な思想からの判断だった可能性。

そうこうしているうちに…
1869年5月11日 明治新政府軍が箱館を総攻撃。
1869年5月18日 榎本武揚が降伏を決断。蝦夷共和国の崩壊。

野心がダダ漏れでギラギラしてるリヒャルト・ガルトネル
またしても交渉相手が入れ替わる事態。

さあ、どうする?

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