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エッセイ:政治、脳科学、共存

仕事をしたり、日々の活動に忙しくしている横で、戦争や紛争、システムレベルの抑圧で人が死んでいく。失われる生命への嘆きとこのシステムへの違和感。

対立する社会問題について、コミュニティやソーシャルメディアに身を置いて感じたこと、これから大切にしていきたいことを書こうと思います。

政治に蔓延するマインドセット

私が気づいたのは、ある大義を支援する人たちが、違う考えを持つ人たちやコンテンツを終始、批判してしまっているということ。それには、「そういう思想を持つなんて人として終わっている」というような相手の人間性を否定するような発言も含まれています。

ただ、一つ明確しておきたいのは、より特権を持つ人たちに向けられる批判は抑圧を受ける側に向けられるものとは全く違います。世の中がすでに公正だという思い込みのもと、抑圧されるグループの言い方やトーンを批判することは、今でさえ聞き取りづらい人たちの要望をより表現しにくくしてしまうからです。 

この不均等さを念頭に置いた上で、日々のコミュニケーションや文脈を通じて、私たちがより、お互いの言動を監視して、自分と違う考えを少しでも示す敵を見つ出すことに長けてきていると感じています。敵を見つけ出し、相手の考えを無理やり変えさせるか、極端なケースでは相手がいなくなれさえいれば、物事が上手くいくとさえ思うかもしれません。そして、私たちのコミュニケーションが、相手の注意を引き、相手がどれほど邪悪で無知かを相手に知らしめることで、相手が罪悪感や義務感、脅迫から考えを改めるように仕向けているということです。どのグループに属するかに関わらず、この手のマインドセットを私たち知らず知らずのうちに使い、お互いを傷つけているかもしれません。

逆上するアクティビズムの脳科学

(参考:https://curiousapes.com/the-neuroscience-of-why-aggressive-activists-undermine-their-goals/

でも、私たちがこういった戦略をとってしまうことにも共感の念を示したいです。というのも、私たちが残忍なニュースを見聞きしたとき、認知機能を担っている大脳皮質から、扁桃体というストレスを処理する生存的な脳部位に情報が伝えられます。そして、扁桃体が不快な情報だと判定すると、不安や怒りの感情が自動的に発生することになります。重要なのは、私たちは自分の問題点や欠点をあげつらわれたり、相手から攻撃的で破壊的なメッセージを受け取るという社会的なストレスにもすごく敏感だということです。

それとは別に、前頭前野という場所全体は、新しい情報や考えを処理したり、意思決定、共感など、人間性を発揮するために重要な役割を果たしています。その中でも、腹外側前頭前野(ventrolateral prefrontal cortex)という部位が、怒りをうまく切り替えることに役立っています。しかし、あまりにも多くのストレスに晒され続けると、脳が疲労し、攻撃的な言動をとってしまうことに繋がります。また、現代社会の生活が、この脳部位をうまく働かせるのに必要なセロトニンの分泌に役立っていないことがあります。

そして、厄介なことに、扁桃体は記憶に関係する海馬と深くつながっていて、ストレス下で馴染みのある思考や行動パターンを呼び起こしてしまいます。そしてこの回路に囚われてしまうと、ストレスを感じた社会的環境や言葉を思い出してはネガティブな感情を抱き、より自分の考えの範疇から抜け出せなくなるのです。

しかも、私たちの祖先であるチンパンジーは縄張りと政治性が強い生き物です。社会的なランクで食べ物の配分が決まり、暴力によってその正当性が示されることもあります。食べ物を巡って、集団が他のグループの陣地に入り、敵のメンバーを殺すことも起こります(Netflixシリーズ『Chimp Empire』より)。私たちと違うグループの存在が、私たちの不安を煽り、攻撃的にさせるのも、進化論的な背景があるのかもしれません。

相手を批判することによって、人間性 ー新しい考えに耳を傾けたり、相手の立場に共感するー の代わりに、怒りや攻撃性が、相手の脳を乗っ取るように操作していることになります。多くの人にとって政治や周りの場が、脅威とストレスの原因になってしまっていると危惧しています。

嘆きーそれは人類の幸せの役に立つのか?

嘆く暇のない者は治る暇もない。

サー・ヘンリー・テイラー(『「わかりあえない」を越えるー目の前のつながりから、共に未来をつくるコミュニケーション・NVC』より)

このように、暴力的な表現を使って相手の価値観や人間性を批判したり、相手を決めつけて話すことで、お互いに防御的で攻撃的になって、そこにあったはずの誰かの命や人生、ニーズをどうやって守るのかを丁寧に擦り合わせることをしなくなっている状況を憂いています。様々な立場にいる人の意見や、相手の言動の裏にある重要なメッセージから得られる気づきを逃していることへの残念さを感じています。

ただ、混乱の渦中にいると特に、私も自分の思いに繋がって行動できていなかったと内省しています。問題の関係者を同じ人として見れなかったり、考えを指摘する人たちに、こんな当たり前のことがなぜ理解できないのかというように接したり、ソーシャルメディアからブロックしたりしていました。自分とは違うグループになると、なぜその人を救うのかという疑問が投げかけられますが、私の見ている世界は「誰の命がより大切か」ということではありませんでした。しかし、私が取っていたコミュニケーションはそれとは違い、自分の考えと違う人たちや、学びの過程にいる人たちへの敵意に満ちたものになっていました。この経験は、日々の会話から国レベルの紛争まで、様々なレベルで世界で起きていることに繋がっていると思います。他者の幸せを無視して、自分の要求を押し通すことはできません。私たちが望んでいることを、世界中で起きているような多大な代償を払うことなく、伝えたり、実現することは可能でしょうか。

自分も癒せる道であること

部族的な社会では、恐ろしい事件が起こると、その事件をひき起こした個人を非難するかわりに、だれかが“こんな気持ちになるなんて、どんなに恐ろしかったことだろう”、という反応がよくみられる。

『メディアはマッサージである』

感情や脳の反応も含めた人間らしさへの共感は、私の精神や脳の状態との付き合いの中から生まれたものでもあります。私が自分のモチベーションを高めるのに採用していた方法は、社会の支配構造を内面化し、自分が「どれほどひどい人間であるか」を自分に知らしめ、するべきことへの義務感やしないことへの罪悪感を抱かせて、行動させることでした。結果、ストレスによって自分を生命の危機に晒すような事態に発展してしまいました。

また、ソーシャルメディアなどで日々目にする、様々な怒りや、それを同じ熱量で伝えられないことで、責められているように感じていました。一方で、周りからもカテゴリーを前提として付き合われているのではないかというもどかしさや、「極左」や「日本人ではない」などレッテルが付いたコメントを見るたびに自分自身が攻撃されているように感じていました。お互いの言動を監視し、決めつけられたり、されないように気を遣うのは、安心してお互いの要求を実現するより、もっと表面上のところで生きづらさを生んでいるのではないかと思います。

私にとって、怒りや責められるという感情は、扱うのがすごく苦手な感情です。そこで、怒りや不安、落ち込みという感情が湧いたとき、それを現実そのものと受け取るのではなく、客観的にどういう意味を持っているのか、何を伝えようとしているのかを観察することで、その奥に、大切にしたい価値観が見えてきました。そこには、自分の大切にしたいこととして、所属するグループに関係なく、誰の命も尊厳を持って扱われてほしいという思いがあることに気がつきました。「自分の価値が攻撃された」という瞬間的なリアル感を無視していいのか、すごく気持ち悪い感じがします。ですが、現実も他人の意図も本当は違い、誰もが自分や大切にしている人たちを攻撃された、危険にさらされていると思って、他人に怒りをぶつけたり、自分を殺してしまう人までいるのだとしたら、それはすごく悲しいことです。私たちは正義が易々と自己正当化され、暴力に繋がる例を見てきました。多くの人が、支配構造の中で傷ついたり、現代社会の中で幸福感が枯渇した状況にいることに共感を持ちたいです。怒りは即効性はあっても、長期的には健康に対する代償を払うことになり、人が持っている善意を活かすことに役に立っていないことを胸に刻んでおきたいです。

私たちの認知は、日々の文脈やコミュニケーションから無意識に統計をとり、予測を作っていると言われています。差別的な言葉は社会的に弱い立場にいる人たちに向けたことが圧倒的に多く、日々そういった言葉を耳にしていれば、無意識に偏見や思い込みが形作られてしまいます。そういった連想から離れて現実を見るには、前頭前野のリソースを使うセロトニンや脳疲労の軽減といった土台がなければできません。

私も疲れている時に自分から人種差別的な言葉が出てくる時がありました。他者への共感を身体レベルで浸透させるには練習しかないのだと思います。そしてそれは、結果的に自分も満たされた感覚を持つことにも繋がります。怒りや不安に駆られてしまうのではなく、もっと様々な感情を自由に感じたいのです。そして、誰もが初めから完璧にできるわけではなく(そこに必ずしも悪意があるわけではない)、様々な人生の過渡期にあったり、それぞれのキャパシティの中で、学びの過程にいることを尊重したいです。

絶望ーそして愛情や信念から出発すること

中高校生の時、私は社会を憎み、自分の能力にプライドを持つことで、なんとか自尊心を保ってきました。自分を大切にできず、社会への不信感から助けを求めずに孤立し、自分が社会にポジティブな影響を与えられるか、諦めや絶望に近い不安を持っていました。去年、活動をしていた時も、怒りやなすべきことで怖い人間になってしまって、人間の善意や美しさを見れなくなったり、社会への絶望感を感じたりすることがありました。でも、社会や自分を否定したり憎悪したりしているうちは、本当に変えたい、変わりたいという可能性を信じることができていないことに気がつきました。

ここ1〜2年、ストレスによる持病から回復する中で、人生をもう少し包括的、長期的に捉え、社会と自分に愛情を持って繋がり、癒す方法を探しています。現実は、希望を持ったと思ったら落ち込んだり、うまくいったりいかなかったことを後悔したりの連続です(ほんとちっぽけ!)。

わたしは、自分、自分の命を委ねる他人や世界、そして自分が寄与する世界により深い愛情と信念を持とうとしています。

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